12月 9 2014
ヌーソロジーの量子論解釈
11月のレクチャー資料done。量子論と意識の関係がかなりコンパクトに整理できた感じ。だけど、この内容、果たして4時間で話せるのかどうかチト不安。。
まずは簡単に量子力学の世界がどんな世界なのかをイメージさせる話に始まって、波動関数や、微分演算子の描像にトライする。こんなことは誰もやったことがない。だから、それが革命的な試みなのか、最大のトンデモなのかは、後世の人たちの判断に任せるしかない。
僕自身の現在の量子論に関する見解はおおむね、次のようなものだ。
主客未分離の状態から主体と客体がどのように出現してくるのか。量子論はその仕組みをすでに構造として把握している。でも、その構造に何の意味付けもなされていないために、単なる数学的形式の表現のみにとどまっている。それもこれも、物理学的思考が量子をあくまでも客体的対象として見なすクセから脱却できていないためだ。時間と空間をベースにして量子を記述すると、必ずこのクセの術中にはまってしまう。というのも、時間と空間が主客分離の本質的な要因となっているからだ。僕のなかの存在感覚では、時間が客観性を作り、空間が主観をまさぐっている。
こうしたクセを矯正していくためのポイントはただ一つだけのように思う。複素空間を構成する虚軸と実軸を単なる数学的観念の産物と捉えずに、そこに心理的に当必然的と思われる意味を直観することだ。それが、いつも言っている3次元空間の中で同一化してしまっている奥行きと幅の差異化に通じている。奥行きは虚軸、幅は実軸。もちろん、この虚軸には〈見るもの=持続持続〉、実軸には〈見られるもの=イメージ〉の意味が含意されている。世界には自己と他者がいるので、この奥行きと幅で構成される複素平面は2枚設定されることになり、知覚野は複素2次元空間へと変貌する。
こうした空間の形式を世界にセットした瞬間に、わたしたちの空間は一気にアルケーとしての無限小世界へとワープする。見ている世界はもう時空ではなく、世界の発生論的境位、つまり、現象学的始源となるということだ。世界は今から創造されていく——この反転の空間認識が物理学を真の自然学へと変容させることになると思っている。カバラにあるツィムツームを、具体的な思考の結実として反-現実化するためには、物理学がその根幹になければにっちもさっもいかないのだ。
わたしの精神は明確にある痕跡としての線を辿っているのであり、わたしの思考もまた、その線に沿って振動している。その線を思考自体が見出さないかぎり、思考はつねに無意識を茫洋としたイメージでしか追うことができない。エクステンドも大事。クラルテも大事。しかし、エクステンドはクラルテがあってこそ、ディオニソスの酩酊から、華麗なるヌースへの変身を遂げることができるのだと思っている。そこには生成を生成たらしめていく調和のハルモニアがある。
この「存在すること」から「生成すること」への不連続的連続とも呼べるような接続。ここに降り立つのが光子〈フォトン〉だと思っている。OCOT情報は「存在と生成の等化」という意味で、この光子のことを「真実の人間の精神」と呼んでいる。OCOTに拠れば、光子とは存在の精神を反転させ、それ自体に進化をもたらす力のことである。世界を存在と生成に二分割した黄金比そのものの力と言っていいだろう。photonの接頭語phは黄金比φ=phyからの派生でもあるのだ。
人間は無意識の発展の歴史に伴って、時間に対する感じ方を変えてきた。ドゥルーズの時間論を参照すれば、現代とは第三の時間が支配的な時代である。第三の時間とは、たががはずれた時間、発狂した時間とも呼ばれ、単に物差しのように直線化してしまった時間のことを意味している。こうした時間の中では、もはや、人間は時間として生きる存在ではなく、時間の中で生きる存在となり、時間は現実としての人間の生からかけ離れた生態を持つようになる。
ドゥルーズにとって、このことは朗報のようだ。この直線化した無限の時間は、永遠回帰の前触れでもあり、この時間の先には別の円環へと繋がる契機があることをドゥルーズは示唆している。時間はそのとき、その頑な直線性を無限遠点の到来とともに円環に丸めこみ、世界に根源的時間の出来を用意するのかもしれない。ヌーソロジーはそこに関わっているという自覚がある。
しかし、ドゥルーズがいう第三の時間の極限には単なる円環化や捻れだけではなく、分岐があるということ。それを明言しておきたい。数学的には直線的時間を象徴する「−1」という時間の計量が二本の「i」(虚軸)へと分離していくということ。それによって、外在世界はすべて始源から見た風景へと塗り替えられ、父に支配されていた物質は、母なる物質マリア・マテリアへの変容を見せていくのだと思う。
何はともあれ、この母なる物質世界への侵入が、ヌーソロジーの量子論解釈から始まる。
12月 12 2014
ヌースレクチャー#3のためのドゥルーズ哲学の予備知識——その1
1.ドゥルーズのいう「差異」って何?
次回のヌースレクチャーではドゥルーズ哲学とヌーソロジーの擦り合わせを行っていこうと思っています。レクチャーのための準備作業ということで、今日から約2ケ月間の間、ドゥルーズ哲学とヌーソロジーの共通点について、いろいろとつぶやいていこうと思います。
ドゥルーズ哲学は別名、「差異の哲学」とも呼ばれているのですが、最初に「?」となるのは、この「差異」という言葉の意味です。おそらく、ネットで調べても、この「差異」に関しては、いろいろな人がいろいろなことを言ってるので、混乱を起こすと思います。
この差異は普通、僕らが「これとこれは色が違うね」とか「君と僕は考え方が違うね」とか言うときの、「違い」のことなんかでは決してないので、まずはそこをしっかり押さえておいてください。80年代のイケイケ資本主義の時期に「差異の戯れ」とかいう言葉が流行ったので、それとゴッチャになってる。このへんは紹介のされ方にも問題があったかも。。
ドゥルーズのいう「差異」とは、一言でいうと「存在と生成の差異」なんだね。「あること」と「なること」の差異。抽象的で分かりにくいけど、誤解を恐れずにキリスト教的言い回しで言えば、「創造されたものの世界」と「創造するものの世界」の差異のこと。つまり被造物の世界と創造者の世界との差異なのね。
で、ドゥルーズはこの存在と生成の差異を見極めるためのとっかかりを、まずはベルクソンの持続概念の中に見たの。創造された世界では時間が存在として君臨しているのだけど、創造する世界では純粋持続が別の根源的時間の中で生成の運動を行っていて、その持続の多様な活動の中から存在が出現してきたのだと。要は、存在より生成を重要視するわけ。
存在が支配する世界では、事物はすべて存在するものであって、なるもの、つまり、生成にはなり得ない。今の人間の意識の世界は、こうした存在が持った一義性に支配されていて、すべてが、「何々がある」とか、「何々である」とか、この「ある」という、英語で言えばBe動詞によって支配されているわけだね。
世界のこうした現前の仕方の中で活動する人間の意識状態のことを、ドゥルーズは「現働的なもの」と呼び、一方、こうした存在としての活動を生み出した生成の世界はこの「現働的なもの」の裏側で「潜在的なもの」として働いている、とします。ドゥルーズのいう差異とは、この両者の間にある差異のことです。いや、より正確に言えば、〈現働的なもの-潜在的もの〉というように、現働的なものが表に出て潜在的なものが裏に回った世界と、〈潜在的なもの-現働的なもの〉というように、潜在的なものの方が表に出て現働的なものが裏に回った世界との差異です。
ドゥルーズ哲学にはこうした「差異」に対して「同一性」という言葉が頻繁に顔を出します。この同一性とは、さっきいった「存在」とほぽ同じ意味と考えていいです。人間の世界が成立している根拠を与えているもののことであり、ドゥルーズはここに神、自我、表象の連携を見ます。
ですから、ドゥルーズにとって「差異化する」とは、神、自我、表象を逃れ、人間の思考に巣食うあらゆる同一性から逃れている「潜在的なもの」の次元へと、つまり「なること」の次元に向かって、人間を人間ならざるものへと解放していくことを意味しています。——今日はこのへんで。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: ドゥルーズ