1月 12 2016
今年も飛ばします!!
今年の初書き込みなので、とりあえずご挨拶から。
遅ればせながら、明けましておめでとうこざいます。2016年は第七交替化シリウス暦4年ということで、中和の原型が作られる年です(笑)。中和というのは等化が二つ作り出されることでもあるから、今年は「位置の交換」が自他双方から起こってきて、光と闇のコントラストがより一層強くなってくるかもしれないね。
いやな事件もいろいろと起こると思うけど、ヌーソロジーは精神-物質連続体の実現のために今年も昨年以上にアクセル全開で行こうと思います。
ということで、ツイッターより抜粋。
空間を量的な無差異の場所と見なすのはそろそろ止めにしないか。空間はほんとうは精神の場所そのものなんだ。ここには物質的知性がまだ知らない、空間本来の驚異的な組織形態が存在している。それが僕らの意識を成り立たせている。そこに入っていこう。高次元世界とはそういう場所なんだ。
数学者や物理学者は、高次の空間を相変わらず3次元的な空間概念の延長にイメージしているけど、そういう描像は何の意味も持たない。高次元とは時間を超えているのだから、それは持続体の空間のことであり、言って見れば自分自身の根底を流れている生命なんだよね。
敢えて扇動的な言い方をすると、それは死の空間と言ってもいいかもしれない。だから、高次元を思考するものは、もう自分は死んでいる、と思って思考しないとね(笑)。自分が死んでるのだから、相手も死んでいる。3次元にいたかつての自分たちは遠い星での記憶のようなものになっている。だから、優しくなれる。ある程度まではね(笑)。
さて、素粒子が死の空間の入り口になっているのなら、自然というものは人間の死の先にある広大な世界が裏返しにされて現れているということが多少はイメージされてくるんじゃなかろうか。霊が裏返されるたものが物質と言ってるのはそういう意味だよ。
その意味じゃ、現代の科学的宇宙観なんかより、伝統的な霊的宇宙観の方が断然ほんとうのことを言っているのだけど、と言って、物質的知識という毒リンゴを食らった僕たちは、もう古代の叡智やオカルト的知識を持ってその世界へ帰還することはできない、ということをしっかりと自覚しないといけない。
無駄に近代や、科学があったわけじゃないんだ。霊的宇宙全体も成長している。だから、古い霊的伝統を全く新しいものへと変容させて、霊的世界自体を進化させないといけないんだ。霊的世界に戻るのではなくて、霊的世界に変革を起こすわけ。
ここを押さえられていないと、せっかくのイニシエーションが逆イニシェーションになってしまう。それって宇宙的退化だよ。だから、伝統的な霊知も、現代的な物質知も大事にした上で、新しい霊性の場を切り開いていくことが重要なんだ。
ヌーソロジーは今年もこの姿勢を貫くよ。よろしくね。
1月 15 2016
独身者は果たして銀河の花嫁をゲットできるのかーーDAIGOと北川景子の結婚に触発されて(笑)
冥王星の役割とは天王星的なものと海王星的なものの差異を乗り越えるところにあると思ってる。言って見れば、存在における父性原理と母性原理を合体させることだ。これは神さまの精子(ロゴス)を神さまが恋い焦がれている人間という場所(コーラ)に神さま自身が送り届けることにほかならない。
ロゴスは当然、男っぽいのだけど、コーラは女の場所のことでもあるのだから、そこに流れ込んできたロゴスに女なるものは戸惑いながらも反応する。この戸惑いの中で変質してくるロゴスが冥王星の力だと思うといい。この力は一見、男っぽく見えるのだが、実はすでに女の体液の中に浸かっている。その意味では、冥王星の力はある種、ユニセックス的なものなのだ。
ヌーソロジーは物理学とか哲学といった、言って見れば男のロゴスをギラギラと照りつかせた部分もあるのだけど、きっちりと存在のヴァギナを狙ってそのロゴスを流し込んでいる。存在のヴァギナってのは奥行きのこと。だから、それは子宮を捉えているわけだ。
だから、女の本能であるマテリアル欲求(産出する欲望)に届くロゴスになっているのかもしれない。「わけがわからないのだけど、なんか面白い」と言って、女性たちがレクチャーに多く集まってくれるのも、たぶん、存在の子宮として働く女なるものの原理がそれを直観してくれているからなんだろう。
この思考のユニセックス感というのを大事にしたいといつも思っている。多くの人は思考のタイプを理数系と文系に分けるけど、女なるものの思考というのはそういった分類とはたぶん全く違ったものだ。それは自然の生産力の本質なのだから、はちきれんばかりのエロスで充満している。理系と文系の思考がシームレスに融合したところにしかこのエロスは発動しない。
受精卵をたった十月十日で胎児にまで成長させていくその調和と美の力の流動性の中にはおそらくなんの戸惑いも存在しちゃいないだろう。その力と同じものが、宇宙全体を貫いて生命として生きている。
創造における根源の場とはドゥルーズ的に言えば、延長(物質世界)と持続(心の世界)の接触の位置である。現代物理学はそれを素粒子に見出した。この場では、常に能動的なものと受動的なものとが、表現することと表現されることの主導権をめぐって互いの力を競い合っている。言い換えれば、そこには、人間を超え出ていくのか、それとも人間に止まるのかという、人間の意志の逡巡が起こっている――。
いや、「競い合う」というより「共存し合っている」といった方がいいのかもしれない。「共存」というからには、それらは一つの半透膜のようなものを境にして互いを交換し合っているとも言い換えることができる。その様子を現代物理学は〈x,p〉=xp−px=iℏという位置と運動量の交換関係として提出してきている。位置xを物質世界、運動量pを心の世界と考えるといい。iは虚数単位で、ℏは量子力学において最も重要な定数とされる数のことだ。
物質と精神の間を遮っている半透膜を意味するこの「iℏ」とはわたしたちの純粋知覚量のようなものと考えるといいだろう。瞬間における世界の見えのようなものだ。だから、これは「見る」ということが起きている純粋な視野膜のようなものとも言える。あのデュシャンがアンフラマンス(超薄膜)と呼んだものに等しい。独身者と銀河の花嫁とを遮る微細な膜だ。
延長としての奥行きを持続としての奥行きへと切り替えるためには、この微細な膜を破らなくてはいけない。この膜に触れることのできる思考は、およそ存在するあらゆる思考の中でも最も簡素なものである必要がある。それはその思考が、宇宙の始まりの思考、グノーシス的に言うなら、最初の思考(プローテンノイア)であるからにほかならない。
このプローテンノイアの力によって、無限大としての男の力は、無限小という女のもとに舞い降りることができるのだ。
おいで、景子。今夜は眠らせないよ。(⌒▽⌒)
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: コーラ, ロゴス