8月 25 2006
さよなら、冥王星
国際天文学連合(IAU)の総会で冥王星が太陽系の惑星の定義から排除された。このニュースを巡って、わたしのところに数名の方からヌースはこの出来事をどう解釈するのか、という質問のメールが届いている。わたしとしてもこのニュースはちょっと放ってはおけない。というのも、元々、ヌース理論の出自は冥王星にあるからである。
冥王星のオコツト。。ヌース理論の理論構築の大本のアイデアは、この正体不明の声の主から送られてきたものだ。「人類が神を見る日」にも書いたが、私個人は、このオコツトなる怪しげな存在がわたしの無意識の捏造であろうが狂気の産物であろうが何でも構わないと思っている。
そうした声が聞こえてきたのは事実であったわけだし、その声が語る一連の内容からヌース理論という一つのコンセプチュアル・アートが生まれてきたのは否定できることではないからだ。
さて、今回の冥王星消滅についてだが、ヌースの視点から見ると、二つの解釈が考えられる。まぁ、わたし自身別に真剣に考えているわけでもないので、半分こじつけに聞こえるかもしれないが、解釈は進化の方向かそうではない方向か、次の二つに分かれる。
1、冥王星並びに2003 UB313(第10惑星の候補となった天体)の役割の終焉
2、冥王星の役割を排除しようとする無意識側からの意図
第9惑星の冥王星並びに第10惑星Xはヌース解釈では、シリウス革命などにも書いたように、次元観察子Ω11とΩ12の役割を持っている。これらはそれでそ定質と性質と呼ばれ、近代的人間の個体化を促していく働きを持っている。前者が人間の物質主義的指向性を促して行くもの。後者がその反映としてその個体性にトランスパーソナルな意識の指向を与えていくものだ。現在の僕ら一人一人が、グローバル帝国の視線そのものを内在させ、一方で、家族や国家などの共同体的観念とも切断されつつあるのは、この両者のアンビバレンスから来ているものだと考えている。
Ω11とΩ12の次元とは、宇宙全体の進化の営みからすれば、実は宇宙の転倒像が描かれるところでもある。神話で言えば、イザナギ(Ω9)とイザナミ(Ω10)のまぐわいが逆に起こってしまった、蛭子の発生現場である(イザナミとイザナギが5代目の男女神であったことを思い出そう)。もちろん、宇宙は自身の成長のプロセスの一環として、このΩ11〜Ω12次元を経験するのではあるが、それは内部にスマルという「虚無」を抱え込むことになる。スマルとは「統(す)める」から来ていると思われるが、これは上次元での精神構造の統一を意味する。しかし、下次元では、それは一つの暗黒の影として、つまり、宇宙を物質概念で統一したいという強靭な欲望として現れるのだ。そこに忍び込むものがスマルという虚無存在である。オコツト風に表現すれば「核質化した不連続質」というやつだ。世界を物質でしか語ることのできない思考性。あらゆる物事の真のつながりを切断し、世界を断片化していくもの。それがスマルだ。
ヌース理論が物質や科学的な知識にこだわるのも、このスマルを変容させない限り、人間精神は進化への方向を持つことはできないと考えているからである。
おっと、話が逸れそうになっている。元に戻そう。Ω11とΩ12とは、その意味で、実在側から見れば受難の領域なのである。生成がネガ側へと入るというか、生成とは逆の生成が起こってしまう場所と言えるのだ。精神が物質を形成できなくなる領域という意味では、それは「空茫」と言っていい場所だ。Ω1〜Ω12までのうち、11番目と12番目はそういう性格を持っている。
そこで、オコツトはなぜ自分の出自を「冥王星」と名乗ったのかという疑問が出てくる。交信初期の頃だったか、「あなたがたは一体何者ですか?」という問いに、「定質にあるべき力」と答えが返ってきたことがある。ということは、連中は人間の意識に物質的知識の増殖を促してきたもの、ということになるのだが、果たしてオコツトはそうしたアーリマン的なものの御使いだったのか?
そこで、キーとなる言葉がヌースでいう「交替化」という言葉なのだ。これは進化の定質がもたらす。進化の定質とはΩ13のことである。Ω11に存在する知性も当然、次なる精神のレベルへ向けて切磋琢磨している。それは反映であるΩ12との等化だ。Ω13はΩ11とΩ12との等化して生まれてくる。おそらく、オコツトとはこのΩ13を目指した冥王星の良心のことではなかったのか。そう感じている。
Ω13の役割は、今まで物質世界の認識や分析、解明の中で蠢いていた超越論的理念性としての幾何学を、反映側、つまり、人間の無意識構造側へと遷移させる役割を持つものである。つまり人間が持った知性の方向性を延長としての物質世界ではなく、内在側の精神世界へと反転させる力となるものである。ヌースはその力に従順になって、ただただ、その作業を淡々と進めているだけである。
おっと、長くなってしまった。冥王星が太陽系から惑星の資格を剥奪される——さて、これはスマルの陰謀と考えるべきか、それとも、新たな世界の到来のための福音と見るべきか。。その判断は、皆さんそれぞれの時代に対する思いに委ねられることになるだろう。いずれにしろ、もう、人間の居所は20世紀までとは違った場所に遷移している。僕らはそのことを深く自覚すべきだ。古き良き時代の人間はもういない、のである。
11月 26 2006
「2013:人類が神を見る日」 米国出版決定!!
「2013:人類が神を見る日」のアメリカでの英訳出版が決まった。順調に行けば来年の夏当たりにはアメリカでヌースがデビューすることになる。
翻訳はカナダ在住のAさん、ブックデザインはzavtoneのzatoさん、版元はN社。日本のスピリチュアル関係の書籍がアメリカで売れた前例はないが、年間書籍売上高はアメリカの場合、日本の5倍以上あるという。ことスピリチュアル関連の図書に関しては10倍近いとも聞いた。日本でこの10年間に3万部程度の売り上げを示したこの本がアメリカでどの程度、数字を延ばすか楽しみではある。まあ、捕らぬタヌキの何とやらではあるが、部数そのものよりも、ヌース理論のような考え方が向こうのニューエイジャーにどの程度受け入れられるか、それを是非見てみたい。
ヌース理論の思想的背景は徹底したヘルメス主義である。「上にあるがごとく、下にかくあり。」物質の世界はすべて精神の世界の影であると考えるわけだ。現在、科学はこの宇宙がビッグバンから始まり、原子、恒星、惑星、生化学物質という生成のルートを辿って人間が出現してきたと考えている。ここで展開されている進化のイメージはすべて物質的表象を用いたものだ。ヌース的思考ではこれらのシナリオはすべて精神進化の物語へと置き換えられる。つまり創造のプロセスは不可視の意識的流動の中で起こったと考えるのだ。であるから、素粒子に始まる原子、分子、物質、恒星、惑星、生物等の物質的存在もすべて意識の影である。それらがどのような意識的様態であるのか、そのすべての対応性を読み解いて行くのがヌースの醍醐味だ。そして、その読み解きの過程がそのまま新しい創造へとつながっていくと考える。その意味でヌース的な思考に入ったときには新しい創造期が始まった、とも言える。創造のプネウマの光はまだ原初の小さな小さな点滅にすぎないかもしれない。しかし、この先確実に生命樹を照らし出す発光体へと成長していくことだろう。
時空内で流動する万物を創造した神的な精神。そういったものが存在していると仮定しよう。この精神が創造されたものの外部にいるのは当たり前である。創造は時空の外部で為されるものなのだ。言い換えれば、創造された世界とは時空を超えた場所で蠢く何らかの力能の所産でもある。だから、創造について想いを馳せるには、僕らは時空の外部に出なければならない。その時空の外部は、現代科学では皮肉にも内部空間と呼ばれている。そして、そこは素粒子の構造が記述されるある抽象的な空間となっている。 時空上の一点一点に張り付いたこの内部空間こそが、楽園への扉である、というのがヌースが10年以上も前から行っている主張である。マクロを支配する時空は素粒子においてミクロと接合している。この結節に存在させられているのが人間という存在なのだ。
内部空間は数学的には複素数で表される空間なので、自然現象を実数でしか把握できない科学的知においては、その対応物を見出すことができないでいる。しかし、それは空間に対する認識が実数側に偏っているからにすぎない。虚空間に対応させることのできる空間は現実に存在する。いや、むしろ、その空間の方が僕らの現実と言っていいものだ。
実空間——想像的なもの。虚空間——現実的なもの。想像的なものと現実的なものの共同作業ですべての認識は形作られて行く。内部空間の本質は僕らが「前」と呼ぶところにあり、時空の本質は僕らが「後ろ」と呼ぶところにある。前は実像であり、後ろは鏡像である。前の集合としての空間と、後ろの集合としての空間の差異が見えれば、時空と内部空間の問題は一気に解決する。水の鏡の中から抜け出すこと。想像的自我の位置から真の主体の位置へ一気に反転を挙行すること。僕らは地上にいるのではなく、天にいるのだ。
オカルティズムの本場である西洋文化圏においてヌースの跳躍の技術がどのように受け取られるか、今から楽しみだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌 • 10 • Tags: 人類が神を見る日, 素粒子