10月 31 2014
ツルギは切断するものでもあり、連なりを作るものでもある
基本的なことだけど、4次元というのは視線のこと。つまり奥行き。視線は3次元の中にはないからね。これからの常識。視線を3次元の中に入れて考えるから、人間は物質と同列に扱われてしまう。もうボロボロだよ。まったく。
自分がいくら3次元の中で動いたとしても、視線は4次元なんだから、全く動いてないよ。それをしっかりと認識しよう。くどいようだけど、動いているのは世界の方なんだって。
「じゃあ、視線を動かすにはどうしたらいいの?」って君は聞くかもしれない。簡単だよ、他の人の視線に意識を移動させればいい。他の人から見た世界をイメージするのさ。それが4次元での運動なんだ。つまり、無数の視線の集まりが4次元空間ってやつを作っている。
もうすぐ、マジで高次元認識の力が地球に降りてくると思うよ。今までとは全く違う世界が開いてくる。物質だけにこだわっていると、おいていかれちゃうかもよ。まずはこの「動いていない自分」の位置を認識に上げよう。それが必須。
普通、運動というと、僕らは動くものをイメージしてしまう。だけど、動きが分かるのは裏に動かないものがあるからなんだよね。運動の認識はこの〈動く-動いていない〉という二つの「力」が「重」なって起きている。だから、「うごく」という字も「動く」と書くんだよ。
僕らは生命力と聞くと、ついついエネルギッシュに活動している様をイメージしてまうけれど、生命力の本質は、むしろ動くことの裏にあるこの不動性にあると考えないといけない。この不動性は世界を観照している精神のことでもあるんだよね。つまり、精神は奥行きの中にあるということ。
ちょっと難しいかもしれないけど、このへんの不動感覚をドゥルーズという哲学者は「差異」という言葉を使って、次のように言っている。
こうして差異が実体となったと同様に、運動はもはや何ものかのもつ性格ではなくて、運動そのものが実体的な性格を帯びたのであって、運動は他のいかなるもの、いかなる動体をも想定することはない。持続、傾向とは、自己に対して自己の持つ差異である。そして自己に対して差異を持つものとは直接的に実体と主体との一致である。——ドゥルーズ『差異について』P.42〜43
ここに書いてある「自己に対して自己の持つ差異」と言うのが、ドゥルーズ哲学における「差異」の意味だね。「自己に対して差異を持つものとは直接的に実体と主体との一致である」と書いているように、「差異」はわたしをかつてのわたしから引き剥がし、宇宙的実体の中へと誘うものとなる。まぁ、言って見れば、もの自体と一体化していくわけだ。
運動が物質空間で表現されるのに対して、今のところ人間は精神が持つこの観照性を空間として表現できないでいる。とは言うものの、3次元空間を超えた空間の数学的形式はすでに物理学なんかで使われている。それが虚空間や複素空間だと思えばいい。この虚空間のことをシュタイナーは反転した空間という意味でエーテル空間とも呼んでいる。
エーテル空間はシュタイナーにとってはエーテル体、つまり生命力の場だった。だから、エーテル感覚は生命感覚とダイレクトに繋がっているわけだ。そういうわけだから、エーテル空間の感覚が希薄になると、自分が生きているのか、死んでいるのか、よく分からなくなってくる。昔、あったよね。「透明な存在」っての。あれだね。
世界には物質空間しかない、なんて、本気で信じていると、君たちもこの「透明な存在」に引っ張られていくから、十分に気をつけないとね。——奥行きを大切に。
12月 24 2014
ヌースレクチャー#3のためのドゥルーズ哲学の予備知識——その3
3.ドゥルーズが研究した哲学者たちとそのキーワード・「ヒューム」/経験論」
『差異と反復』を発表する前の初期のドゥルーズはヒューム、ベルクソン、スピノザ、ニーチェといった哲学者たちの思想を研究していったんだけど、『差異と反復』で結晶化してくるドゥルーズ哲学の形(なり)を見ると、ドゥルーズは半ば確信犯的にこれらの哲学者たちを追いかけていったのだな、ということが想像されてくるんだよね。ここで「確信犯的」と言ってるのは、ドゥルーズには実は最初から自分が構築していくべき哲学のビジョンというものが明確にあって、その構築に向けて必要となる哲学者たちをチョイスし、これから自分が作り上げるべき思想に沿って、彼らの思考の足跡を分析、解釈していったふしがある、ということなの。麻雀で言う「決め打ち」ってやつかな^^。そして、引きが強いドゥルーズは自分の直感通りに牌を引いてきた。もちろん、最終的に「ロン!!」というところまでは行けなかったのだけど、僕的にはドゥルーズは役満をテンパってると思ってる。あとは世界が当たり牌を振り込んでくれるのを待つのみってところ。そこでウラドラの役割を果たすのがヌーソロジーかもしれない。。上がりのオマケがポコポコついてくる。ダブル役満!! トリプル役満!!\(^o^)/ ってな感じで(笑)。
で、若き日のドゥルーズが「確信犯的」に何を目論んでいたのか、ということなんだけど、これは一言でいうなら「主体性の哲学からの脱却」と言っていいと思うよ。「主体性の哲学」とは、簡単に言えば、いつも「オレ、オレ」とか「わたし、わたし」といった囁き声が中心にあって、そうしたかしましい自我中心体から抜け出ることのできない思考から組み立てられた哲学、のこと。「われ思うゆえにわれあり」と言い放ったデカルトの哲学などはその典型だね。こうした自我中心の哲学を解体すること。ドゥルーズの思考はスタートから、そこだけに照準を向けて蠢めき出したように見えるんだよね。
そこで最初に研究したのがヒュームという哲学者だった。何でヒュームかというと、ヒュームは「経験論」の哲学者として「合理論」の哲学者であるデカルトを徹底して批判してたから。経験論とは、一言でいえば、主体は経験によって立ち上がってくると考える哲学のこと。デカルトのように「我」が理性とともに最初から意識を支配しているのではなく、主体(人間の心)というものは、本来、経験の寄せ集めのようなものでしかなく「知覚の束」として立ち上がってくるとする考え方。「わたし」が世界を経験しているのではなく、世界の経験が「わたし」を作ってるという考え方だね。
こうした経験論の哲学で重要視されるのは、理性によって客観化された世界の事物云々ではなく、主観によって現実的に経験されている知覚世界の方であり、またその知覚とともに活動している情念の力の方ということになる。実際、ヒュームは「理性は情念の奴隷であり、そうあるべきである」とまで言ってるんだよね。そして、否定しがたい事実として、僕ら生身の人間にとっても、情念の力の方が理性の力よりもいい意味でも悪い意味でも勝ってるというのは明白なところ。ここに、すでに主観的なものの方向に意識の脱出口を求めるドゥルーズの思考の萌芽があるんだよね。「合理論」より「経験論」の重視。客観(理性)より主観(感性)の重視(正確には「主体なき主観」といった方がいいけど)。これがまずドゥルーズの第一の立ち位置と思ってもらえばいいよ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: デカルト, ドゥルーズ, ニーチェ, ヒューム, ベルクソン, 差異と反復