5月 24 2016
君よ、精神のアーキテクトたれ
記憶の実在感を取り戻そう。記憶は魂の力能だ。「過去は過ぎ去って今はもうない」というのは、現在の傲慢だ。むしろ、過去の方が去来する現在を見続けているのである。その意味で、存在しているのは現在ではなく、過去である。過去の濃度を取り戻すこと。そこに主体のフランチャイズを置くこと。
この時間的な重心移動は同時に、例の観点の球面化と連動している。主体を世界の中におくのではなく、世界を主体の中におくイメージ。観点を世界に包まれた点として捉えるのではなく、観点を球面化し、逆に世界をその中に包み込むイメージ。このとき出現してくる球体を文字どおり球体として知覚できる認識を鍛え上げていくこと。それが魂と呼ばれていたものに他ならない。
人間の空間認識は一方的に物質方向に開きすぎている。これは比喩なんかじゃない。ダイレクトな空間知覚の問題として言っている。主体が世界を包む空間側においては、すべての位置は同じ位置なのだ。その不動の位置感覚がわたしたちが「記憶」と呼んでいるものの正体だ。
物質として開かれた空間と、記憶として閉じた空間。この相互に反転した二つの空間の差異が見えてくれば、どちらが生の実体であるのかはすぐに判別がつくことだろう。物部の民たちが生玉(イクタマ)と死返玉(マカルガエシノタマ)と呼んだ二つの玉の関係がこの両者にはある。
生玉(イクタマ)を取り戻すこと。それは魂の浮上であり、浮上した魂は霊の発芽となる。
こうした表現がオカルティックに聞こえるなら、哲学の言葉に置き換えてもいい。ここでの話はライプニッツ=フッサールのラインを辿れば、自己のモナド認識と言っていいものであり、この位相に立って初めて思考は先験的な相互主観性、相互モナド認識の場を実体的に形成できるようになる。それが物理学がスピノル場(クォークのアイソスピン空間)と呼んでいるものと考えるといいだろう。
わたしたちはここにおいて、「位相─微分─射影─アフィン─ユークリッド」という幾何学のヒエラルキーを逆に辿り、最も深い霊的幾何学の場へと到達し、精神のアーキテクトとしての能力を持つに至る。
思考は創造空間=死後の空間を開くことができる。嘘は言わない。もちろん、それが完全に開くまではかなりの時間はかかるだろうが、人間の意識はその方向へと向かう転機を迎えている。
まずは、物質側へと開いた空間から、記憶側へと閉じている空間に自らの生の重心を移動させよう。それがヌーソロジーが活動している場所である。
5月 27 2016
シュタイナーのつぶやきに対するつぶやき返し
今でこそ、ヌーソロジーはドゥルーズ哲学と現代物理学の接合に焦点を当てているんだけど、OCOT情報を解読していくに当たっては、初期の頃は伝統的な霊知に関する本を漁ってたんだよね。いわゆるオカルティズムというやつなんだけど。
ヘルメス文書はもとより、カバラやスーフィズム、古代バビロニアの神秘学からミトラ神学にまで手を延ばしたこともあったんだ。そこから、今度は一転してブラヴァッキーを始めとする近代オカルティズムの世界を探索していったのだけど、正直、みんな詳細に欠けていた。そうした中、90年代になって、シュタイナーと出会う。最初に読んだのは『神秘学概論』ってやつ。シュタイナーの思想は、人間の霊性の復活に対して思考を重んじるという点で、OCOT情報とすごく重なるところがあった。それに描写が繊細で他のものとは完全に一線を画していた。そこで何冊か続けて読んでいったのだけど、描かれている世界があまりに壮大なこともあって取りつく島がなく、それで、しばらくほったらかしにしてた。
でも、2010年代になって、お世話になっている大学の方で研究会をやり始めて、そこにシュタイナー研究に長年勤しんでいるFさんとOさんも参加してくれ、ドゥルーズ哲学を切り口にしてヌーソロジーとシュタイナーの比較作業みたいなことが始まったんだよね。それでこの三者には多くの共通点があることが分かりだした。今、出版準備をしているシュタイナー思想とのコラボ本もそういう流れで生まれてきたものなの。ただ、三人の共著ということで、分量があまりに多くなってしまい、どういうスタイルで出版するか、今、出版社の方で検討中で、そのため発刊が大幅に遅れているんだけど、必ず出るので楽しみにしていてね。濃いよ(笑)。
で、発刊に向けてのデモンストレーションというわけでもないのだけど、ツイッターの方で、シュタイナーのつぶやきに対するつぶやき返しをツイートし始めた。今日はその内容をちょっとだけ紹介。。
****************************************************************
ルドルフ・シュタイナー @R_Steiner_jp
ゲーテは全自然の中に精神が浸透していると考えていた。その形式が様々であるのは、精神がそれらの中に多かれ少なかれ外的にもまた見られることによる。死せる、精神を欠いた物質なるものをゲーテは知らない。-ゲーテの自然観-
半田広宣 @kohsen
一体どのようにして自然の中に精神を浸透させていくのか、相互了解可能なその方法論が今までは見つからなかったわけです。ヌーソロジーの特徴は奥行きを持続の位置とし、それを虚軸に見立てダイレクトに自然の根底へと潜り込むところにあります。
ルドルフ・シュタイナー @R_Steiner_jp
人間は思考によって自然についてのイメージを外にあるもののように形成するのではなく、認識とは体験であることを示したかった。つまり、人間は認識によって事物の本質のなかに立つのである。-自伝-
半田広宣 @kohsen
事物の本質のなかに立つーーこれが本来の理解=under-standの意味するところですね。事物は対象として理解されるのではなく、自己自身として理解されなくてはいけません。グノーシス=Gnosisの意味もこうした知識を意味しています。
ルドルフ・シュタイナー @R_Steiner_jp
人間の意識は思考する意識である故に、必然的に自己意識でもなければならない。なぜなら思考の眼を自分自身の活動に向ける時、思考は自分の最も固有の本性である主観を客観対象として持つのだから。-自由の哲学-
半田広宣 @kohsen
主観を客観対象として持ったとき初めて思考するものと思考されるものが一致をみます。そこに出現してくるのが母なる物質=大文字のMATERIALです。主客の一致がここに現れてくるわけですが、これは判明な思考の運動として立ち上がってきます。
ルドルフ・シュタイナー @R_Steiner_jp
大切なのは、人間の内面の悪の中に身を置くことです。破壊のかまどの中で物質が破壊され、物質がカオスに帰せられるとき、そしてこの内面の破壊衝動に道徳衝動が注ぎ込まれるとき、私たち自身の中で、霊的な存在が芽を出し、育ち始めるのです。-内面の旅-
半田広宣 @kohsen
転倒が悪なのではありません。転倒の転倒が悪です。転倒の転倒へと力が傾斜していくことよって、同時にそこには転倒以前の状態へと帰還しようとする力が生まれてきます。自身の中の悪を凝視すること。悪を見つめられない人は本当の善に気づきません。
ルドルフ・シュタイナー @R_Steiner_jp
客観的なイデア世界が主観の中で蘇生し、自然の中で活動しているものが同時に人間の精神の中で生きて働く時に、主観と客観は出会う。こういう場合にのみ主観と客観のあらゆる対立が止揚される。-ゲーテの自然観-
半田広宣 @kohsen
主観と客観の出会いとは原初の反復のようなものです。この出会いの事件が現在、物理学で起こっている量子論という出来事なのです。主観と客観を表象で一致させてはいけません。そうした誘惑は意識を主観の中に閉じ込めてしまいます。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, シュタイナー関連 • 0 • Tags: ゲーテ, シュタイナー