1月 31 2019
物質を対象として見る時代を終わらせよう
奥行きは通常、私秘性を担保する空間と見なされている。しかし、そこには同時に独在性を担保する空間が重なり合っている。
前者を「感性」として働く知覚空間とするなら、後者は持続空間としての虚空間だ。この二重性を感覚に上げること。ヌーソロジーの空間思考はそこから始まっている。
「わたしたちは人間だ」という一般化された人間観が世界の実像を大きく歪めている。人間一般は世界に対して外在化させられている。世界に対して外在する方向ではなく、内在する方向へと意識を転換させること。
ヌーソロジーがいう〈付帯質の外面〉から〈付帯質の内面〉への次元シフトとは、そのような意味合いを持つ。
この方向覚醒が、今まで時空概念の中で一般化させられていた人間という存在を二つに分化させ、複素的存在へと異体化させる。
複素空間とはこのように自己と他者の絶対的差異化を表現している空間である。自己が虚なら、他者は実。他者が虚ならば、自己は実というように。
こうした空間認識が発現すると、無限小や無限大といった時空独自の概念は姿を消す。無限小と無限大は、自己的視座か他者的視座かの違いにすぎなくなるからだ。
自己的視座においては世界は無限小の中にあるが、他者的視座にとっては無限大の中にある。精神と物質の継ぎ目もその視座の転換性の中にある。
当然のことながら、現在の人間は互いに他者的視座において世界を構成しているので、無限大の世界を共通の世界(宇宙)と見なし、その中で人間一般を演じさせられていることになる。
こうした視座の一方的偏りが正常な世界の在り方を大きく歪めている。物質はその錯視の産物だ。
じゃあ、何が物質として錯視されているのかというと、それは正常な自他関係ということになるだろう。物質の内部はわたしたちが到達すべき理想的な自他関係で満たされている。
それが「倫理」の位置だ。空間思考が〈付帯質の内面〉に入れば、その風景が少しだけ見えてくる。
物質を外から見る時代を終わらせよう。物質は対象ではないのだ。
1月 22 2020
日本語の精神の中に生きるあなたに
下の川瀬さんの動画は「日本語は付帯質を前に持つ」というOCOT情報の内容と関係しています。
日本語の基本は感性言語だということです。
西洋の言語にしても、古代は感性言語だったのだろうと思いますが、現在は思形言語に変形している。
感性言語を執拗に死守しているのが日本語だと言えるのでしょう。
感性にはヌーソロジーがいう意識進化の方向性が眠っています。
感性言語は元止揚の顕在化(持続空間の顕在化)に方向を持っているということです。「物を開く」ということの意味ですね。
「ものを開く」とは持続空間の中に自他の結びを作り出していくということ。
ですから、日本人の言語意識は「結び」の能力を未だ秘めていると言っていいのではないかと思います。
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By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, 付帯質