1月 23 2009
観察精神と肉体
交信記録19940205-3
骨の主成分がカルシウムなのはどうしてですか。
骨とは力の形成される方因をいい、次元の形成と関係があります。人間の骨格や関節は第一関与における方向性の構成を意味しています。
塩とは何ですか。
元止揚の働きの総体を表相に発露させる働きがあります。
赤血球の働きとは何ですか。
元止揚の働きを原子に変えていく力を持っています。次元を変換していく力の元です。
核にある鉄原子の働きは?
人間の意識における力そのものです。
葉緑素の働きは何ですか。
元止揚の中性質を持つ部分です。
■解説(長くなりそうなので数回にわたってやります)
ヌーソロジーの考え方では、人間の肉体というものは「観察精神が中和を持った状態」として見なされる。「観察精神」というのは、「次元の対化を二回に渡って等化した精神」のことで、ここでいう「次元の対化」とは自己と他者における超越論的主観性そのもののことをいう。超越論的主観性というのは、分り易く言えば、人間というものは結局のところ生まれて死ぬまで一人であって、宇宙には実はわたししかいないのだと考えるときの「わたし」のことだ。世界をどう見ようと、結局は、それは「わたし」が考えているのであり、いかに共通了解としての客観を唱えたり、「すべては一つ」と言って愛を叫んだとしても、結局はそれらはすべてわたしが考えていることであり、わたしという主観によってしか表現できない。そういうどうしても逃れようのない主観性のことである。デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったときの「われ」と言い換えてもいいだろう。このような「われ」が現代人のわたしたち、いや、わたしの根底には生という名の下に巣食っている。
そうした「わたし」にとって、他者という存在は絶対に接触不可能な彼岸である。それは死の向こうにあるものがわたしにとっては接触不能であるということと同じくらいに接触不可能な彼岸である。しかし、「わたし」はこのわたしの世界の中において、その接触不能な他者と擬似的に交わり、その他者によって名付けられ、社会の中に組み込まれ、「わたし」という存在を持ち得ている。この意味において他者とはわたしの起源も同然である。わたしをその根底で支える者でありながら、わたしは決してほんとうの他者には触れることはできない。他者とは父の幻像のようなものなのだ。こうした他者世界のことをOCOTはオリオンと呼ぶ。此岸としてのプレアデスと彼岸としてのオリオン。こうした関係がヌーソロジーのいう「次元の対化」と呼ぶものとイメージしてもらえばよい。
では、わたしはどうすれば、ほんとうのあなたのもとへとわたしのほんとうの声を届けられるのか、わたしはどうすれば、あなたが見ている世界をあなたの眼差しを通して見つめることができるのか――わたしがあなたの立つその彼岸へと渡るには、わたしはわたしとあなたの間に介在している物質の垣根を超えていく必要がある。わたしとあなたの間には「創造」という名の永遠の距離があるのだ。一度、モノとなって死に、そして復活するときに、わたしはあなたとなって目覚めるのである。そして、もちろんこの「わたし」のあなたへの呼びかけはあなた側からの応答をも引き起こすことになるだろう。存在の声によって呼びかけられたものは、存在の声を以て「然り-Yes!」と答えなければならない。そこにresponsibility(応答する能力-責任)の真の意味がある。そこで行なわれる語らいこそが自他における真のつながりであり、存在の結び目としての物質そのものの意味なのだ。よってすべての倫理の起源は物質に淵源を持っているといえる。今、こうして目の前に無数の物質が存在するということは、そうした〈呼びかけ-受け答え〉のルートを辿った者たちがどこかに存在しているということでもあるのだ。これら物質の中に眠る聖霊たちを再び覚醒させ、この地上へと降臨させること。そして、存在の38度線とも言えるこの場所において「久しぶり」と言って互いに微笑み合いながら再会の抱擁を交わすこと。ヌーソロジーの目的はそこにしかない。
位置の変換の開始――OCOT情報が伝えるには、こうした奇跡的な恩寵の光が2013年以降、この地上に降り注いでくるという。それがほんとうなのかうそなのかを詮索しても何も始まらない。その光を降り注がせるも遮断するも自分自身の行ないの問題である。なぜなら、この世界には「わたし」しか存在しないのであるから。ヌース用語で言えば、これは定質と性質の等化と呼ぶもののことである。ここでいう定質とは自我(超越論的主観性)を作り出したものの本源力のことであり、性質とは自我として働いている本源力のことと考えていい。そして、この定質と性質もまた自己と他者の間では定質=性質*、性質=定質*という例のキアスムのかたちによって構成されているのだ。
定質と性質の等化とは別名、次元の交替化とも呼ばれる。つまり、定質と性質における性質を定質*へと生まれ返らせていき、同時にそのプロセスによって定質を性質*へと変化させていくこと。これが交替化の原理である。そして、この交替化を二度果たし終えた精神が先に挙げた観察精神と呼ぶものだ。その影が肉体であるのならば、人間の肉体とは「わたし」から「あなた」へと渡り、かつ、「あなた」から「わたし」へと渡って再帰してきたある崇高な精神の力によって作り出されたものであるということになる。ならば、人間の肉体を構成しているすべての器官、さらにはそれらの中で行なわれているすべての生化学的な反応の中には、この交替化の履歴がすべて映し出されていることになるだろう。わたしたちが意識と呼んでいるものはこの履歴が作り出している反響である。わたしの意識とあなたの意識がこの地上で交わるとき、当然、これら二つの履歴も交わり合い、そこに迷宮が生まる。社会という名の迷宮。善悪という名の迷路。平和という名の迷信。おそらく、肉体はこの地上で生きている限り、これらすべての迷いをも履歴の中に刻みこんでいる。OCOTは定質の対化が等化を行いつつ、かつ、意識(性質)の対化が等化されているときは肉体には病は存在しないと言っていた。その意味では,現在の肉体を蝕んでいる病気とは、存在の中におけるこの迷いの現れが肉体に投影されたものということができるのかもしれない。人間の世界における二人のわたしという存在自体が彼岸に存在する二人のあなたの病(やまい)なのである。
――つづく
1月 27 2009
永遠の塩の契約
今回の解説も例によってかなりアバウトです。あくまでもヌーソロジーが物質をどのようなものとして考えていこうとしているのか、その一端を感じとってもらえれば十分です
塩とは何ですか。
元止揚の働きの総体を表相に発露させる働きがあります。
塩は古神道において言霊、火とともに浄霊の三大秘儀の中のひとつとされている。大相撲の力士たちが土俵に塩を撒くのも聖なる競技の場を浄めるためだし、パワーストーン愛好者が塩で石を洗うのも、塩には霊的な浄化力があると信じているからだ。こうしたことを聞くと、科学通の人たちはその大方が冷笑を浮かべながらこう言う——そんな非科学的なことして何になるんだい。塩がエネルギーを浄化するなんて迷信を本当に信じているのかい?確かに塩は食べ物などの有機物の腐敗は防ぐさ。腐敗菌が塩分で増殖できないからね。古代人たちは微生物なんか知らなかったので、それを不浄な霊によるものだと思ったのさ。だから塩には不浄なものを防御する力があると信じ込んでいたんだろうね。そして、それが何にでも通用すると考えた。ただそれだけのこと。塩が君の部屋の気をよくするだって?はは、冗談はよしこさん。せいぜい湿度が幾分下がるぐらいで、気がよくなるなんてことはあり得ないよ。それに、そもそも気って何なのさ。
さて、OCOTからもたらされてくる情報は僕にとってつねに驚きの連続だったのだが、この「塩とは何か」という質問に対する返答はその中でもベスト5に入るぐらいの衝撃があった。ここには列挙されていないが、それは「塩とは光因(こういん)です」という内容だ。「光因」とは読んで字のごとく「光の原因となるもの」の意だが、どうして塩が光の原因なのか全く理解不能だった。
還元主義的な思考に慣れている僕らは普通、小さいものが寄り集まって大きいものを作っていると考えている。こうした思考のもとでは、つねに起源や原因はより小さいものにある。物質世界が素粒子によって作り出されたという科学的思考はその典型である。塩の主成分が塩化ナトリウムであるのならば、塩は塩素とナトリウムの化合によって生じたものであり、塩素やナトリウムは陽子や中性子や電子が寄り集まってできたものであり、結局のところ、それらの粒子はすべて光子に起源を持っているのだと。。光(可視光)も光子の一種に違いはないのだから、光子から塩が作られるという考え方には納得できても、塩が光子を作っているという論理は破綻している、そう考えてしまうのが当然だ。
しかし、どうやらOCOTたちの考え方は違うようだ。彼らにとって原子とは宇宙精神の構造体である。そして、この原子は前回話したように7のリズムを以てある意味、螺旋状にその構造を拡大していっている。螺旋とは直観的にみて重層した回帰性を象徴するものだが、この回帰運動はイメージすればすぐに分るように単に元の場所に戻ってくるわけではない。螺旋状に回転が一回起これば、その回帰は元いた場所Aの一つ上位の位置Bとなっている(下図1参照)。
この上位の位置Bがその下位の位置Aに対して何らかの働きを持っているのではないかと予測するのは心理的に自然だ。つまり、螺旋による回帰性を為す一連の位置群はスライド式に連動しており、上位が一歩駒を進めれば、下位もそれに引き連れられて動いていくような垂直の糸の関係で結ばれているということなのかもしれない。とすると、元素番号が大きいものが、小さな元素を作り出してきた原因となっているということであり、元素が素粒子を作り出す働きを持っていたとしても不思議ではない。
実際、塩化ナトリウムを構成する原子番号11番のナトリウムと17番の塩素との関係をケイブコンパスに対応させてみると面白い符号が出てくる。11番のナトリウムは対化の内面の交差領域における5番目に位置し、17番の塩素は対化の外面における5番目に位置し、重なりを持っている。原子番号11というのは次元観察子でいうとψ11のことであり、これは人間の意識における定質を意味し、その場所は表相と呼ばれる一つのモノの視像を作る位置に凝縮化されてくる。一方、17番の塩素は他者側にとっての5番目の観察子ψ*5であり、これもまた、自己側の表相の位置に重なり合ってくる。より正確に言えば、思形における表相、定質における表相はx、y方向にも表せるがここではZ方向(観察者の方向)に重ねて表示することにする(下図2参照)。
光自体は以前も説明したように、次元観察子ψ3〜ψ4の次元で構成されているが、何か一つのモノを見るというときの光は表相のことを指していることが分る。その意味での光は、少なくとも、ケイブコンパスから予想されるナトリウムと塩素の次元をその奥に携えていると言ってもいいことになる。
これだけでは一体何を言っているのか全く意味不明に聞こえるかもしれないが、僕が現在抱いている観察子の描像力からイメージすると、表相におけるこのナトリウムと塩素の重なりはおおよそ次のような話と深い関連を盛っているのではないかと予想している。
たとえば、新しいセラミックの開発をしている科学者がいるとしよう。彼は今までの材料に新しい材料を混ぜ合わせ、焦熱温度などを調整し、何度も何度も焼き直しては、新素材ができないかと苦心している。何度も試行錯誤を繰り返しては、それぞれの材料の分子構造を解析し、またそれらをうまく化合させるために、窯の中の酸素濃度を上げたり、電磁波を照射してみたりと、偶然が自分に味方してくれるのを辛抱強く待つ。そして、あるとき、自分が直観でイメージしていたものと全く同じものが突然、焼き上がる。こうした経験は程度の差こそあれ、多くの技術者たちが日々経験しているものだろう。問題はこのとき技術者の中の思考と物質との間に何が起こっているのか、だ。その技術者が「それ」を考えなければ「それ」はこの世に存在するものではなかった。それをこの世に誕生させたのは、彼のビジョン、思考、熱意、そして行いである。全くの主観の中にしか存在しなかった彼のイマージュが、客観性を持つものとしてこの世界に物質として出現する。ならば、そうなるような仕組みがどこかに隠されているに違いない——上にある「元止揚の働きの総体を表相に発露させる働き」とはこのよう仕組みのことを指している。
人間の想像力を物質として現象化させるために無意識の奥深くに張り巡らされた秘密の通路。この通路にどうやら「塩」は関係しているということなのだ。あらゆる現象はつねに表相として出現してくるものであり、それは光のもとに放たれる。「光因」という言葉も、そうした次々と産出されてくる新しい光に関係を持つものなのだろう。人間の思考と物質は聖書の言葉にあるように、永遠の塩の契約(民数記)によって結ばれているのかもしれない。
By kohsen • 04_シリウスファイル解説 • 0 • Tags: イマージュ, ケイブコンパス, 素粒子, 表相