9月 22 2006
天の橋立
今日は以前ここで言ったことの訂正をしなくちゃならない。それは地球の表面は3次元球面だと言ったこと。これは間違いじゃないけど、どうも正確な表現ではないということが分かってきた。
前にもこのブログで書いたが、見てる人間の眼差しをも加味して考えると、モノ(=モノの認識のカタチ)は4次元球体として存在しているように思える。当然、見てないところにモノなど存在し得ないのだろうから、モノは4次元球体として生息していると言っても過言ではないだろう。だから、その表面は3次元球面になっている。そんな類推で、地球も3次元球面だと表現してしまったわけだ。しかし、たとえ4次元を考慮したとしても、単なる目の前に存在するモノと、僕らが不動の大地として感覚化している地球という球体が存在している空間は互いに次元を全く異にしているような感覚がある。そこで、今日は皆に次のような考え方を提案したい。
身体における前後がもし4次元方向ならば、身体における左右は5次元、上下は6次元というように、単純に類推することはできないだろうか。4次元が身体の前後に存在する(これはほぼ確実ではないかと感じている)という感覚が芽生えてくると、身体にとっての左右からの方向は、前後を前後として観察するノエシス(意識の指向性のようなもの)に感じてくる。つまり、主客未分化な前-後という空間を主客に分離し、理性的な働きを介入させてくる無意識の矢のようなものに感じてくるのだ。このとき「後」を率いているものが自我で、前を率いているものが「無意識の主体」だ。いつも言っている「人間の内面と外面」というやつである。一般に僕らの意識は前に見えるものを客体のように感じているが、それは実は客体ではなく、真の主体だということだ。客体は言語によって作り出される「後」の空間に存在している。
後(自我)の空間が支配する闇の世界の中では、光に満たされた「前」の空間は点の中に畳み込まれる。この畳み込まれた空間を物理学は時空の各点に貼付けられた「内部空間」と呼んでいる。内部空間とは素粒子の世界とされている。つまり、真の主体の場は微粒子世界として微分化された世界の中に閉じ込められていることだ。おっと、今日はミクロの話をするんじゃなかった。。前後=4次元、左右=5次元。この話をしたいのだった。これを通じて、マクロの天体世界へと展開する高次元空間の構造へと想像を巡らしたいのだった。。。
とりあえず、とりあえずだ。安直に左右=5次元と考えよう。すると、大地は5次元の膜で包まれているというイメージが湧いてくる。なぜか地球は丸い。身体が大地にしかと立ち(この「立つ」身体というのもとても重要な意味があるのだが)、そこで認識されている前後方向は、地球規模で見れば円環となって閉じているはずだ。左右もおそらく同じだ。それも円環状に閉じていることだろう。とすれば、地球表面は5次元平面(地上を平面と思っている認識)が球面化したものと考えられないこともない。こうした平面認識から球面認識への移行は、言うまでもなく近代のコペルニクス的転換で起こったことだ。おそらく、近代は上下方向からの6次元目のノエシスが介入してくることによってもたらされたのだ。ここでいう上下方向とはもちろん、地球から広がる宇宙空間の方向性ということになる。ということは、地球とは6次元空間に浮かぶ6次元球体なのだろうか?
と、無責任な問いを投げかけたところで、話の矛先を変えることにしよう。
シュタイナーは前後方向を感情軸と呼んだ。それはたぶん正解である。前後とは自己と他者とが想像的に交わる軸であり、そこにはおそらく想像界が存在している。想像界は母子関係によってその基盤が作られ、人間にとっては感情の在り方と大きく関係する無意識の場である。次に左右方向を思考軸と呼んだ。おそらくそれも正解だろう。左右とは、想像的同一化にまどろむ幼児の無意識活動を非情にも切断する去勢の手術のメスである。お父さん、なんで僕をお母さんから引き離すの?やだよ。僕はここが気持ちがいいのに。。。左右からの視線の介入によって、僕らは前後方向に膨らみの感覚を生み出し、モノや世界に三次元的な奥行きを作り出す。そして、それは同時に言葉の介入でもある。ラカンはこうした働きの場を象徴界と呼んだ。そんなにいつまでも甘えてるんじゃない。社会は厳しいぞ。これからはお父さんがボクを鍛え上げるからね。いひひひひ。では、上下とは何か——シュタイナーはそれを意思軸と呼んだ。たぶんこれも正解だろう。
6次元上空(宇宙空間)から見ると、人間の前後と左右は一つの十字架に見えていることだろう。地球上に植樹された無数の十字状の苗床。6次元からの視線はこの十字架の回転を促し、それぞれの苗をそれぞれの思いの中で成長させていく。つまり、想像界と象徴界の等化を計ろうと人間の創造力のスイッチを入れるのだ。言葉からイメージへ、イメージから言葉へ。男的なものと女的なものの性愛関係が蠢くところである。この反復が人間の個体性を確固なものにしていく。そして、おそらくこの軸はオルフェウスの竪琴の弦と呼んでいいものだ。その弦の一本一本はおそらく夜空を満たす星々の一つ一つと繋がっている。
何度もいう。人間は星である。銀河とは地球上で蠢く不可視的なものの可視的表れである。銀河の魚、人間。。。いずれそのことが明らかにされる日がやってくる。。。。。はずなんだが、最近、仕事が忙しくてその作業を怠り気味なんだよなぁ。
2月 21 2008
ヌース理論とシュタイナー思想の類似点(重要)
(写真はウィキペディアからお借りしました)
現在、ヌースアカデメイア・ブログの方でヌース理論に関する質問を受け付けているが(質問はこちらから → ヌースアカデメイアブログ)、なぜかシュタイナーの「人智学」とヌース理論の関連性に関する質問が多い。僕自身、シュタイナーは斜め読みしかしたことがないので、正確なところは分からないが、空間認識からみたヌース理論とシュタイナー思想の感覚的な一致点をざっと書いておこうと思う。おそらく、ヌース理論でいう大系観察子の領域まで辿らなければ、シュタイナー理論?全体との相性の善し悪しは確認できないが、ヌース理論が顕在化の作業を進めている次元観察子ψ1〜ψ12の領域はどうもシュタイナーの言う自我形成の発達プロセスとピッタリと当てはまっているような感じがする(潜在化においては偶数系が先手を取ります。煩雑になるので双対性=ψ*側を含んだ説明は割愛します。最後にチラっと顔を出しますが、はっきりとはまだ見えていません)——。
今回の『人神・アドバンスト・エディション』では身体における前-後軸と素粒子空間(SU(2)=3次元球面)の関係性のみに絞って、その幾何学的な空間構造を紹介したが、素粒子構造は本でも書いたように「コーラ(受容器)」の形を意味するものであって、その中に投げ入れられてくる具体的な意識の表象は一切持ってはいない。そのことをしっかりと踏まえた上で次の一連の解説を読んでほしい。
●物質体/エーテル体………ψ8〜ψ7
純粋な前-後方向(人間の意識ではない)は、実は前次元までの全体構造(ヌースでは「総体における定質と性質」といいます)が凝縮化されてくる場所になっている。シュタイナー的に言えば、これら総体における対化はエーテル体(ψ1-3-5-7/人間の外面領域=「前」)と物質体(ψ2-4-6-8/人間の内面領域=「後ろ」)の関係性に当たるようだ。これらの対化の形成はそれぞれが、知覚機能(外面)と肉体形成に至るまでの発生のプロセス全体(内面)に相当しており、より簡潔な表現をすれば、受胎期における母胎内領域という言い方ができる。ラカン的に言えば、これは人間の意識には接触不可能な「現実界」と呼ばれる場所である。ラカンはそこに「黄金比Φ」の本質があると考えた。
総体における定質と性質が凝縮化されて送り出されてくるという意味では、物質体はその背景にイデアとしての正20面体構造を持っており、エーテル体は同じくその背景に12個の五茫星形からなる正12面体を持っている。人間の世界は自らの所以であるその「総体」を再度、奪回するために、「そこ」へと向かう新たな「方向性の対化」として発現してきているようだ(あくまでも方向性であって、「そこ」の形成力は最終構成においてしか生まれてこない)。胎児の形成はその意味で前次元の総体形成の精神(観察精神)に由来するものと考えていい。それゆえに、赤ん坊はオギャーとこの人間世界に生まれたときに、すでに物質体とエーテル体を完備して生まれてくることになる。
人間の意識ではNOOS(精神の力の流れ)とNOS(付帯質の力の流れ)の先手後手関係が逆転しているので、まずは物質体(人間の内面の基礎的な場となるもの)が先手を取り、エーテル体(人間の外面の基礎的な場=五感知覚を司る差異の系列機構)が後手に回る。生まれ落ちた瞬間に、感覚器官は出来上がっていても知覚自体はまだ機能していないのもこのためである。
●アストラル体………ψ10
胎児が地上に産み落とされ、触覚(ψ1)、味覚、嗅覚(ψ3?)、視覚(ψ5)、聴覚(ψ7)等の官感の機能が十全な状態まで発達してくると、今度は物質体とエーテル体、それら両者の等化運動としてアストラル体の成長が開始される。アストラル体はヌース理論でいう次元観察子ψ10に当たり、別名「感性(かんせい)」と呼ばれる。精神分析的に言えばこれは「想像界」のことである。一方のエーテル体全体は次元観察子ψ7に当たり、これはヌース理論では球精神(きゅうせいしん)と呼ばれる。おそらく五感による感覚世界の全体性の意味だろう。
アストラル体とエーテル体は空間的には、おおむね人間の意識が前-後軸と呼ぶ方向の「前」方向に重畳して存在させられており、アストラル体はエーテル体領域を基盤にして想像的自我の基礎を作るために、自身の位置をエーテル体から剥離させ、自己中心化の位置を形成していく。これがラカンのいう鏡像段階並びに、フロイトのいう、口唇期-肛門期-男根期という無意識発達のプロセスに相当している。
しかし、この自己中心化はアストラル体自体がもともとψ9=思形の反映としての存在であるために、対象、自己、相手、他者一般との区別感覚は希薄には存在しているものの、分断状態はまだかなり曖昧な状態である。これは幼稚園児ぐらいの子供の他者に対する振る舞いを見ても多少の想像がつく(けがをしたともだちが泣き出すと、自分がけがをしたと思い一緒に泣いたりする)。アストラル体の形成は年齢にして7~8歳当たりまでと考えるといい(次元観察子の形成プロセスと地球の公転数はより上位の観察子構造である大系観察子Ωとの関係で直接結ばれおり、どうもホロニックに共振しているようだ)。アストラル体自体はメンタル体の作用が発現してくる以前では、あくまでも、人間の外面領域全体を一気に交差して行く方向性を持つだけである(今度の本で示したケイブコンパスにおけるψ9〜ψ10の矢印の形を参照のこと)。
●メンタル体………ψ9
アストラル体、すなわち空間的な前-後感覚が十分に発達してくると、今度はメンタル体が発現してくる。これがヌース理論でいう次元観察子ψ9-思形(思形)と呼ばれるものである。これは発達心理学的に言えば、7~8歳~13~14歳の間ぐらいまでの間に発達を遂げていく意識領域と言ってよい。フロイトの言う学童期に当たる。メンタル体の発現によって、人間の内面領域としての物質体を交差(観察)する意識の方向性が生み出され始め、ここに初めて外在世界の(物理学的な時空概念とはまた意味が違うので注意)認識が確立されてくる。つまり、これがヌース理論が「人間の内面の意識」と呼ぶものだ。
メンタル体は言語機能と密接な関係を持っており、現実界が作り出していた対化間における黄金比的接続(キアスム)のすべてを切断する力を持っており、物質体として生成されている事物の分断化を挙行していく。つまり「ことわり=事割り=理」が形成されていくわけである。フロイト-ラカンの文脈で言えば「去勢」である。これは空間認識的には左右方向からの視線の発生と考えていい。分かり易く言えば、アストラル体が形成していた前-後方向の感覚を真横から観て取る観察力が意識上に発達してくるということを意味している。その意味で、メンタル体は、モノの厚みや、空間の奥行き、そして、距離感覚、そして、過去/現在/未来といった漠然とした時間感覚を意識に提供し、世界の3次元的な配置を言語活動と共に思考概念として形成していくことになる。ただし、この3次元性には現代科学が持っているような計量概念は伴わない。非常にアバウトな延長性と考えてもらえぱいい。計量概念が生み出されるためには「精神の等化」という力が必要で、これは次に触れるψ11レベルの前半期に形成されていく。
このメンタル体の発達はだいたい第二次性徴期の完成に当たる13~14歳当たりで完成に行き着く。いうまでもなく、これはラカン的に言えば「象徴界」の形成と同じ意味を持つ。つまり、意識が言語的共同体=社会に参入させられるわけだ。
●近代的自我とセクシュアリティー………ψ12〜ψ11
そこから、アストラル体とメンタル体の等化・中和運動としての定質と性質の方向性が生み出され始めるが、意識はここで「異性」を欲望し始め、自我形成のために必要不可欠な恋愛体(これは造語)の生産を開始する。転倒した接神体験である。当然のことながら、ここでも、人間の意識はNOSを先手にしているので、人間の内面の意識(物質体+メンタル体)の特性へ傾きがちな男性の場合の方が先手を取り、物質的結合(肉体的結合)の欲求が女性よりも先に起こってる。人間の外面の意識(エーテル体+アストラル体)の特性へと傾いている女性の方は、男性に一歩遅れ、その後、外面結合(精神的結合)を先手に取って恋愛体の対化を形成していく。これらは一言で言えば「はめたい」か「一緒にいたい」かの違いと思えばいいい。わぁっ、急に分かりやすくなった!!
ヌース理論から見ると、この自我形成の精神運動はこのアストラル体とメンタル体の等化運動としての次元観察子ψ11=定質〜ψ12=性質(人間においてはψ12側が先手)に対応してくる。空間認識的には、これは上-下軸からの視線として発現してくる。その理由はおおよそ次の通りだ。
実際、自分自身の意識を確認してみれば分かるが、奥行き方向を奥行きとして見る(感性の力のこと)ためには、誰でも必ず真横から観察の矢を介入させる必要がある。さきほど示した思形=ψ9の力がそれに当たる。ψ11〜ψ12段階においては、その真横から見た軸を今度は知覚正面となる前後軸(感性=ψ10)と同一化させていくような回転が始まるわけだ。
少し意識を集中させれば、実際にそうした回転運動が意識内で起こっていることにすぐ気がつくはずだ。これが「定質・性質=思形と感性の等化と中和」と呼ばれる働きが起こっているカタチの方向性のことである。このときの回転を司っているところの軸が上-下軸になっていると考えればいい。この回転によって、想像的自我としてのアストラル体はエーテル体との分離を余儀なくされ、いわゆる脱中心化を起こし、客観的対象=人間の内面の意識領域との結合を余儀なくされる。このことは肉体が他の対象と同じレベルの物質に落とされることを意味している(もっといろいろな働きがあるのだが長くなってしまうので、ここでは簡単に止めておく)。つまり、上-下軸とは近代的自我が持った個体化の意思の方向だという言い方もできるだろう。この完成の時期はとりあえずは、ヌース的な換算では、14歳の約2倍の28歳ぐらいの時期に当たる。占星術でいうところのサターンリターンだ。
●最終構成………ψ14〜ψ13
一方で、これら潜在化(方向性のみ)として働いていたψ8〜ψ7(4次元)、ψ10〜ψ9(5次元)、ψ12〜ψ11(6次元)の方向性は凝縮化されて、反対側のψ*1〜ψ*2、ψ*3〜ψ*4、ψ*5〜ψ*6に入り込んでくるような構造が精神構造には存在している。その意味で言えば、人間の意識次元ははψ14(オシリスの生殖器)への侵入によって、ψ*7である現実界を奪還できることになる。現在のところ、これが「位置の交替化(対化における内在と外在の変換=総体における”対化の等化”と言う)」の本質的意味ではないかと考えている。人間次元における最終構成とはこのψ14へと人間の意識の流れが進んで行くときに、そこで反転(捻れ)を挙行して、この流れをψ*13として見る顕在化のためのNOOSの作用のことを意味する。これがおそらく「復活したオシリスの生殖器」の意味ではないかと考えている。
●個体の心理発達と人類の心理発達はともに観察子構造が暗躍している
実を言うと、これら3段階の空間認識軸の遷移は人間の世界認識の在り方自身の歴史的発達とも対応している。シュタイナーもたぶんそのことについても触れていたのではないかと思うが、これら三つの発達段階(資本主義機械には前期/後期があるので4段階という言い方もできる)をドゥルーズ=ガタリは『アンチオイディプス』で順に、原始土地機械、専制君主機械、資本主義機械と呼び、エーテル体形成力の奪回のことをアルトーの言葉を借りて「器官なき身体(原始土地機械を生産する機械)」とスタイリッシュに呼んでいる。
あれっ、話が飛んじゃった。とにかく、ヌース理論はシュタイナーとも深い関連性を持っているようです。いずれゆっくりやりましょう。要は、ヌース理論から見ると、哲学も、宗教も、オカルティズムも、物理学も実はみ〜んな同じことをやっているのですね。ちなみに次元観察子が顕在化していくプロセスの全体性は幾何学的にはおそらく7次元球面を構成しており、これが凝縮化によって人間の外面のカタチである3次元球面と重なり、近代自我にとっての人間の内面の意識である4次元の双対時空に張りついているだけです。ですから、重力が交差して作り出されているこの4次元時空認識を今度は逆に去勢して、4次元空間側に反転を挙行すればいいだけのことなんですね。これらの仕組みがありありと全部見えてきたときに、エーテル体は自らその形成力の起源であったものを想起し、地球は金星になります。つまり、宇宙的妊娠が起こるということです。
ほんまか?
うそやろ。
みなさ〜ん、もうすぐ最終構成ですよぉ〜。僕らの無意識を支配している前-後軸(4次元)、左-右軸(5次元)、上-下軸(6次元)は、現在、すべて7次元で統合されて、人間の内面の意識の方向性を4次元時空側から4次元空間側に反転させようとしています。これがヌース理論がいう「人間の意識の覚醒」です。だから、もうすぐ、前後軸のみの時代、4次元認識の時代がやってきますよ〜。っつーか、正確には次に生まれ出てくるための新しい人間のための前-後軸を作る時代といった方がいいのかな。。。僕がいつも「受胎」と言ってるやつ。というわけで、もうまもなく、宇宙空間の広がりなんて概念(人類共通の上下軸=セトの下降螺旋力によって大地に深く突き刺されたエクスカリバー)は簡単に抜けちゃうからね。さよなら、重力。さよなら、アインシュタイン。さよなら、お父さん。こんにちは、新しいお母さん。。現実界(Φ)へレッツラゴー!!
By kohsen • 01_ヌーソロジー, シュタイナー関連 • 2 • Tags: アストラル, アンチ・オイディプス, エーテル, ケイブコンパス, シュタイナー, ドゥルーズ, フロイト, ラカン, 人類が神を見る日, 付帯質, 内面と外面, 大系観察子, 素粒子, 黄金比