2月 9 2007
前向きに生きろ!!
昨日の結びで、「前の空間と後の空間についてぜひ考えてみてほしい」と勢いで書いてしまいましたが、もう少し丁寧な言い方をするべきだったと痛く反省しております。ということで、今まで書いてきたいろいろな内容のミックスになりますが、「前」と「後」について、簡単にまとめておきます。皆さんも、3次元的先入観を一度、白紙に戻して、ぜひ「前」と「後」の違いを考えてみて下さい。
ヌース理論の考え方では身体の「前」と「後」は全く違った空間である。普通、僕らの常識の中では、「前」も「後」も身体を中心とした3次元性(x,y,z)の中の一本の座標軸の方向ぐらいにしか考えられていないが、こうした空間認識は近代特有の眼差しが持った視座によるものであり、この眼差しは、何一つ、現実のわたし自身が見ている「前」の空間に接触を持っていない。
言うまでもなく、「前」はわたしが世界と関わるにおいて必要不可欠な方向である。世界は「前」において開示し、「前」においてその存在を露わにしている。「前」は、その意味で3次元空間からすでにはみ出ている。なぜなら、客観的な3次元性のどの方向も「前」になりうるし、また「前」はその治外法権的特権を持って客観的な3次元のあらゆる方向を観測することができているからだ。
試しにモノを回転させてみよう。当たり前のことだが、「前」の中にモノの表面のすべての見えは映し出されてくる。では今度はモノの周囲を回ってみよう。ここではモノの背景の見えが次々に変わって行くが、しかしながら、そこは相も変わらず「前」である。今度は、前後・左右・上下方向を向いてみよう。それらのどの方向もやはり「前」であることは言うまでもない。「前」という方向に引かれている線分は、その意味で僕らが認識している3次元世界のすべての方向をその一本の方向の中に束ねている。このことは誰も否定できないはずだ。つまり「前」という方向は3次元的な並進や回転運動(ユークリッド運動群)に対し何ら影響を受けない空間の方向性なのだ。「前」という方向のこうした在り方を、3次元を超越しているという意味で「4次元」と呼んでいけない理由がどこにあろう。
「前」とはわたしが人生を経験する場である。わたしは「前」でいろいろな人と出会い、「前」で様々な事件と遭遇する。「前」はわたしの記憶となるべき風景の断片を次々と連鎖的にあたかも映画のスクリーンのように送り出してくる。「わたし」はわたし自身においては決して3次元の中を動く対象物なんかではない。むしろわたしは世界に対して「不動の大地(フッサール)」とも呼べる存在である。こうした不動性があるからこそ、わたしはそのパースペクティブにおいて「わたし」という固有のアイデンティーを持つことが可能となっている(常々言っているように、この4次元が「奥行き= i軸」として、客観的な3次元認識においては点(dx,dy,dz)の中に畳み込まれているのは言うまでもない)——「i軸としてのわたし」は生まれてこのかた、微動だにしたことがないのだ。
一方、「後」という方向は全く違う性質を持っている。まず、当たり前のことだが「後」は見えない。たとえ「後」を振り返ったとしてもそこは「前」であるから、肉眼では「後」は決して見ることができない。そこで、致し方なく、僕らは鏡を使って「後」を見ようとする。そうすると、なるほど「後」はあたかも「後」を振り返ったときの「前」と同じような風景として見えてくる。しかし、それは似てはいるものの同じ風景ではない。なぜなら、鏡の中の風景は左右が反転して見えているからだ。しかし、いつも言ってるように、この反転は実のところ左右の反転などといった生易しい反転ではなく、内部と外部間における激烈な反転なのである。内部と外部の反転とは4次元の反転の意味を持つ。つまり、前と後とでは4次元の方向が逆になっているのだ。
僕らの意識はこの鏡の役割と似たものを内在化させている。それが他者の眼差しに対する想像力である。僕らは対峙する他者の眼差しに映っているであろう「前」を通して「後」をイメージしている。そこには当然、僕の顔もあることだろう。僕が自分の顔を想像するということは、意識が鏡を通して「後」を見ているということにほぼ等しいわけだ。そのとき、やはり4次元はぐでんと反転している。あのナルシスの話を僕らは忘れてはいけない。
おそらく「前」における世界の見えの変化は「持続(ベルクソン)」と呼ばれているものだろう。そこには距離もなければ時間もないし、普通の意味でのわたしもいない。あるのは記憶であり、記憶があるゆえの生の物質がある。一方「後」における4次元は「時間」に相当するものだろう。そこには記憶はない。記憶がないのだから当然、物質もない。ただ実在から引きはがされた顔を持つわたしや想像された物質が言語として漂っているだけだ。おそらく時間とは、持続を一連の秩序立てられた流れとして把握するために、理性が不動の「前」を「後」の中に介入させることによって作り上げた序列概念にすぎないのだろう。時間よりも先に「持続(外面上の変化)」がある。いつ何時も「後」は「前」の影として遅れてやってくるのである。
簡単に説明するつもりが、また難しくなってしまった。申し訳ない。しかし、以上の話の内容で、ヌースが考える「前」と「後」の関係がおおむねお分かりいただいのではないかと思う。ヌース理論の考え方においては、4次元空間と4次元時空の関係は身体における「前」と「後」に集約されている。時空は見える世界ではない。モノの空間と身体の空間とは全く別物なのである。
上写真はサルバドール・ダリ「ナルシスの変貌」
3月 20 2008
時間と別れるための50の方法(2)
●ルシファーからルシフェルへ
観測者が事象と関わると聞くと、まず思い描かれるのが観測者の視線です。目と対象を結ぶ線を普通、僕らは視線と呼ぶわけですが、人間の一般的な空間認識においては観測者としての自分自身をも物体状の存在者として3次元空間の中に投げ込んでいるために、この視線を3次元空間内の一つの線分として概念化してしまいます。目の前にコーヒーカップがある。コーヒーカップと僕との距離は約50cmぐらいかな。。ってな感じで。
しかし、この奥行きとしての50cmの距離は前回も言ったように客観的な空間ではありません。つまり、コーヒーカップが射映像として浮かんでいる平面をx軸、y軸からなる2次元平面の世界だとすれば、コーヒーカップから観測者である「わたし」に向かっている線は3次元の方向としてついつい解釈されてしまいがちです。しかし、時空というものの性質上、そこにはわずかながらも時間的な距離が存在しています。コップという映像の情報がコップから放たれている「光」によってもたらされているのならば、ごくごく正確な意味ではそこに見えているコップは「今、この瞬間」のコップではないわけです。とすれば、視線は必然的に4次元になっていると言わざるを得ません。視線に対するこのような次元解釈は別にヌース特有のトランスフォーマー型ゲシュタルトを持ち出すまでもなく、ごく単純に現行の物理概念にある時空概念を観測者自身の周囲の空間に当てはめてもそうなります。つまり、主観線(奥行き)とは時空としての4次元である、というわけです。
さて、一方の「あそこ」と「あそこ」を結ぶ客観線の方はどうでしょう。この線分はもちろん、視線ではないですね。対象と対象を結んでいる線なわけですから、その線分上には観測者は存在しておらず、そこには「見える光」としての交通網は敷設されてはいません。『光の箱船』で書いた表現を用いれば、この線分上を走っている光線は見えることとは全く関係を持たない「闇の中の光」と言っていいものです。そのような光は見えないわけですから、人間の意識によってただ想像されている光にすぎません。こうした光の速度のことを物理学は秒速30万kmと呼んでいるわけです。そして、その速度の意味が分からないという事態に陥ってしまっている。。前回書いた「懐中電灯から発射された光子が右手側にあるスクリーンに当たったという出来事」は、この意味で「闇の中の光」が経験している出来事であり、この出来事は観測者に目撃されるという一つメタな次元の出来事によって、はじめて、光の中の光へと相転移させられてきます。
ところが困ったことに、物理学的世界観の中では、さきほども言ったように、世界を見つめている観測者自体をも他の物体と同じような単なる時空上の位置として扱ってしまうために、「光の中の光」が顔を出すことは決してありません。哲学の言葉で言えば、実存が無視されているわけですね。ここが哲学者たちが物理学者たちが描く素朴実在論的な世界観をうさん臭く感じている一番のポイントとなっているところです。闇の中の光に対するOCOT情報は次のようなものです。
人間の内面における光のことを有機体と呼びます。有機体とはカタチのない精神のことです(シリウスファイル)。
シリウスの知性が「カタチ」と呼んでいるものとは「無意識構造の顕在化的様態(ヌース理論における「イデア」のことです)」のことを言いますが、OCOT情報によれば、人間の意識にはまだ、このイデアを思考対象として持つ能力が発現してきていません。僕らの自意識の中を調べてみればすぐに分かることですが、人間の意識の思考対象は、物質(形態や色)や音、イメージと言った感官から抽出されてきているいわば感覚的な表象世界のものがほとんどです。物質もまたイメージにすぎないと言ったのはベルクソンですが、その意味で言えば、感覚を通して得た表象、ならびにその属性物で思考はつねに作用しているわけです。
ヌース理論では、僕らが抱いている物質概念のことを「有機体の妄映」と呼びますが、このことの意味は、実際には「光の中の光」として見えていないにも関わらず、あたかもそこに物質が実在しているかのように構成された物質概念の独立性にあります。わたしとは関係なく、世界は物質に満たされている……こうした概念形成は実在性というよりは、あくまでも概念の産物であり、確固とした物質が時空上に存在しているわけではないということです。いや、もっと言えば、時空という物質のグラウンドとなっている場所性自体が概念の産物に過ぎないということなのです。
時空という闇の中に落ち込んで行き場を見失っている秒速30万kmとしての光。こうした光のことを旧約に倣ってルシファーと呼びましょう。僕らはこのルシファーを光の中の光へと召還する時期を迎えつつあります。神に反逆して闇の中へと追放されてしまった、12枚の純白の翼を持つと言われるその美しい天使長は、今や黒い毛に覆われた眼の見えない巨大なコウモリに姿を変えて闇夜の中を飛び回っています。この堕ちた天使長を本来の意味のルシフェル(光を運ぶ天使)として復活させるために,僕らは光が持っている意味を単なる物理的な光から霊的な光の働きへと変換させる必要があります。グノーシス主義者たちのいう「光の救済」に着手する必要があるということです。マリアの受胎、シリウスの力の降臨、創造空間への侵入、そしてアセンション。。。ヌース理論から見れば、これらはすべてこのルシファーからルシフェルへという光の変容の物語でもあるのです。——つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 0 • Tags: アセンション, グノーシス, トランスフォーマー型ゲシュタルト, ベルクソン