1月 8 2015
神の撤退
ドゥルーズはモナドを神の逆数として定義している。すなわち神が∞であるなら、モナドは1/∞であると。時空という場の同一性はこの神の∞に由来し、自我の思考もまたこの∞に付き添っている。宇宙は巨大なもの、時間は無限等etc……。
言うなれば、神の創造の惰性のままに人間はより大きな財、より永き寿命、より巨大な権力、より強大な国家というように、マクロを志向するクセをもたされているというわけだ。
「創造の原初には悪が混じっていた」といた考えるのがルーリアカバラだが、自分自身を神と見間違えたこの自我が持った「より大きな、より永き」への志向性。今やこの志向性は「悪」と呼べるところまで育ってしまったのではないか。おそらく、この「悪」を払いのけるために神は世界から撤退する。
神の世界からの撤退——それがルーリアカバラの革新性でもあった。そしてこの撤退はツィムツーム(収縮)と称される。つまり、神は∞から、その逆数1/∞へとモナド化を決行するのだ。この神の身振りが「幅で支配された世界から、奥行きの世界への反転」にリンクしている。世界は今、再び、その局面へと入ろうとしている。
時間と空間という幅で支配された世界に物質は出現しているかのように見えるが、この出現は仮面であって、その背後には何もない。その背後には無以外の何物もない。物質の原理はすべて神の収縮の中に隠されている。だから、いま、ここに、神と共に収縮を試みること。
それが、世界を時空ではなく、複素2次元空間として見るということの意味合いででもあるだろう。
2月 27 2015
カタカムナ人の世界へ
相似象学会誌第四号を再読中。久々に読んだけど面白い。時間と空間に対する考え方がヌーソロジーと全く同じ。
「トキトコロは現代人の時間空間とは全く関係なく、物質の中に存在するマリ(粒子)であり、物質の質量といわれているものは、このトキトコロのマリの量によるもの云々」P.126。
空間や時間といった延長性がどのようにして微粒子の中へと入り込むかという仕組みがカタカムナ人には見えていたんだね。ただそれが「奥行きを通して」というところまでは、楢崎さんや宇野さんは思考していなかったようだ。
思考の場を奥行き=持続において、それ自身をカム(潜象化)と見なせば、アマ(延長性)とカム(収縮性)の接続のルートが開き、思考は自在にマリ(粒子)と化し、ヒビキ(霊引き)によって、アマナ(原子核)の構成の場所へと入って行ける仕組みになっている。それが複素空間における回転性だね。
そう考えると、現代物理学というのは潜象界のヒビキの地図作成術に携わってきたアマ側の活動のようなものだったとも言えるんじゃないかな。そして、そこに見出されたものがヤサカノマガタマ(七種の単玉)で、これを現代物理学は余剰次元としての7次元球面S^7として見ている。そんな感じだね。
でも、大事なことは、こうした知識を対象として所有することではなくて、やっぱり「それに成ること」なんだと思う。これがぶ厚いカベ。だから、自分を持続の中に溶かし込んで、持続そのものとなって思考する努力と忍耐が必要不可欠なんだね。
スピノザのように「永遠の相のもと」に、ベルクソンのように「純粋持続に身を投げ入れ」、メルロポンティのように「奥行き」において、ドゥルーズのように「非人称の主体」として思考する分身を内在性の中に育んでいくこと。これが霊性を思考する者にとっての絶対条件と言えるんじゃないかな。
でも、それって、すでに生きながらにして死んでいる者だったりして(笑)
そう、それでいいのだ(笑)。
生と死もまたマワリテメグルものなのだから。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カタカムナ関連 • 2 • Tags: カタカムナ, スピノザ, ドゥルーズ, ベルクソン, メルロ=ポンティ