1月 22 2007
差異と反復………8
3、その抽出された概念を被造物の根源的要素とも言える光子と結びつけることはできないか。
さて、ここからが問題の核心に入ってくることになる。ヌース理論とは一言で言えば、意識と物質の統合理論である。統合というからには、それは意識の理論ではあってはならないし、また、物質の理論であってもならない。また逆に、それは意識の理論でなければならないし、かつ、物質の理論でもなければならない。この双方の要請を満たすためには、当然、その思考対象として物質と意識を仲介するための第三の新種の概念が必要となる。それがこのブログでも時折顔を出している「観察子」というヌース理論特有の概念だ。観察子が「観察」という意識的要素と、「子」という粒子的要素を併せ持った名称になっているのもそうした動機付けがあってのことだと思ってほしい。要は、物質構造も意識構造も観察子から成り立っている——そうした考え方のもとに全く新しい宇宙生成論を作り上げたいのである。
今までの論旨の運びを振り返ってみよう。
まずはハイデガーが提起した存在と存在者の差異を創造者と被造物の関係と見なした。そして、その関係は被造物の世界では空間という「一」とモノという「多」の関係として現れているのではないかと仮定した。そこで、被造物世界における存在と存在者の差異は空間とモノとの差異として見なされるのではないか、という推論を立てた。そして、この空間とモノの差異を幾何学的に追いかけてみると、結果として、反転した3次元空間の存在が要求されることになった。反転した3次元空間の実質的意味は射影空間の性質を通して、知覚が成立している視野面そのものの在り方であるということが予想できてきた。知覚が立ち上がっている場所はいまだ自己が生まれる前の純粋知覚の場であり、ここは未だ剥き出しの無意識の主体の位置ではないのかという予測を立てた。哲学的議論からすれば、この場所は第一の内在面とも呼べる場所であり、ハイデガーのいう「現存在」たる人間そのものの萌芽の場所となっている。とまぁ、こんな感じになるだろうか。
このことから、最初に見えていた空間とモノは当然、現存在たる人間が見ているものであるから、本当は、現存在=という差異が先に存在しており、その後、空間とモノという対化が反復のもとに観察に晒されている、ということになる。つまり、外面の3次元が先手で、内面の3次元は後手なのである。差異がまず存在し、その後反復がくる。なぜなら、差異という回転力がなければ反復という振動が起こり得るはずがないからだ。反復は差異の下次元的射影である。このへんの事情は「差異と反復1」に描いた図を見ていただければ一目瞭然だろう。
君が目の前にモノと空間を認識しているとき、意識はその両者の間を反復している。そして、その反復力の大本となっているのは、それを見つめている君自身の存在なのだ。右行ってぴょん。左行ってぴょん。右行ってぴょん。左行ってぴょん。それに飽きたら上行ってぴょん。下行ってぴょん。下に見えるは、左右のぴょん。あ、ぴょん、ぴょん、ぴょん。おっとさんが呼んでも、おっかさんが呼んでも、ききっこなぁ〜しよ。井戸の周りでお茶碗かいたのだぁ〜れ?
悪ふざけはこのくらいにして、いよいよ核心に触れなければならない。それは、今まで話してきた差異と反復の幾何学的鋳型をもとに、この構造をどのようにして光子(電磁場)と結びつけるのか、ということである。電磁場は場の量子論によれば、複素平面上の単振動として表せることが分かっている。つまり、電磁場も差異と反復の構造を持ち合わせているわけだ。では、電磁場においては一体何が差異で、何が反復しているのか——まずは、その様子を複素平面上の円運動からチェックしてみることにしよう。 つづく
(今回でこの連載は止めようと思ったけど、トーラスさんからの激励があったので、もちっと続けますたい。)
3月 22 2008
時間と別れるための50の方法(3)
●アルケー、十字架、イエス・キリスト
ルシファーとしての光は左右方向に横切る光。それは秒速30万Kmとしての光。
ルシフェルとしての光は奥行き方向に存在する光。それもまた秒速30万Kmとしての光。
これら二つの光の違いとは一体何か——。
奥行き、つまり身体にとっての「前」という方向性は左-右でも上-下でもない何か特別な方向性です。僕らの見るという行為はこの「前」という方向性においてしか成立することはありません。現象とは「前」で光として開示している何ものかです。ハイデガーという哲学者は『存在と時間』という著書の中で、「現象」を「自らをそれ自身に則して示すもの」として規定し、存在を現象にもたらすことを現象学の根本課題と見なしていました。存在は、あらゆるものが現出してくるその根拠として先行的に了解されているという意味では、最も自明であり、最も現象の名にふさわしいものですが、「わたし」という自我が出来上がったのちの認識される世界においては、現象は姿を隠し、それは匿名的に機能し隠蔽されてしまいます。時空という名において捉えられる「前」と、それ以前にある「前」とは、その意味で全く違うものとして考える必要があるわけです。
奥行きに左右と同じ幅という概念を与えることによって長さを持たせることは、現象そのものを見えなくさせてしまいます。現象とはいかなる判断をも与えられる以前の裸形の「前」のことであり、この純粋知覚としての現象は視野空間上でペタンと面に潰され、薄い皮膜(アンフラマンス)のようなものとして存在させられています。前回、奥行き方向とは時空の方向であり、そこには空間的距離とともに時間の経過も含まれていると言いました。とすれば、奥行き方向が一点で同一視されているというこの知覚的現実は、そこにすべての時間的経過をも内包している、ということになります。「わたし」がこの世に生を受けたのがたとえ50年前だとしても、この純粋知覚の中に含まれている奥行きという空間の深みの中には137億年という宇宙開闢以来の時間の流れが一緒に畳み込まれているということです。つまり、奥行き方向に存在する光においては、「今、ここ」と宇宙の始源の場所とは同じものとして考える必要があるわけです。僕がいつも「始源(アルケー)」と呼んでいるのはこの薄い皮膜、存在の皮膚としての光のことを言います。
アルケー=光。この覚知に至ることがヌース理論でいう「人間の外面の位置の顕在化」です。今まで人間の意識の営みの中で隠蔽されていたほんとうの主体が姿を現すのです。この奥行きにおいての無限小の厚みの中に、今という永遠が存在している。そして、そこが「わたし」という存在の根本的なプラットフォームになっている。現存在としての人間が位置する場所にはこのような永遠が常にセットになって張りついています。これをクリスチャンならば「我、神とともにここに居ます」と表現することでしょうし、哲学者であれば「不動の大地」と呼ぶことでしょう。こうした思考のもとにおいてのみ、何故に相対論において光速度が絶対的な役割を果たしているのかが分かってきます。物理学が解釈を放棄している4次元不変距離(ds^2 = dx^2 + dy^2 + dz^2 – c^2dt^2 ds^2 = 0)の本質的な意味が見えてくるわけです。
目の前で無限小の厚みにまで潰された時空。これが現象の基底としての光の正体であり、その光が持つ速度のもとでは時計の針は止まり、空間は無限小の長さにまでに縮まり、4元ベクトルゼロが出現してきます。つまり、何が言いたいのかというと、一点同一視された奥行き方向としてのこの4次元こそが、アインシュタインが言うところの「無限大の速度としての役割を演じている光」そのものの意味だということです。そして、この永遠が張りついた場所こそが時間の流れ自体を感じ取っているほんとうの主体の位置にほかなりません。要は、ほんとうの主体とは見ているものでも、見られているものでもなく、見ることそのもの、つまり、光だということなのです。このことに人間の意識が気づいたとき、すべての人間は創造の開始者、つまり、アルケーとしてのイエス・キリストへと変身することが可能になります。
コ : 見ること自体が「真の主体」なのではないですか?
オ : はいそうです。有機体(カタチのない精神)が最初のカタチを持ったということです。
永遠の相のもとに現れる形。これがOCOTが「カタチ」と呼ぶ、形本来の形のことです。このことは、幾何学とは本来、永遠という場所性の中においてしか意味を持ち得ないということを物語っています。時空の中でカタチを構成するのは原理的に不可能です。たとえば、僕らが地球と月を結ぶ38万kmの長さの線分をイメージするとしたらどうでしょう。たとえその線分を光速度で追いかけたとしても、時空の中では1.3秒ほどの時間かかってしまうことになります。しかし、実際の意識を確かめてみれば分かる通り、月までの距離を想像するのに時間は必要としません。カタチはその大きさがどのようなものであれ、一瞬で即時に把握されている何かです。また、一瞬で把握されなければカタチという概念自体が意味を持たないものになってしまうことでしょう。正4面体を構成する4つの頂点を認識するとき、それぞれの点の把握にタイムラグがあれば、正四面体というカタチについて何も言えなくなります。ほんとうの主体とは永遠性のことであり、この無時間の主体の位置の連携によって初めて幾何学というものが構成されてくるのです。
オ : 人間の意識はカタチを見る方向に入っています。わたしたちのいうカタチとは見られるものではなく、見ているもののことなのです。
目の前に表れた視野空間上にx軸とy軸の十字架をそっと置くこと。そして、そこで磔刑に処されている光の意味について考えること。さらに言うならば、そこに垂直にイメージ化されている3次元目のz方向の意図について深く思考すること。このz方向としての幅と同一化してしまった空間的奥行きとは、光の身体であるイエスの脇腹に刺されたロンギヌスの槍のことであり、人間の意識をシリウスに接続させることを妨げている深淵のことなのです。この深淵の支配者が時間であり、人間という次元の本性です。
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 9 • Tags: ハイデガー, 内面と外面