5月 6 2006
SUHOさんのご質問に答えて
はじめまして、SUHOと申します。
新著執筆でお忙しい中大変恐縮ですが、この場を借りて、次元観察子の基本的な概念に関していくつかご質問させて下さい。このブログ・記事の趣旨に合わないと判断された場合は遠慮なくこのコメントを削除願います。
こんにちは、SUHOさん。
>まず1つめですが、Ψ1は見えているモノの表面で、Ψ2は見ることができないモノの内部。
はい。ψ1は一つの対象の見えそのものになります。「人神」や「シリ革」では、一つの物体表面からマクロへと広がる空間をψ1と置いていましたが、ψ1、3、5、7という観察子は、ヌースでいう「人間の外面」に当たります。「人間の外面」とは実際に知覚化されている領野です。物体表面からマクロへと広がる空間の中で実際に見えている部分は、ある角度から見た物体の見え姿になります。その意味で、一つの対象の見え姿がψ1に対応する、というように変更を加えています。これは「一個のモノの表面の見えている部分」と解釈されて結構です。
ψ2はψ1の反映で、方向が逆の部分になります。その表面の裏面側から対象中心の0点に向かう方向性の空間のことです。
>Ψ3はモノも含めた視野空間全部(知覚正面:3次元知覚と4次元知覚の境界?)で、Ψ4は見ることができないΨ3の裏側(知覚背面)。
ψ3はψ1とψ2の等化によって生まれる次元です。物体界面のオモテとウラを等化する、つまり、メビウスの帯的捩れを作り出す次元になります。これはψ2をψ*1として想像し、ψ1とψ*1(物体正面と物体背面)を同一化させることによって作り出されます。モノの回転の認識です。
この次元は一つの対象に焦点を当てているときの視野空間そのもの(背景空間を併せ持っているということ)次元とも言っていいと思います。
ψ4は物体背面側に存在しているグルグル回転とその背景空間です。これは、早い話が、一つのモノを挟んで反対側にいる他者に見えているモノのグルグル回転とその背景空間ということになります。対峙し合う自己の視野空間と他者側の視野空間という言い方でも構いません。視野空間は経験的にモノのグルグル回転の自由度をすでに含んでいます。これは視野空間が無限遠の位置そのものであるからだ、とヌースでは解釈します。
>そしてΨ5は、身体的自我(Ψ3)が見つめるあらゆるモノと背景や、それらの記憶や感情を含めて統合的に見ている真の主体の位置(4次元知覚)という理解でよろしいでしょうか。
はい、視野空間を回転させることよって知覚することのできるすべての世界の見え、ということになります。つまり、モノのグルグル回転でψ3の位置が形成され、観測者のグルグル回転でψ5の位置が形成されるということですね。
ψ5の位置はあくまでも自我形成におけるパースペクティブ的な規定と考えた方がいいです。自我を作り出すための大本の位置のようなものと解釈されるといいでしょう。感情や記憶、さらにはそれに付随する意味が生じてくる「場所」のようなものと考えて下さい。感情や記憶、さらには意味といった意識の内容物を見ているのはその位置に重畳する別の位置かもしれません。それらは、感性(ψ10)や性質(ψ12)の中にある感じがしています。
>次に「等化する」ことのイメージについてですが、例えばΨ3とΨ4の対化を見出し、等化してΨ5が顕在化するといった場合、Ψ3は「見えている視野空間」なのでイメージしやすいのですが、Ψ4はそもそも「見えない空間」なので「そのような空間が同時に存在する」と理解するということ自体が「等化」するということでよいのでしょうか?
それはψ3とψ4という「対化」の関係に相当するものではありませんか?「等化」とは、それらの対化を同一視するような一つ上の高次の対称性を見い出すことを意味します。ψ3とψ4の等化の場合、自己側が偶数系であるψ4を奇数系*ψ*3(他者側の3)に置き換えて想像し、それらの間の対称性を作ることで生まれます。これは、自分の知覚背面(ψ4)を他者側の知覚正面(ψ*3)として想像し、自らの知覚正面と貼り付け合わせて「回す」ということです。僕らは、後ろ側は振り返れば見える、と思っています。それが等化の意味です。別のいい方をすれば、背後を知覚正面側に持ってくるということです。そうすると、結果的に自分の周囲に知覚球面のようなものが想像されることになります。これがψ5のカタチです。自我を規定するためのパースペクティブが作られている球面です。
>続いてΨ3についてですが「自己は他者の知覚背面Ψ4*(自己の知覚正面)と自己の知覚背面Ψ4をあわせて世界を3次元空間として認識しており、自己の知覚正面Ψ3は見えていない」といったコメントをブログに書かれていましたが、このイメージがよくわかりません。
ψ3が無意識化しているということです。ψ3とは主体を構成するための部分ですが、誰も視野空間が主体とは思っていませんね。視野空間は物体の背景空間を併せ持っていますが、空間の反転性が見えていないときは、物体の背景に見える空間はψ4になってしまいます。つまり、背景空間を球面の内壁と同じ類いのものとして解釈してしまうということです。こうした認識が人間の内面です。しかし、実際に見えている背景は人間の外面、つまりψ1として見える面と同じ表側の面なのです。それが同じ方向に見えればオモテとウラの捩れの認識を持ったことになります。それが等化です。
分かりやすく説明しましょう。
今、目の前にボールがあるとします。ボールの「わたし」に向いている側の表面が見えているはずです。これが外面です。ここで、ボールがどんどん縮んでいくところを想像して下さい。そして、それが点にまで縮んで、そこで表と裏が反転するイメージを作ってみて下さい。すると、さきほどまでボールの表面に見えていたところは、オモテとウラがひっくり返って、モノの内側の面となって出てくるはずです。しかし、このモノの内側の面は、モノの後半分の内側の面に相当しているはずです。つまり、わたしから見える凸面と見えなかった凹の関係はひっくり返り、物体表面だったところが凹面側に変わってるわけです。そこで、この反転した物体表面をどんどん膨張させていくと背景空間と同じ凹面になっているのが分かります。これが、ψ1が一度反転し、ψ3の位置形成を行っているということの描像です。
僕ら人間はこうした反転性を通して空間を見ていません。そのため背景空間を内面としてしか認識できていないのです。しかし、事実としての背景空間は外面です。自他ともにその錯覚の中で生きている。そうやって、その二つのおかど違いの内面を共有し合って、宇宙の果ては云々〜とか議論している。科学者しかり。宗教者しかり。「自己の知覚正面Ψ3は見えていない」と言ったのはそういう意味です。何とも恐ろしい錯覚だと思いませんか?何もないところを内面概念だけが彷徨っているわけです。誰にも前が見えていない。ψ3が無意識化している、とはそういうことです。
>「知覚正面のみが見えている状態」というのは身体感覚的にはどのように見えている状態に近いのでしょうか?
今言ったψ3が意識に浮上してくると、身体とは実は見えている世界そのものだという感覚に変わってきます。この状態が、僕がいつも言っている「首なし人間」の状態です。既存の身体感覚が「肉体感覚」としてではなく、「モノ自体感覚」とも呼ぶべき概念へと変化してきます。見ることににおいては、見ているもの(見ているモノの手前側に自分がいるという感覚)が存在しなくなる感覚がわき上がってくるようになります。
>正に「2次元の平面」として見えた時がΨ3ということになるのでしょうか?それとも身体的な感覚が伴わなくても、自己が3次元空間ではなく4次元方向の無限遠点からモノを見つめているという理解だけがあればよろしいのでしょうか?
無限遠を単なる概念ではなく、具体的に知覚として感覚化することが必要です。つまり、視野空間そのものの位置に自分を置くこと。三次元的に言えば、それは宇宙の無限の彼方と同意です。4次元的に言えば、今、ここ、としての風景の見えそのものです。光の位置です。さっきも言ったように、宇宙の無限遠の壁面は視野面の手前側と同じ場所。見えているモノの表面側の方向と、宇宙の無限遠として感覚化されている宇宙の内壁は同じ方向です。視線方向が円環でつながっていると想像してみて下さい。比喩的に言えば、無限前方の彼方は後頭部側に出てきます。
>続いてΨ5についてですが、こちらはΨ3の観測点から反転した球体の対極に描像されていますが、この反転のイメージがつかめません。Ψ3が「モノと背景を見ている私」だとすれば、この反転は「私とその背景を見ているモノ」となり、「私が知覚したモノと背景」が含まれないようなイメージを持ってしまいます。
さっきも言ったように、等化とは、まずは対化を見いだし、それらの間に変換対称性を形作ることです。この変換対称性が「回転」に当たります。ですから、わたしの前=知覚正面と、わたしの後=知覚背面の対化関係を同一化させれば、ψ5の次元が生まれてきます。わたしがグルリと回れば、その等化は作り出すことができます。このときの球面は知覚正面も知覚背面もともに含んでいませんか?
>さらに続いてΨ7ですが、こちらはモノの質点0とΨ5(0*)を2極とした4次元球面を、Ψ5を極として更に反転した球面(5次元球面?)のもうひとつの極に位置し、これはそのままモノの質点0に戻るとなっていますが、この「質点0に戻る」意味がよくわかりません。これは、意識→イデア→物質という流れと関係があるのでしょうか?
はい、あります。4次元方向の円環がψ7で完成するということです。意識構造が点のイデアを持ち、それが人間の意識に陽子として反映されてくるということです。ヌースでは、物質全般はこの4次元方向の円環を幾重にも巻いて行くヌースの次元上昇力の影と見なされます。PSO回路が表している世界のことです。
>長くなりまして申し訳ございません。もうひとつあります。>「人間の外面」と「人間の内面」についてですが、「人間の外面」は意識で「人間の内面」が物質(客体)であるというのは自分なりに理解しているのですが、意識進化の方向にあるのは「人間の外面」を見ている状態、すなわち奇数系Ψを意識している状態ということで良いのでしょうか?
はい。人間の外面方向に方向を持っている意識です。人間の外面には、ψ7=パースペクティブの決定、ψ10=感性、
>これは感覚的に表現すれば「あれこれと余計な事を考えずに、目の前の視野空間に起こる出来事に集中する」というようなイメージでしょうか?
違います。ヌースでいう顕在化とは意識内容を見ることではなく、そうした内容を操作している無意識側の構造を露にさせることです。
>総じて、各次元観察子の位置が顕在化した時の身体的な感覚がどのような状態に変化するのかが知りたいです。それとも「身体的な感覚」にとらわれていること自体がΨ3に至っていない証拠なのでしょうか?
はっきりしたことはまだ分かりませんが、少なくとも顕在化でないことは確かです。顕在化は外部に身体性を持つことと同意です。顕在化の思考にはいるためには、自我中心を肉体から出さなくてはいけません。
>以上稚拙な問いで申し訳ございません。今回はどうしてもΨ1〜8を「腑に落ちるまで理解したい」と思っています(昨年は途中で挫折しましたので・・泣)。理解するために足りないと思われる概念などありましたらご指摘頂けますと幸いです。
それは僕も同じですよ。OCOT情報のわずかなヒントを手がかりに、この十数年腑に落ちる観察子構造の描像を求め続けています。過去の三冊の本と現在、ネット上に披露している概念だけでは、現在のヌース理論の立ち位置を伝えるのは不十分かもしれません。まあ、地図がないところに新しい道を作って行っているようなものですから、なかなか大変です。とにかく、自身の鏡像を消し去って首なし人間になることが必要です。もちろん、実生活では首なしにはならないで下さい(^^)。ヌースは二つの認識を同時に持てる者がヒトだと考えます。上半身(外面=変換)と下半身(内面=転換)が両方見えるもの。先手に人間ならざるものを持ち、後手に必ず人間を持つこと。この対化がなければ、精神は真実の人間の次元へ行くことができません。
あと、内部と外部が相互反転するということのイメージを自他の知覚関係の中で何度もトレースしてみて下さい。宇宙の外部側か、モノの内部側に他者の位置が見えてくればOKです。
7月 31 2006
こうした批判はとてもうれしい
不連続的差異論を展開しているrenshi氏の方からヌース理論に対してかなり激しい批判が出ているので、この場を借りて、最初の批判に関してのみ返事をしておきたいと思う。
不連続的差異論における位置の等化批判_ http://ameblo.jp/renshi/entry-10015189659.html
>半田広宣氏の『2013:人類が神を見る日』を読んでいるが、「位置の等化」(p.202~p.203)に疑問をもった。そこの記述から見ると、主体と対象とを「等化」するということだが、これでは、完全な同一性化である。主体と対象の差異を否定して、同一性にしているのである。ここで、ヌース理論は、完全な連続・同一性中心主義、即ち、ファシズム・全体主義になっていると言えよう。たいへん、危険な理論である。
1、位置の等化とは、同一性ではなく、差異化の幾何学的表現である。
「位置の等化」という概念は、無意識の主体の位置を見出す思考作業のことを言います。僕の表現、説明が至らないのかもしれませんが、「位置の等化」には、renshi氏がここでおっしゃっているような意味はありません。確かに言葉の響きの上では「等化」は「同一化」と似た響きを持ってはいますが、その本質的な意味は「差異化」です。主体と対象の差異が否定されている「同一化」という概念は、ヌース理論がいう「中和」の方に当たります。中和とは等化に反映されて生まれてくる対概念で、等化と中和はイデアにおいては相互補完的な関係にあります。
2、「等化」がなぜ「差異化」なのか?
ヌース理論の導入部は、現象学同様、世界という巨大な装置のスイッチを一度OFFにして、その配線について調べようというものです。この配線の思考に入ること自体が差異の思考ではないかと思います。ヌースの場合はそれを言語による思考ではなく、幾何学的なイメージの中にダイレクトに捉えようという試みです。この差異の最も単純な幾何的関係は大森荘蔵氏の言葉で言えば「面体分岐」です。このときの「面」とは知覚正面(視野空間そのもの)としての面を指し、体とは概念によって構成された延長としての三次元性を意味します。こうした還元から、主客概念がどのように成立し、その必要な条件を幾何学的に整理していくのがヌースの第一工程となります。
客体位置は、普通、僕らが慣れ親しんでいるように、0点的(正確には無限小的)な位置の措定として抜き出されます。問題は主体位置の方です。想像的自我が入りこめば、これは当然他者からの認識を通して構成されてくるものですから、主体位置は対象と同レベルの位置へと還元されてしまいます。これがrenshi氏の言われる主体と客体の「同一化」が起きている空間です。しかし、真の主体は、想像的自我が構成される以前の原光景(フロイト)としかいいようがないものなので、それは知覚正面そのもの、つまり、知覚の場そのものとしか言えません。ここで客体の位置と主体の位置の根源的な差異を幾何学的表象としてプロットすれば、それは円板とその中心点という関係になります。これが「対化」という概念になります。円板が等化(外面=主体位置)で中心点が中和(内面=客体位置)です。内・外という語義からも分かるように、外面は内面を含みもっていますが、内面は外面を含みもっていません。
さて、知覚正面上では、延長上の無限遠と対象中心としての0点は常に一点で同一視されています。そして、「見ているらしきもの(知覚正面)」が「見られているらしきもの(対象中心)」の周囲をグルリと回れば、この知覚正面もその軸を中心にして回転扉のように自転し、そこに等方的に出現してくるすべての無限遠方は対象中心である無限小点と同一視されていくことが分かります。このとき構成される空間が無限大と無限小が等化されている空間、つまり、「位置の等化」の空間になります。こここには対象世界が持っている延長としての広がりはどこにもありません。広大な空間の広がりは、「現象学的」に言って、対象中心とピッタリと一致しています。外部=内部という概念が無化された、もしくは、外部性が内部性の中に潜り込んだという言い方もできるでしょう。これが現時点での位置の等化の具体的なイメージです。ここには旧来の主客という概念は存在はしません。主客一体となった真の主体の素顔が露になっているだけです。
無限小領域と無限大領域が等化されるというのは、幾何学的に言えば。3次元球面の世界に一歩足を踏み入れた、ということになります(ここで、一歩と言っているのは、まだ三次元球面の多様体としての性質は持っていないということです)。実際、数学的には三次元回転群SO(3)は三次元球面S^3と同相とされています(単連結ではありませんが)。三次元球面の特徴は、三次元に即して言うと、内部と外部に「捻れ」を作り、三次元上の内部/外部概念を無効にすることにあります。ちょうどメビウスの帯のように内と外を捻って一つにつないでしまうのです。三次元球面の場合は、それが帯状の面ではなく、三次元空間全体で起こっているということです。このように、無限小と無限大が等化されるということは、内部と外部の間に捻れが生まれ、内部=外部、外部=内部という交通空間が出現することを意味するわけです。これは不連続的差異論にいうメディア界のトポロジーの基盤となるものでもあると思います。そうした空間が「同一化の空間=現象界」とは全く逆の性格を持つ概念だということはrenshi氏であれば、当然お分かりになるはずです。
さて、問題の「等化がなぜ差異化なのか」ということに関してですが、モノの内部と外部という概念は本来、その界面の存在によって意味付けされているものです。外部と内部に認識の矢が出向き、認識がそれぞれの領分に固執することによって、それらの間に対立がもたらされる。このとき、内部=内部、外部=外部という認識に固執しているのが同一性の思考というものです。同一性の思考は、この頑な同一性のため、内部⇔外部という反復によって相互に反照し合うしか、互いの概念を表現することができません。
ここで、こうした内部/外部間の反復の原因がどこにあるのかを考えると、界面に思考を向けざるを得ません。しかし、反復側には、この界面の由来がさっぱり分からない。つまり、いかなる力がモノの外部と内部を象ったのかが分からない訳です。それは、同一性が差異の反映として働かされているためだとヌースでは考えます。その意味で内部/外部を分け隔てている界面とは「潜在化した差異」と仮定されます。ここでいう「潜在化」とは中和側から見た等化に当たります。中和から等化は見えない。しかし、それは人のあずかり知らないところで確実に作動している。だからこそ界面が現象化しているわけです。
ここで潜在的差異と呼んでいるものは、renshi氏のおっしゃるように、反復との共役関係として働いているという意味では連続的な差異です。しかし、ヌースが抽出しようとしている差異は、等化側から見た等化です。これが顕在的差異と呼んでいるものです。こちらは界面の由来も知っていますし、また、それゆえに、内部/外部の対立が反復として生じていることも知っています。このような認識のもとでは、対立を対立のまま、調和に導くことができるはずです。ですから、弁証法のようにこぼれ落ちるものはありませんし、そもそも、全体(外部)も部分(内部)も等化されているわけですから、全体といった概念すら意味を無くします。界面(差異)の由来に答えを出し、その界面(差異)そのものに思考者として一体化していくということ。ここに不連続的差異論のいう「不連続」、さらには「個体化・特異性」が指し示す当のものがあるのではないかと考えます。
ポイントをまとめておきます。
僕らが対象の内部と外部と言うとき、それらを分け隔てている界面には実は捻れが存在させられている。この捻れが差異=精神である。それは現在の僕らにとっては内在面として働かされており、無意識の中に眠らされている。ヌースの目的は、この捻れを4次元知覚のもとに知性の対象として認識に上げ、その捻れ自身に沿って自意識的に思考を流動させていくことにある。無意識構造を差異化への運動状況として意識に対象化すること。これは、差異を顕現させるということであり、内=内、外=外という同一性を解体するということに他ならない。内と外との界面とは、内と外との捻れ目だからこそ、それらの境界面として現出できるのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: フロイト, メビウス, 人類が神を見る日, 位置の等化, 大森荘蔵, 弁証法, 無限遠