8月 21 2015
物質の究極には精神が存在しているということ
明日の福山での意識物理学研究所主催の講演会。2時間の持ち時間なのでテーマを絞らないといけない。佐藤さんが提唱されている「意識物理学」というのは、「物質の究極は実は人間の精神に他ならない」ということを具体的に論証していく学ということになるのだと思う。その意味でも、この「物質と精神の繋がり方」という部分にスポットを当てた話がいいだろう。
唯物論をベースとしている科学的世界観は、物質からいかにして精神が生まれてきたのかを問い続けるしかないわけだけど、物質の複雑な組織化の結果として精神なるものが発生してきたとする考え方では、答えは永遠に出ないだろう。そういった問い自体が回答不能な、誤った問い立てであることに科学は気づかないといけない。
物質と精神には絶対的な差異がある。端的に言えば、それは見られるものと見るものの差異と言っていい。哲学者のベルクソンはもう100年以上も前に、これらをそれぞれ延長と持続の違いとして明確に二分する思考の必要性を訴えた。延長と持続の差異とは、存在における広がりと深さの差異と言ってもいいだろう。
科学的理性は広がりの方ばかりに注意を向け、深さ、つまり持続の方に自意識的でないために、宇宙について明晰に語っているようで、実は極めて深刻な混乱を起こしている。広がりの知性は確かに緻密で計算能力に優れ、極めて明晰であるかのように見えるが、それは差異を知らないゆえに致命的に「混雑化している」。
物質は数量化が可能な延長世界の産物である。しかし、精神=持続は延長的なものではない。ベルクソンによればそれは収縮であり、凝縮である。物質の母胎となる延長性はこの収縮、凝縮から分化した弛緩が生み出し、結果、それが物質の原理となる。物理法則は持続が生み出した結果にすぎないということである。つまり、精神から物質が生まれているのであって、その逆ではないということだ。
ベルクソンの思考を引き継いだドゥルーズはこの精神における〈凝縮-弛緩〉のプロセスを〈巻き込み-繰り広げ〉という差異化のシステムを通してより緻密に思考し、襞の生成論を作り上げた。
現代物理学が示しているミクロの空間構造をこのベルクソン-ドゥルーズの差異化の概念で注意深く追っていくと、実際、その通りになっているのが分かってくる。つまり、古典物理学から量子力学への移行の本質は、同一性=延長の物理学から差異=持続の物理学への移行なのである。
だから、延長性をベースに持った古典力学の運動量、エネルギーといった物理量は、量子力学にとっては二次的な産出物でしかなくなり、すべてそれらを導出するための演算子へと置き換えられることになる。つまり、波動関数とは差異化の数学的形式であり、それに作用させる演算子とは差異化をさらに差異化せさ、同一性(物理量)を結果として引っぱり出してくる、という精神構造自体が持った収縮から弛緩への機構をなぞっているのだ。
現代物理学の表現形式はすでに同一性から脱しているのだが、いかんせん、世界観の方はまだまだ同一性に囚われたままでいる。そのため、物理学者たちは量子力学が持った数学的形式の意味が皆目分からない。なぜ複素数なのか、なぜ確率なのか、なぜ非局所的相関なのかetc。
量子力学の本質を理解するためには、このように差異化の思考、つまり、延長ではなく持続をベースにした「永遠の相の下で(スピノザ)」の思考が必要なのだ。僕がいつも「奥行きのもとの思考」と言っているのも、この思考のことにほかならない。
福山では、こういった内容をできるだけ分かりやすく話していければ、と思っている。でも、2時間じゃ無理かな(笑)。
10月 26 2015
アラカワの反転イズムは何を見ていたか
アラカワはやっぱり偉大だな。試みは失敗に終わったと言えるのかもしれないけど、想像的他者と共有される視点をはぎ取り、言語以前の宇宙の生成の場へと意識を引き込もうとする仕掛けをあれほど派手に形にした人はアラカワぐらいしかいないのではないか。とにもかくにもドゥルーズを身体化させている。
アラカワはドゥルーズに「言葉なんかはいらない」と言い放ったという。それを受けてドゥルーズは「アラカワは狂っている」と言ったそうだ。この話が本当なら、アラカワは、ほんとすごい(笑)
言語、時空、俯瞰的視線、想像的自我、さらにはそれらが持った偽りの共同性、遠近法、神経症etc。これらはすべて人間という体制が持った病なのだろう。存在の「反転」以外にこの病を癒す方法はおそらくない。
反転の契機はアラカワも言っていたように、極大と極小を同じところに置く概念の設定によって訪れる。これはアラカワのいうブランク=全ての存在に通底する零度の場所に相当するのだが、それを数学的に形式化しているのが、物理学者たちがいうアイソスピン空間(クォークやレプトンのスピン空間)だと思っている。
自己と他者が眼差しの交差を行う場所のことである。否、自己と他者と言ってしまうとまずい。より正確には、非人称的な二つの持続体=精神が互換重合を行なう場所と言ったほうがいい。わたしたちが経験する自己と他者は、それらが「場所=トキトコロ」を生成したところに結果として出現してきているにすぎない。
この構造から考えるならば、必然的にわたしたちは記憶を場所の力能と見なす必要が出てくる。つまり、記憶は脳などに宿るものではなく、「場所」に宿っているということだ。自己、他者、主体などといった概念もまた、その場所にとっての記憶として生産されているものに過ぎないように感じている。
アラカワのいう「違った位相的な個における新しい共同体」というのは強度的、内在的共同体であって、それはおそらく「もの」のことを言っている。ここには安易に結びつける全体性といったようなものは存在しない。安易な全体性とはむしろ時空的結びつきの方にある。回転対称性と擬回転対称性の違いのようなものだ。
佐藤氏がうまく言い当てているように、内部空間の回転には「 i (虚数)=愛」があるが、外部に反転させられた擬回転にはこの肝心の「 i 」が欠如している。「 i 」の欠如は、実体を欠くという意味でもあるだろう。ベルクソンのアインシュタイン批判を思い出す。
それは「ローレンツ変換における観測者とは一体何者か」という問題だった。彼に「 i 」が備わっていないのであれば、彼は物理学がデッチ上げたハリボテ人形のような観測者にすぎないのではないかということだ。なぜなら、この観測者は持続を持たないのであるから、時間を認識することなど到底できない。
時間が延びたり縮んだりするという相対論がもたらした現代科学の常識?は見直されなければならない。それはやはり、実存が欠けた見方にしか思えない。わたしたちは光速度において諸事物の同時性を認識しているのだ。なぜなら、観察者自身が光速度cの位置に「 i 」として生きているのだから。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ドゥルーズ, ベルクソン, 荒川 修作