11月 20 2015
「考える」とは能動的思考のことをいう
先日、「天使回廊からの夢」というサイトを運営されている緑川さんという方から、以前、スターピープル誌に掲載された僕の拙稿をサイトで紹介したいという打診を頂いた。この記事はフクシマの原発事故に対してスターピープル誌が特集を組んだときに依頼されたものだ。
http://ange2001.jugem.jp/?eid=317
緑川さんは、日本のスピ系を席巻しているアメリカ仕込みの「安易すぎる、間違ったワンネス観」に常々、警鐘を鳴らし続けられている方なのだが、ヌーソロジーも「考えるな、感じろ」をモットーとするスピ系一般の風潮に、「感じろ、そして考えろ」といつもハッパをかけている。
確かに、今の文明が「考えること」優先で進んできたのは確かだと思う。しかし、その流れは実は「感じること」が要請してきたものだということを僕らは忘れてはいけない。暑い、暗い、不便だ、不快だ。だから、涼しく、明るく、便利に、快適にするにはどうしたらいいのか。。そうやって、テクノロジーが発達し、世界は今のようにある。
気がつくと、感じる主体であった人間は思考が作り上げたこのシステムにがんじがらめにされて、今度は逆に悲鳴を上げている。そこで、今度はもうこれ以上、考えたくない、オレは感じたいのだ、という身勝手な欲望が上がってくる。時代がそうした位相に変わっているのは、別にスピ系に限らず誰もが感じていることだろう。
感じることは必ず考えることを要請するし、考えることは感じることを必ず反射する。この二つは人間が人間である限り宿命的に一つの円環で結ばれていて、交代々々にグルグルと回って反復しているのだ。そして、このグルグルを利用して肥大化していっているのが資本主義であり、貨幣経済であることをまずは僕らは知らないといけない。
僕らが心底ウンザリしてきているのは、「考えること」ではなく、実は、この「感じること」と「考えること」の循環のシステムなのではないかと思う。この両者に共通していることは、どちらも「与えられた」もの、つまり受動的なものだということだ。
僕らはなぜ自分が感じるのかを知らないままに感じ、なぜ、考えるのかを知らないままに考える。人間という存在はとことん受動的なものとして作られているということだ。だから「考えるな、感じろ」と言ったところで、また、必ず、クヨクヨと考えてしまうか、考えることを無意識的に抑圧して自己欺瞞に陥るかが関の山だろう。
ヌーソロジーが「感じろ、そして考えろ」と言っている「考えろ」とは、こうした受動者のシステムから出るためにはどうしたいいのか、ソレを考えろ、という意味だと思ってほしい。ここでの思考はもはや受動的なものから出る思考だから、能動思考というものになる。一言でいえば、与えられたもの(感じることと言ってもいい)をもう基盤にして思考しない、ということだ。
「受け取るもの」から「与えるもの」側へと回り込むには一体どうすればいいのか―。これを実現させていくためには感じることを成立させているものを見つけ出す以外にない。つまり、何が人間に世界を感じさせているのか――これについて考える、ということである。そして、おそらく、こうした思考が思考本来の思考、純粋思考というものなのだ。その意味で言わせていただくなら、人間はまだ何も考えていない。誰も思考なんてしていないのだ。すべては受動的に惰性で動いているだけ。
先日、福山の講演で話した内容は、僕にとっては、この受け取るものから与えるもの側へと回り込むための最初の思考(プローテンノイア)のようなものなんだよね。この「与えるもの」側への反転は「感じる」ことだけでは実行不能だということを知る必要がある。今のスピ系の限界点もそこにあると思っている。
11月 27 2015
イシスの作業――円の内部と外部の分割(差異の顕在化)
福山で話し忘れたので補足しておきます。
複素空間認識を通して「見る空間」と「見られる空間」の反転関係を図示すると下図のようになります。「見る空間」がブルーの部分、「見られる空間」がレッドです。
「-i」に観察の位置を想定して下さい。この配置がグルッと回ると、ブルーとレッドが円の内部と外部できれいに二分されるのが分かります。
ここでの複素平面の回転は観測者の自転を意味しています。中心点は位置の統一化が起こっているところで、イマージュがすべて重なり合って発生しているところです。
観察者の自転によって分割された単位円の内部と外部の関係は、平たくいうと、自転を行なったときの観測者の「前」と「後ろ」の関係です。
わたしたちは「見られる」空間のみで空間を概念化しているので、「見る空間」がこのように内包空間であることに全く気づいていないのですね。ここで生まれている内包空間の構造をしっかりと概念化していくと、精神と素粒子は美しい秩序をもって合体化してきます。
「ミクロ(持続の世界=心)」と「マクロ=時間と空間の世界」が目の前で二重化して重なっているという意味が、これから徐々に多くの人に理解されてくるようになると思います。空間認識の劇的な変化がまもなく起こってくるということです。
この内容をピラミッドテキストは次のように端的に記しています。――アヌビスは水平な円であり、これにより「目に見えないもの」、すなわちネフテュスと、「目に見えるもの」、すなわちイシスが分割される。この円は光と闇の境界に存在し、光と闇に共有されている(ブルタルコス)。
カタカムナがいうように素粒子をココロと呼ぶなら、僕たちの世界観や人間観がココロの実在性をいかにおろそかにしているかが分かるよね。ココロをカタチあるものとして復興させていくこと。それがイシスの作業なんだよね。素粒子は物質じゃないよ。僕らのココロの基盤となっているものなんだ。
物理学も哲学も宗教もスピ系も単に表現の多様性の中で反目し合っているだけ。互いが互いを批判し合っても何も生み出さない。すべての知識は自我の鎧にすぎないということを再確認しないとね。その鎧を外していくための純粋思考の通路を、まっさらな一つの魂となって作り出していかないといけない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: イシス, カタカムナ, 顕在化