5月 21 2006
4次元空間における回転
ヌースが地球の自転や月の公転の本質的意味を考えるに当たって、どうしてもイメージを練り上げなければならないのが4次元の回転である。4次元の回転には、物理学的にはローレンツ変換というのがあるが、これはヌース的には4次元回転の内面的表現であり、いわゆる異なる速度で運動している観測者同士における時空座標の相互変換性のことをいう。内面では4次元が時間として働いているために、この回転は極めてイメージ化がしにくい。皆さんも相対論関係の啓蒙書に何度となくトライして頭を掻きむしった経験があるだろう。わたしも同類だ。そこでおきる空間や時間の収縮や伸張という概念に未だにしっくりするイメージがつかめないでいる。
ヌースが求めているイメージは外面知覚における4次元の回転である。だから時間は全く関係がない。というのも人間の外面においては、「今=永遠」しか存在しないからだ。「今」の中に過去や未来のすべてがある。過去や未来はつねに今というところから広がる情景にすぎない。「今」と点時刻ゼロとは全くべつものである。過去や未来に想いを馳せることができる実在としての「今」は、ある意味、光速度状態と呼んでいいのだ。そこで内面の時間は経過しない。そうした「今」を空間としてイメージしたものが視野空間そのものとしての0と無限遠の等化というものだと思っていただければいい。百万光年先の星の光は「今、ここで」輝いているのである。
さて、4次元空間上の回転を類推していくためには、2次元回転と3次元回転の関係をまず見て、その関係性をスライドさせるようにして、3次元回転と4次元回転の関係を見るようにするといい。
たとえば、3次元空間には直交する平面が三枚あることはすぐに分かるだろう。よって、そこには直交する3組の2次元回転が存在することになる。これらがいつも言っているSO(3)という群だ。これをスライドさせて考えると、4次元空間においては、直交する3次元空間が4組存在することになり、そこから、互いに直交する4組の3次元回転が存在すると考えられる。わたしが前回話した、
1、モノの3次元回転
2、わたしの同期した自転と公転によって得られるモノの背景の3次元回転
3、自他間における視座の変換に起こると想像されるモノの背景の3次元回転
これら3つが、その四つの中の三つの3次元回転に当たるのではないかと考えている。スピノールが意味するのはおそらく三番目の回転である。では第四の3次元回転とは何か——おそらく、これは最初に示したモノの3次元回転と重なり合っているのではないかと思う(ヌースが「凝縮化」と呼ぶものだ)。というのも、そもそも3次元回転という認識自体が、3次元の客観空間を前提としており、そこから放たれる一つの方向性が「見るということ(表相)」を形成しているからだ。つまり、僕ら人間の世界認識のシステムは、最初に客観世界があり、そこから個別のSO(3)を感受し、つづいて、個別の個体空間を形成し、そして、それらが等化されたトランスパーソナルな空間を形成していくような仕組みになっているわけだ。そして、トランスパーソナル(超個的)な空間が構成されたところで、再び最初に戻り、人間の個体に再び「見る」という空間(表相)を提供してくる。4次元が見えてくると、こうした〈主観-客観〉認識のループシステムがあることが分かってくる。実のところ、これが次元観察子ψ1→3→5→7という四つの意識器官が意味する真の内容なのだ。
そう考えてくると、4次元回転SO(4)(SU(2)と同じもの)とは、個体の前に3次元世界が現象化してくるために必要な絶対的な前提要素と考えられる。ヌースが最初にSU(2)対称性ありき、と豪語するのも、このような理由によると考えてほしい。その意味でSO(4)対称性とは、哲学の言葉でいうモノ自体(超越的客観性)を規定するための最低限の必要条件とも言える。
さて、こうしたややこしい空間構造の認識プロセスがなぜ地球や月の回転運動と関係を持っていると言えるのだろうか。新著では、話はそこから、宇宙空間が水素とヘリウムに満たされている理由や、地表が窒素と酸素で覆われている理由、それから、地殻がアルミとケイ素で構成されている本当の理由について及んでいくことになる。それらが世界を見ている僕ら人間と決して無関係に配置されているわけではないことが皆にも分かってくるはずだ。ほんまか?
6月 10 2006
それでも地球は回っている
前々から地球は3次元球面S^3として見なければならないと力説してきたが、その理由は、ほかでもない。通常のモノと違って、地球上には自然発生的に無数の観測者が存在させられているからである。
見る者と見られる物の位置関係を全く相対的に考えるヌース理論の考え方では、世界に60億の人間がいるならば、そこには60億通りの地球がある。だから、例えば、僕が君をお気に入りのスポットに誘って、「ほら、きれいな夜景だろ」と言ったとしても、残念ながら君と僕の見ている夜景は同じものにはならない。それは、夜景を見る角度が違うとか、時間がずれているからとかいった時空的な位置の差異を言ってるわけじゃない。たとえ、君と僕が同時刻に同位置から同方向、同距離にある景色を見れたとしてもそれらはおそらく同じものにはならない。それはなぜか——片方は「僕」が見ている風景であり、もう片方は「君」が見ている風景だからだ。つまり、そこで同じ風景が見えていたとしても、そこには「君」と「僕」という絶対的な差異が依然として残される。
地球表面はS^2である。と物知り顔で誰かがいうとき、そこではこの「僕」と「君」との差異が全く考慮されていない。そんな世界なんて現実にはどこにも存在しないことはすぐに分かるはずだ。そのことを問題としたいのだ。世界という限り、そこには必ず「わたし」がいる。「わたし」がいない世界など、世界としての意味を持っていない。「わたし」がいるということは、他者がいるということの裏返しでもあるわけだから、当然、世界には「あなた」もいる。つまり、この世界は君と僕との差異を持って初めて世界足り得ているのだ。地球とてその例外ではない。そうした差異を認識している者が見る地球は決して2次元球面などではない。君と僕との差異が組み込まれなくてはならないのだ。
ヌース理論の考え方では、自己と他者の精神の位置を決定づけるイデアはいつも言ってるようにスピノールの+1と-1によって作り出されている。素粒子で言えば、電子のupスピンとdownスピンだ。これは3次元球面の回転軸によって決まる北極と南極のようなものだ。3次元球面S^3の特徴の一つに、その対極点がS^2上の一点に射影されてくることが挙げられる。つまり、2次元球面上の一点には、3次元球面上では正反対のところにある位置が二つ重なってくるのである。この重なりが実は自他の見ている対象の重なりなのだ。要は、同じ2次元球面に見えても、その球面の表面上の一点にはS^3上の対極点である2点が影を落としている。当然、こうした重なりは球面S^2上の至る所にある。つまり、目には見えないが、地球は二枚の重なり合う認識の薄皮に覆われているのである。
こうした事情からスピノールは720度回転しなければ元に戻ってこない。地球の表面がすべて陸地だとして、君が赤道に沿って歩いて行ったとしよう。当然、君は360度回転して元のところに戻ってくる。しかし、それは君の王国内部での話にすぎない。君はその回転によって他者が見ている世界に出ているわけではない。なるほど世界を一周したのだから君自身の可能世界は開示されてくるだろうが、それでも他者と世界が共有されたわけではないのだ。行けども行けども、それは自分自身の世界にすぎないのだ。もし、君が他者と世界をシェアし合いたければ、スピノール空間が所持している残り360度の回転を巡る必要がある。もちろん、この残りの360度は別の一人の他者になって地球をもう一巡りするといったような意味ではないので注意しよう。それはもっと巨大な空間ではないかと思う。例えて言えば、赤道上に全人類を整列させて、その個別の一人一人の視点に位置を遷移させていくということだ。このときに起こっている回転が失われたもう一周の360度である。
この辺の事情をトポロジーで表現すると次のような感じだ。
SO(3)×SO(3)=SO(4)/4次元の回転群とは3次元空間の回転群が二重になっているということ。
SO(4)=SU(2)/4次元空間の回転群とは複素2次元空間の回転群と同じだということ。
SU(2)=S^3/複素2次元空間の回転群とは3次元球面を描くということ。
よって、地球表面=S^3
世界旅行をして見聞を広めるのも結構。しかし、マンションの隣の住人と顔をつきあわせて会話し、互いに理解を深めることの方がはるかに高次元の出来事なのだ。スピノール空間はその方向にしかない。
こうした認識で地球の自転とは何かについて考えてみると面白い。自然とその意味が見えてくるはずだ。地球は単なる物理力で自転しているのではない。そこには目に見えない内在的な精神の力が息づいている。こういうことを言うと、ヌースはますます「と」だと言われるだろう。しかし、そこはガリレオを真似して次のように言うしかない。
それでも地球は回っている——。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 10 • Tags: 地球の自転, 素粒子