ドゥルーズ以外の哲学者の本を読むのは久々

現在、哲学界で話題になっている本、メイヤスーの『有限性の後で』をとりあえず読了。哲学のテクニカルタームが頻出してちょっと読みにくかったが、論旨はどうにか追えた。Amazonでポチッたのは失敗だったとまでは言わないが、果たしてこの本が巷で騒がれているほど価値のある本かというと「 ………? 」。
 
ただ、メイヤスーらが展開し始めているこの思弁的実在論とやらが、哲学界に物質に対する思考の再開を迫る契機になるのであれば、それなりに評価されていい本なのかもしれない。
 
メイヤスーの論旨はとてもシンプルなものだ。一言でいうなら、超越論的なものと科学的なものの折り合いをどうつけるか、ということなのだろう。カント以降、哲学は一つの超越論的なものの準拠枠に則って思考を進めてきた。
 
つまり、世界がこのようにあるということは人間の意識とともにこのようにあるのであって、人間の意識を除外したところにある世界=もの自体については、思考は何も言えない。「語りえぬものの前においては沈黙せよ」というヴィトゲンの物言いもまた、この理性の権利の使用の限定を意味するものだった。
 
メイヤスーはカント以降の哲学が持ったこうした思考の在り方を相関主義という言葉で括って、この相関主義の縛りを解いて相関主義の外部にある「物自体」の方向への思考の可能性を論理的に示唆していく。そのトリガーとなってくるのが科学的世界観による数理で語られているところの「物自体」の世界だ。
 
この世界の有り様を、外部の何ものかによって必然化することはできない。相関主義はそれを固く禁止している。しかし、科学主義はそれこそ人間が存在する以前の世界のみならず、人間がいなくなった後の世界についても、平気で論を立てるし、現代の常識人たちはまたそれが正しいものだとも考えている。
 
「語れないもの」=「絶対的なもの」を超越的に語る信仰主義と事実的に語る科学主義。相関主義はこの両者の間に立って、人間の思考がそのどちらの極に走るのも禁じているわけだが、どちらを相手にするにせよ、相関主義の口からは絶対的なものの世界が存在しないと断言することはできない。
 
言い換えれば、哲学は宗教と科学それぞれに語る「物自体」の世界の在り方をうやむやにしてきたとも言えるわけだ。しかし、時代の要請がこのオブスキュアな状況を打破することを哲学者たちの無意識に要請してきているのだろう。
 
哲学に内在するこうした「有限性」の檻を何とか越えていくために、哲学自体がこの種の絶対性の厳密な規定をどのように考えればよいか――これがメイヤスーの問題提起だと言っていい。
 
メイヤスーの指摘で個人的に一番面白かったのは、「相関性こそが真の唯一なる即自的なものである」と仄めかした部分だ。ひょっとすると、超越論的なものこそが「もの」自体である、ということを言いたかったのかもしれない。
 
ここから一気にドゥルーズの物質論と接続していくのではないかと期待を持って読み進めたのだが、ドゥルーズに関しては途中、一種の生気論として「相関主義」の中に放り込まれてあっさり終了。え~!!嘘だろ、という感じ。
 
とにかく、この本が何でこんなに話題になっているのかよく分からない、というのが正直な感想である。
 
あえて言わせてもらうなら、「相関性こそが真の唯一なる即自的なものである」という部分にもっと切り込んでいくと面白いのになぁ~。
 
科学が提示する数理的な「物自体」と、宗教が提示する超越性としての「物自体」を接続する思考は、相関性を「物自体」の基底として思考していく以外に道はないと思うのだけどね。
 
それが、ヌーソロジーがいつも「素粒子とは超越論的無意識の構成だ」と言ってることの真意なんだけど。。ぶつぶつ。