5月 8 2015
次元、カタカムナ、もの。。。
物理学は空間の次元を線分の直交性で見ますが、この次元観は忘れましょう。本当の次元とは「球」でみないとダメです。「球」=「霊(たま)」と言ってもいいですが、次元とは精神が形作っているものであって、物体としての3次元が形作っているものではないんですね。
そのためには、線と球体を同じものとして見ることのできる認識を作らないといけません。
一番分かりやすいのは、球体としての物体と視線の関係です。目の前でこの物体を回転させたとき、視線は物体が持っている球状の空間をすべて含み持つことが分かります。つまり、物体の空間においては球だったものが、視線の空間では線へと変換されているということです。この球体→線という以降は、視線の空間、つまり、「見る」ということが起こっている空間は、物体が形作っている空間よりも次元が高い、ということを意味しています。
次に視線を回してみましょう。そこには新しい球空間が出現してきます。自分の周囲の空間です。しかし、視線自体は常に身体の「前」方向を向いているわけですから、身体にとってはその球空間は一本の線にすぎません。ここでも、球体が線へと変換されていることが分かります。
こうして次元は線→球体→線→球体→線………というように、球体を次の次元の線へと変換することによって次元を上昇させていきます。
このような認識で空間が見えてくると、空間の収束性と重畳性というものがハッキリと意識に浮上してきて、空間に内在しているほんとうの次元構造というものが分かってきます。カタカムナではこうした収束性と重畳性のことをタバネタチ(=収束性)とカサナリタチ(=重畳性)と呼んでいるようです。
この「本当の次元構造」というのが素粒子構造です。4次元時空というのは、むしろこの本当の次元構造が全く見えなくさせられている状態です。
その原因は、時空では無限遠点が抹消されているからです。無限遠点が抹消されているという意味では、時空は次元が存在していない世界と言ってもいいでしょう。
「無限遠点が抹消されている」というのは、観測者が空間に含まれていない、という意味です。
タバネタチ=空間の収束性は、物理学では波動関数の表現空間、スピン空間の表現空間など、それぞれ表現の違う複素空間で表されています。
カサナリタチ=空間の重畳性の方は複素空間の虚軸と実軸の直交性と時間と空間との直交性の重なりの中に表現されて行きます。
この辺りの仕組みをカタカムナは「トキ・トコロのマリ」として表現しているようです。
この「トキ・トコロのマリ」の無限の重合性が「もの」を構成していきます。無限遠点を含んで認識されているものが「もの」で、無限遠点が全く認識されずに時空に表出している「もの」が物質と考えるといいと思います。「もの」と「物質」は全く違う存在です。
「もの」においては内部と外部は等化されていて、「もの」は自らの内部性を外部へと反転させて、外部から自分を見るような場所を送り出しています。それが肉体として現れている自我の位置です。その意味で言うなら、自我は主体ではなく、「もの」が自分を外から観察するために設けた場所にすぎません。
つまり、「もの」が自我において「もの」を見て、考えているのです。「ものごころ」というやつですね。
しかし、現在、この「もの」が「もの」本来の場所に戻ろうとし始めている感覚があります。この「もの」への回帰感覚を切り開いていくことができるのは、日本語の精神ではないか、と最近はいつも、文字通り「もの想い」にふけっているのですが、あまり理解されないので「ものさみしい」想いで過ごしています(笑)
5月 22 2015
存在の光(ひかり)から生成の光(みつ)へ
肉眼は物質空間にあると言っていいと思うけど、見ることが起きているのは物質空間じゃないよ。この感覚を早く取り戻さないとね。
見ることというのは、そのままで空間の反転を意味していると考えないといけないよ。つまり、見ることが起こっているのは時空の中ではなく、エーテル空間なんだ。物理学では光速度になると時間が止まるとか、空間が縮むとか言うけど、実は見ること自体がそのことの意味なんだよ。そして、そこに君の精神が息づいている。つまり、世界を見ているのは魂であって、目ではないということ。その感覚をこれからゆっくりと育てて行かないといけないね。
目が世界を見ているという思い込みは、自己が他者の光を浴び過ぎているからなんだ。要は、他者の光によって自己の光が去勢されているの。去勢の結果、そこには影が生まれちゃう。影と影が出会うと、漆黒の闇が生まれ、やがてそこに悪が住み着いちゃう。
そこで、ルーリアカバラはこう語るんだ。〈アインソフ=世界の始源〉は決して純粋な光なんかではなかった。そこには悪が混じっていたって。神は宇宙の創造に当たって、この原初の空間から撤退した。その撤退は〈ツィムツーム=収縮〉と呼ばれている。
幅の空間に満たされた光というのは、実は他者の光なんだ。幅の空間を満たしている光は、主体と客体の分離を許容している光であって、そこでは、光は神とわたしの不連続性を補完するものとして働いている。これが言葉のことだと思うよ。
『創世記』の「光あれ!!」や『ヨハネの福音書』の「初めに言葉ありき、言葉の命は光であった」というフレーズからも分かるように、本来、ユダヤ的な光というのは、この幅の空間に満ちている光、言葉を宿した光として君臨していた。
でも、ルーリアはこのユダヤの顕教的な光に対してグノーシス的な謀反を起こした。他者の光=幅の空間の光に対する自己の光=奥行きの光のレジスタンス。これがツィムツームの本質と考えるといいと思うよ。
奥行きの空間を満たしている光においては、光と空間は分離していない。そのまま奥行きが光の一部と化して、生成の精神として活動している。この光は世界を照らし出す光ではなくて、世界に潜り込む光、世界内部空間の光になっているんだよね。
世界を照らし出す光は自らの空虚さを隠蔽するかのようにギラギラと輝くのだけど、世界内部空間の光は、ちょうど日本人におなじみの提灯や行灯のように、薄膜の中で控えめに揺らめいている。それは光(ひかり=日借り)というよりも、光(みつ=蜜)のようなものなんだよね。
生成の甘い蜜。
そして、「もの」に秘められた秘密の光(みつ)。。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: カバラ, ツィムツーム, ユダヤ