9月 3 2008
時間と別れるための50の方法(33)
●次元観察子ψ5~ψ6へ向かうための前準備
さて、再び、次元観察子の解説に戻ります。次元観察子ψ1~ψ2、ψ3~ψ4という概念についていろいろとお話してきましたが、整理の意味も含めて、これらをとりあえず『人神/アドバンスト・エディション』に登場させたNC(ヌースコンストラクション)上でどの部分に当たるかを図示しておきます。
ここに示されたA〜Dの矢印が各次元観察子が構成する球空間の半径に当たる部分だと思って下さい。ψ1の球空間はモノの中心点からモノの表面の見えの部分(表相)へと浮上してくる矢印Aを半径とし、反対にψ2のそれはモノの表面の裏面からモノの中心部に向かう矢印Bを半径としています。
ただし、このときの球空間というのはあくまでもモノを自転させることによって意識に概念化されてくる球空間のことです。モノを自転させると、モノの違った表面が次々と見えてきますよね。その見えを綜合して為されている球空間の概念です。以前のψ1~ψ2の解説のところでも説明したように、観測者がモノの周囲をぐるりと回ることによってその相対運動として見えてくるモノの球空間のことではないので注意して下さい。そのときはモノの背景空間も回転してしまうので、次元観察子としてはψ3~ψ4の領域に入ります。
ψ3の球空間の半径は何度も言ってきたように、モノの背後性に延びていると想定されている直線上の双方向性(O→-∞、-∞→O)になります(矢印C)。この図で直線の双方向性を一本の青い矢印Cで表したのは、ψ3がマクロ方向とミクロ方向を等化している、つまりマクロとミクロの対称性を持っている、ということを意味させるためです。これは知覚正面上でモノの背後に当たる奥行きが一点に潰されているという経験的な事実から言えることです。以前の説明で、ここに主体の位置(ベルクソンのいう「持続」をもった位置)があると仮定し、物理的にはそこに光速度の実質的意味(光のベクトルと考えてもいいと思います)を重ね合わせました。
一方、ψ4の球空間の半径はモノの手前の方向に延びてきて、さらには観測者を貫いてその背後方向へと延びていくと想定されている直線上の双方向性(O*→+∞、+∞→O*)に当たります(矢印D)。ここで示されている矢印Dはψ3の矢印Cとは違い、双方向性を故意に二本の赤い矢印で記しています。
これはψ4にはミクロ方向とマクロ方向というψ1~ψ2が持っている対化が等化できていない、つまり、中和の状態(ψ3が無意識化されているということ)の意味を持たせるためです。ψ4の位置には実際には主体には見えるはずのない「自分の顔面」や背後というイメージが鏡像として想定されており、その想定のために顔面とモノの間に想像的な亀裂が生じています。いわゆる主客分離感覚です。僕らが素朴に「主体(見てるもの)」と「客体(見られているもの)」と呼んでいるのは、こうした亀裂によって生じたこの二本の矢印が指し示すノエマ(意識対象)ではないかと考えられます。わたし→もの→わたし→もの→わたし→もの………というように、中和が持った意識の反復がここに生じています。
何度も言うように、ψ4という中和が先手を持たされた意識においては、真の主体として形作られている等化(ψ3)が無意識化されてしまっているので、ψ1~ψ2領域での球空間の概念がそっくりそのままψ4~ψ3(偶数系と奇数系の逆転に注意)の球空間に覆いかぶさるように侵入してしまいます。モノの内部性と外部性を分け隔てている次元境界の意味が全く無視され、ともに3次元座標という空間概念で一括りにさせられてしまうのです。そして、ψ4が先手を打った意識には、この無意識の主体としてのψ3側の球空間は、その3次元座標における原点(微小球体)を規定する位置概念として現れてくることになります(ψ3の半径が無限小の長さに縮められていたことを思い出して下さい)。
皆さんの意識の中にも、目の前に現れた空間のいろいろな場所に、ここ、そこ、あそこ、とか言って、位置を点概念で打っている指示作用が働いているのが分るでしょう。その動き回っている点が実は主体=ψ3そのものだということです。そして、主体概念をそっくりそのままその点の方へと移動させることをヌース理論では「位置の交換」と呼びます。これは今までの僕らの思考様式から言えば、客体を主体と見なすということと同意です。
さて、こうした相互反転関係にあるψ3とψ4の球空間を対化と見なし、次の等化へと持っていくのが次元観察子ψ5の球空間の役割だということになります。当然、もしψ5が意識に顕在化してくれば、その反映と呼ばれるψ6も自然と形を露にしてくることでしょう。これは余談ですが、OCOT情報ではなぜかこのψ5の球空間の顕在化のことを「位置の等化」と呼んでとても重要視しています。「位置の等化」は「人間の最終構成」という概念と直結しており、位置の等化によって人間という次元は終わりを迎える、とまで言っています。そして、それは1999年の太陽系のグランド・クロスに反映されている(た)、というのです。まぁ、この文面だけ見れば、完全にいっちゃてるオジサンのオカルト言説ですが、実はこうしたことを淡々と語るOCOTの言葉の背景には、単にオカルトとしては片付けられない美的な空間論理が存在しています。その全貌をこの段階で一言で要約するのはとても無理なので、ここでは簡単に、ψ5はψ*11の別の現れになっている、とだけ言っておきます(人間の無意識がψ*11までの観察子の推進を押し進めてきた結果、ψ5が顕在化を起こして来たといったような意味です)。ミステリー好きな方は、この言葉の謎解きに挑んでみるといいかもしれません。材料が少なすぎて分らないかなぁ(笑)。まぁ、ψ11についての詳細を説明するときに、このへんの話題は再度取り上げましょう。
『人神/アドバンストエディション』にも書いたように、次元観察子ψ1~ψ8までは、「元止揚空間(ゲンシヨウクウカン)」と呼ばれ、これは人間の意識を活動させていく上での最も基本となる八つの場所性を表す概念です(確か『人神』の脚注欄では、この元止揚空間を胎蔵界曼荼羅の中台八葉院と対応させましたね)。場所ですから単なる入れ物です。入れ物だということは、そこにはまだ何も入ってはいません。ヌースでは次元観察子ψ5を自己として規定しますが、ψ5が自己を表すと言っても、自己が抱いている様々な情念や思考の内容物はそこには含まれてはいません。元止揚空間の顕在化は文字通り人間の意識活動の終焉を意味しているので、変換人の思考に入るときは、人間として蓄えてきた無数の表象はすべて括弧の中に括り、そのまま保留しておく必要があります。ですから、ここでいう自己とは、自己という存在を規定するための枠取り、フレームのようなものとして解釈して下さい。全くプレーンな純粋な器のみです。同様に、次元観察子のψ1~ψ2やψ3~ψ4という概念も、それぞれモノの内部と外部という概念を設定するための場所性の概念であって何か具体的な物を指し示しているわけではありません。そこに具体的な事物が収まってくるのは、観察子構造のさらなる発展を待たなくてはなりません。
こういう言い方をすると、ヌース理論は訳が分からん、実生活に何の役にも立たねぇー、所詮、概念のお遊びよ、などと皆さんの厳しいご批判を受けてしまいそうですが、ヌース理論は人間ではない何か全く別のものを作ろうとしている作業ですから、致し方ありません。興味のある方だけが思考のお遊びと思ってつき合っていただければそれで十分です。
能書きはほどほどにして、ψ5~ψ6の幾何学的構成の具体的な解説に移りましょう。――つづく
9月 12 2008
時間と別れるための50の方法(35)
●男になるか、女になるか
街を歩き回る。部屋の中をうろつき回る。野原を駆け回る。「わたし」は毎日の生活の中で何とも忙しなくあちこち動き回っています。しかし、本当のところ、それは他人の目から「わたし」を見た場合に言える言い方であって、素直に「わたし」自身の位置から世界から眺めてみれば、動き回っているのは「わたし」ではなく、モノや世界の方だということが分ります。このように主観的な空間では、「外在」と呼ばれる世界はあたかも映画のスクリーンに映し出された像のようなものとなり、「わたし=内在」と呼んでいるものの方はそのスクリーンの方に対応してくるわけです。アドバンスト・エディションにも書きましたが、こうした微動だにしていないスクリーンとしての「不動のわたし」を明確に感覚化したいならば、一本の鉛筆を用意するといいでしょう。4次元を見るための立方体鉛筆ならぬ眉間鉛筆。鉛筆を視線の方向に沿って眉間に立て、そのまま部屋の中を直進したり、蛇行したり、回転したりと、いろいろと動き回ってみるのです(下図1参照)。
そのとき、視野空間には鉛筆と室内の風景が映し出されます。鉛筆の背景となっている室内風景は次々とその見えを変化させていきますが、鉛筆の方は眉間に固定されているので、周囲の風景の動きに対して常に不動を保つことになります。鉛筆が動いていないのであれば、眉間も動いてはおらず、眉間が動いていないのであれば、当然、身体も動いていはいない。つまり、「動いているのは世界の方であってわたしではない」という相対的な不動感覚が、この一本の鉛筆の見えによって認識に強調されてくるわけです。結果的に言えば、このときの鉛筆が次元観察子ψ5に相当してくることになります。ψ5は次元観察子のψ3~ψ4(モノから広がる空間)、ψ3はψ1~ψ2(モノの内部の空間)をその部分として含んでいますから、結局、ψ5はψ1~ψ4までの全観察子を統合している観察子ということになります。これは平たくいえば、主観的な身体感覚における「前」そのものに対応しています。「アドバンスト・エディション」にも書いたように、人間、モノのどの部分を見ようと、何を見ようと、どこを向こうと、どこへ赴こうと、「前」であることには変わりはないということです。
客観的空間の中においてはそれこそ身体における「前」方向は、3次元空間の任意の一つの方向と何ら変わるものではありませんが、主観的空間の中においては客観的空間に想定されたあらゆる座標からの広がりをすべて一本の線の中に束ねることのできる能力を持った方向でもあるのです。そして、言うまでもなく、この一本の線分は奥行きが無限小の長さに潰された線分になっていますから、あのベルクソンのいう「持続」をすべて含み持った場所と考えなければなりません。ヌースが次元観察子ψ5を自己を作るための容器と考えるのはそのような理由からです。「後」だって手で触れば現実として知覚できるじゃないか、という人もいるでしょうが、それは観察子でいうとψ1~2の領域(触覚空間)に当たります。ですから「後」ではないとも言えます。視覚的意味での「後」には以前もいったように、対象の背景空間も知覚されなくてはならず、そういう知覚は他者の領域であって決して「わたし」には存在してはいません。
では、ψ5の反映である、このψ6=「後」方向とは何なのでしょう。次元観察子ψ3~ψ4の解説のところでも説明したように、主観が「後」方向を意識するということは、対峙している他者の前方向を主観が想像的に意識に取り込むことと同じ意味を持っているのが分ります。つまり、鏡像空間を覗き込んでいるということですね。その意味で、主観が「わたし」の顔面を意識する際には、その意識の矢は必ずわたしの背面方向に向いており、さらにそこから顔面自体のx、y、z軸での回転を想像してしまうと、背面側にも見えない想像的な3次元空間が広がりを持ってくることになります。ここで、皆さんの空間感覚を確認してみて下さい。背中の後に広大な空間が広がっているという感覚があるのではないでしょうか。それです。そして、そこで自分の身体の回転を想像してみて下さい。そうすると、今度は前側にもその想像的な広がりの感覚が出てきてしまいます。どうも僕らはそうした「後」の集合を時空と呼んでいるのではないかということです。宇宙空間や星々の世界を遠い遠い場所としてイメージしている意識もこうした「後ろ向き」の意識が「前」に重なり合うことによって作り出されているのではないかと思います。こうして「前」が作る「ほんとうのわたし(真の主体)」という場所と、「後」が作る「わたし」を包み込んだ広大な空間という場所とが、人間の意識を働かせていくための最も基本的な「人間の条件」として意識に設定されてくるというわけです。
ユダヤ教のミドラーシュには光を意味する「OR」が皮膚の意味に変わったとき、宇宙に原初的なジェンダーの分化が起り、女性という存在が生まれてきたと説いています。知覚球体がもし光速度の皮膜で覆われているとすれば、まさに「前」という膜で閉じられた次元観察子ψ5という球空間は光の皮膚と呼んでもいいものになります。そして、この皮膚において、触ること(ψ1)や見ること(ψ3)、聴くこと(ψ5?)という僕らが知覚と呼んでいる出来事が起こっている。。。もちろん、ここでいう知覚とはベルクソンのいうイマージュを含んだ知覚のことです。とすれば、知覚とは、外部の対象を捉える能力というよりは、むしろ身体の内部空間を形成していくための機能と言い換えた方がよいのかもしれません。当然、そのときの外部とは次元観察子ψ6に相当する空間であって、この空間は知覚不可能な場所なわけですから、ただ人間が持った想像力の中で3次元という概念だけが彷徨っているような闇の世界となります。ψ5を先手に取って世界を見るか、ψ6を先手に取って世界を見るか――ミドラーシュが説く通り、「位置の等化」と「位置の中和」というヌース的な意味でのジェンダーの最初の分裂もここで起こります。5を取るか、6を取るか、女なるものに変身するか、男なるもののままでいるか、それがこれからの21世紀的な問題なのです。
つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 0 • Tags: イマージュ, ベルクソン, ユダヤ, 人類が神を見る日, 位置の等化