2月 14 2006
ふうさんがカフェ・ネプで「理解すること」の本来性について書いてくれていた。世の中ではいつも、相互理解や相互了解という言葉だけが決まり文句のように一人歩きして、理解という「行為」そのものに対して真の理解を促す人はあまりいない。僕の「理解」に対する触感は一言でいうと、次のようなものだ。
——「理解」とは宇宙の血流であるべきである。
「事物が織り成す意味はそれを眺めるのではなく事物のうちに棲み込むことで理解される」と言ったのはポランニーだけど、こと相手が人間だけではなく、あらゆる対象に対する理解の在り方はその中に「棲み込む」ことじゃないかと思う。棲み込む、というからには、理解とはその対象と同一化するということでもある。つまり、知を「モノにする」ではダメで、知として「モノになる」じゃないとダメなのだ。僕が君を理解したというとき、僕は君になる。僕が動物を理解したというとき、僕は動物になる。そうした変身の技が理解本来の意でなくてはならないと思う。でないと、知に一体何の意味があろう。
そうした理解本来の意味の在り方を最も象徴しているのが、英語のunder-standという綴りなんじゃなかろうか。over-standではなく、under-stand。上からモノを見ていては理解にはほど遠い。何事も下から、事物の最もボトムから世界を見なければいけないということだ。これは事物のうちに棲み込むというポランニーの表現を彷彿とさせる。この下部への接続はヌース理論の文脈で考えても極めて興味深い。というのも、ヌースでは最もマクロなもの(時空=自我)が最もミクロなもの(電子=主体)へと同化することが、潜在的なものから顕在的なものへの変身、つまり、エラン(跳躍)と見るからだ。ヘーゲル的な視座からライプニッツ的な視座への一発逆転。アインシュタイン的な視座からベルクソン的な視座への一発逆転。これが理解/under-standに倫理的な創発-行為としての意味作用をもたせることになる。
ちょっと固い言い回しだが、これは、僕らの本性=魂は実はモノの最も奥深い内部に棲み着いているということを意味する。モノに住み着くことのできないマクロな魂は、物を所有したいという欲望と、物を理解したいという知の欲望に取り憑かれる。しかし、そうした欲望は本当はモノに棲み着いているはずの魂が、モノの上に立っていると錯誤していることによって生じているものだ。マクロの魂はコギトの亀裂を埋め合わせようと必死にもがいているのだが、こうした魂が持つ理性は、思考の諸表象をモザイクのように組み合わせて、それが体よく整理整頓されることを理解と思い込み、モノの屍骸の陳列だけで満足してしまう。知のコレクターとはそういうネクロフィリアのことだ。大学という旧い体質の中で囲われている学問はどのジャンルにせよ、こうした屍体愛好症の域を出ていないと思う。 森羅万象を彩るあらゆる事物は、その一つ一つの外面で自らの個別性や特殊性を開花させ、何物にも代え難いクオリアのアウラを放っている。これらのアウラを一つの花束にして、事物の根底にあるミクロの魂へと運んで行くこと。それが人間の生に与えられた使命である。人間の目の前に展開されている有り難い此のもの性のすべては、わたしという生ある場で、多様な他の此のもの性と相互に浸透し合い、その有り難さの意味を互いに強化させてはいくが、そこで創造のすべてが花開いて終わるというわけではない。そこからまた、一つの新たな命の流れとして、意識の一体化の潮流の中に溶け込んでいき、再び未知のアウラを形作るために存在の内面性へと回帰していく。こういう万物流転の中に僕らの「生」の意味づけをなすことが必要だ。相互理解はそうやって一つの生き物としてのエランへと変身していくことができる。だからこそ——理解が必要なのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: ベルクソン, ライプニッツ
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ヌースコーポレーション
半田広宣(ハンダコウセン)
著書 「奥行きの子どもたち」「人類が神を見る日」「光の箱舟」他
2月 14 2006
理解することを理解するといふこと
ふうさんがカフェ・ネプで「理解すること」の本来性について書いてくれていた。世の中ではいつも、相互理解や相互了解という言葉だけが決まり文句のように一人歩きして、理解という「行為」そのものに対して真の理解を促す人はあまりいない。僕の「理解」に対する触感は一言でいうと、次のようなものだ。
——「理解」とは宇宙の血流であるべきである。
「事物が織り成す意味はそれを眺めるのではなく事物のうちに棲み込むことで理解される」と言ったのはポランニーだけど、こと相手が人間だけではなく、あらゆる対象に対する理解の在り方はその中に「棲み込む」ことじゃないかと思う。棲み込む、というからには、理解とはその対象と同一化するということでもある。つまり、知を「モノにする」ではダメで、知として「モノになる」じゃないとダメなのだ。僕が君を理解したというとき、僕は君になる。僕が動物を理解したというとき、僕は動物になる。そうした変身の技が理解本来の意でなくてはならないと思う。でないと、知に一体何の意味があろう。
そうした理解本来の意味の在り方を最も象徴しているのが、英語のunder-standという綴りなんじゃなかろうか。over-standではなく、under-stand。上からモノを見ていては理解にはほど遠い。何事も下から、事物の最もボトムから世界を見なければいけないということだ。これは事物のうちに棲み込むというポランニーの表現を彷彿とさせる。この下部への接続はヌース理論の文脈で考えても極めて興味深い。というのも、ヌースでは最もマクロなもの(時空=自我)が最もミクロなもの(電子=主体)へと同化することが、潜在的なものから顕在的なものへの変身、つまり、エラン(跳躍)と見るからだ。ヘーゲル的な視座からライプニッツ的な視座への一発逆転。アインシュタイン的な視座からベルクソン的な視座への一発逆転。これが理解/under-standに倫理的な創発-行為としての意味作用をもたせることになる。
ちょっと固い言い回しだが、これは、僕らの本性=魂は実はモノの最も奥深い内部に棲み着いているということを意味する。モノに住み着くことのできないマクロな魂は、物を所有したいという欲望と、物を理解したいという知の欲望に取り憑かれる。しかし、そうした欲望は本当はモノに棲み着いているはずの魂が、モノの上に立っていると錯誤していることによって生じているものだ。マクロの魂はコギトの亀裂を埋め合わせようと必死にもがいているのだが、こうした魂が持つ理性は、思考の諸表象をモザイクのように組み合わせて、それが体よく整理整頓されることを理解と思い込み、モノの屍骸の陳列だけで満足してしまう。知のコレクターとはそういうネクロフィリアのことだ。大学という旧い体質の中で囲われている学問はどのジャンルにせよ、こうした屍体愛好症の域を出ていないと思う。
森羅万象を彩るあらゆる事物は、その一つ一つの外面で自らの個別性や特殊性を開花させ、何物にも代え難いクオリアのアウラを放っている。これらのアウラを一つの花束にして、事物の根底にあるミクロの魂へと運んで行くこと。それが人間の生に与えられた使命である。人間の目の前に展開されている有り難い此のもの性のすべては、わたしという生ある場で、多様な他の此のもの性と相互に浸透し合い、その有り難さの意味を互いに強化させてはいくが、そこで創造のすべてが花開いて終わるというわけではない。そこからまた、一つの新たな命の流れとして、意識の一体化の潮流の中に溶け込んでいき、再び未知のアウラを形作るために存在の内面性へと回帰していく。こういう万物流転の中に僕らの「生」の意味づけをなすことが必要だ。相互理解はそうやって一つの生き物としてのエランへと変身していくことができる。だからこそ——理解が必要なのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: ベルクソン, ライプニッツ