12月 9 2008
時間と別れるための50の方法(57)
●止核と核散について………トランスフォーマー型ゲシュタルトが持つ意義
正六面体と正八面体の4つの階層によって構造化されたプラトン座標の機構。これは次元観察子の骨組みと言っていいものに当たりますが、ここで見ていただきたいのは、正八面体における3本の立体対角線と正六面体における4本の立体対角線の関係です(下図1)。
これらの立体対角線の長さは正八面体を1とすると正六面体は√3です。正八面体と正六面体が持っているこの立体対角線の数「3」と「4」の関係は、神秘学の系譜が「3」と「4」を宇宙の成り立ちの根本的要素と見るのと同じで、ヌーソロジーの観点から見てもとても奥深いものを感じさせます。つまり、観察子のシステムというのは、ユークリッド次元でいうとそれこそn次元(n→∞)に向かって限りなく続いていくのですが、しかし、「数が1から4までしか存在しない」のと同じ理由で、空間も実は3次元的な観念と4次元的な観念がベースとなって、5次元以上の空間というのは、実は、3次元的なものと4次元的なものの反復による多重化によって構造化されているにすぎないということなのです。
そのように考えた場合、プラトン立体というのは確かに「立体」という名が冠せられてはいるのですが、実は、通常考えられているような3次元ユークリッド空間内の立体的な表象として捉えられるべき形状ではなく、空間の根底にセットされた本源的な観念の機構のようなものではないかと考えられます。
そのような理由からかどうかは分りませんが、OCOTは、この正八面体のことを「核(かく)」、正六面体のことを「核散(かくさん)」と呼び、次元構成をコントロールしていくための調整質と見なしているようです。核とは文字通り、意識の働きの中核を意味する言葉で、核散はその中核を解体させることを意味します。
プラトン座標ではこの正八面体と正六面体が三重構造をもって構成されているわけですが、この「核」と「核散」が持った働きの三重性は、スピリチュアルな数字遊びが好きな方には「6・6・6」と「7・7・7」と言った方がピンとくるのかもしれません。ここでの「6」は正八面体が持った方向性の数(±x、±y、±z)を意味し、これが三重構造をとっている「6・6・6」では、次元観察子のシステムは観察子の連結の要となっている4次元性を見失い、各々の観察子階層の差異が見えなくさせられてしまいます。このとき「核」は「止核」していると言い、特に次元観察子ψ1~ψ2での止核力は「スマル(核質化した不連続質の意)」と呼ばれます。これはいわゆるモノの自己同一性を作り出している力のことです。物質概念のことですね。
一方、ここでいう「7」とは、観察子の差異を見出す√3エッジとしての4次元性のことです。この「7・7・7」の方では核散ルートの方向性が開かれ、「核」は「6・6・6」の差異を見せてくると同時に、解体を余儀なくされていきます。そして、言うまでもなく、この「核」から「核散」への接続は、現在ヌーソロジーが行なっている「人間型ゲシュタルト」から「トランスフォーマー型ゲシュタルト」への移設作業のことを意味しています。ちなみに、この場合の「8・8・8」とは、「7・7・7」の付帯質として存在させられている時間の働きに相当していると言えるでしょう。
意識が「核質」に止められ「止核」して働いてる状態が『シリウス革命』でも紹介した「調整期」に当たり、核散に入っている状態が「覚醒期」に相当します。覚醒期においては、タカヒマラにおける止核作用が解除されて核散が生起し、中和作用(付帯質の働き)が等化作用(新しい精神の働き)へと変換されていくことになります。
ここで、プラトン座標の正六面体と正八面体に双対の正四面体を書き加え、拡散方向である4次元から垂直に見下ろしてみることにしましょう。すると下図2のような次元観察子のパースベクティブ(透視図)が目の前の空間に出現してきます。ヘクサグラムの多重構造です。この図形はヌーソロジーではシリウス次元を象徴する形の意味を持ちます。つまり、付帯質(人間の状態)を精神(ヒト)へと反転させていく次元です。付帯質が六茫星でそこに直立する軸が精神だと考えておいて下さい。
コ : ヘクサグラムとは何ですか?
オ : 中性質があるということです。意識が通る道のようなもの。(シリウスファイル)
「意識が通る道」というのはヌース(旋回的知性)のルートと同じ意味を持ちます。この道は視線を軸とする回転によって螺旋状に運動しながら観察子の次元を上昇させていくことになります。もちろん、その反映としてのノスも逆方向に交差しながら通過していきます。六茫星(ヘクサグラム)はシリウスの象徴です。次元上昇へのゲートがパックリと開かれている状態と考えて下さい。楽園への扉がやっと開いたということでしょう。この中性質についてはまだ解読が不十分なので、ここでは説明できません。解読が深まったら、いずれ、DNA構造について語るときに詳しく解説していきます。
――つづく
7月 3 2009
空間を哲学する——対話編その3
●記憶が存在する場所
半田 視覚的にはモノの存在は常に前において確認されているのだけれど、問題はモノが目の前に見える、モノが目の前にある、というのはどういうことかを考えなくちゃならない。
藤本 はっ?一体何を言ってるんですか?
半田 モノがあるという認識がどうして意識に可能になっているのかってことだよ。
藤本 それはさっき言われましたよね。言葉じゃないんですか。モノが名を持つことによって認識されているということじゃないんですか?
半田 悟性的にはそうだね。でも、感性的には違う。言葉を知らない赤ん坊でもおそらくモノの存在を直観しているはずだ。その証拠に、母親が笑顔を作ると赤ん坊も笑顔で応えるだろ。そこに何かが存在しているという認識の前提に直観があり、直観が意識に成り立つための最も重要な要素は記憶じゃないかと思うんだ。
藤本 「ある」という認識は記憶がもとになっているということですか………。
半田 うん。知覚自体は言ってみれば現在の切り取りでしかないよね。今、この灰皿を見たとしても1秒前の灰皿はもうそこには存在していない。1分前の灰皿や1時間前の灰皿について言えば尚更だ。それらはいわゆる過去に飛び去ってしまっていて、今、現在、この瞬間にはもうそこにはなくなってしまっている。だから知覚だけでは灰皿が「ある」という持続状態を意識することはできない。つまり、灰皿はあり続けているからあるのであって、この「あり続けている」という認識には当然のことながら知覚されたものが記憶として継続してなくちゃならない。
藤本 なるほど、面白いですね。普通、僕らはモノは自分の意識とは無関係に外の世界にあるものだと思っている。人間がいなくたって外の世界は太古から存在していたに違いないと考えていますよね。このような捉え方だと記憶はモノがあるということに対して従属的な関係を結んでいることになります。とにかく外の世界は人間の意識とは無関係にあり続けていて、そのあり続けている世界を意識で想起したときの知覚が「記憶」と呼ばれている。こういう考え方では、世界があり続けていることと記憶は全く別物になってしまう。でも、ヌーソロジーでは人間が持った記憶自体が「ある」ということを支えている力だと言ってるわけですね。
半田 うん、全くその通りだね。もっともこれはヌーソロジーというよりもベルクソンという哲学者が言っていることなんだけどね。つまり、何が言いたいのかというと、物質が存在しているという認識自体が実は記憶だということなんだ。物質が無条件に外在世界にあって、それを人間が知覚してその記憶を所持しているのではなくて、物質があるという認識が意識に起きていること自体が実は記憶だということなんだよ。いやもっといっちゃうと物質自体が記憶と言ってもいいね。記憶というのは僕らの一般の感覚では内在の働きだよね。だからベルクソンはこうした内在の息がかった物質のことを外にあるとされる従来の物質概念とは区別してイマージュと呼んでいるんだ。だから、ベルクソンにとってみれば宇宙が存在するといったとき、それはイマージュの総体を意味している。
藤本 わぁ、なんかそう聞いただけで、宇宙自体が自分自身みたいな気がしてきますね。世界があるということ自体が一気に自分の内なる広がりのような気分になってきます(笑)。
半田 だね(笑)。ベルクソンのねらいもそこにあったと思うよ。このイマージュという概念は19世紀までの哲学が引きずっていた旧態依然とした主体と客体の二項対立を解消するためのベルクソンなりのキーコンセプトなんだ。
藤本 ん~、確かにそう考えると主体と客体を分離して考えることなんてできなくなりますね。概念にパワーがあるなあ。天才的閃きですね。
半田 うん。すごいよね。
藤本 で、そのベルクソンのいうイマージュというものがヌーソロジーとどう関係してくるのでしょう?
半田 イマージュという概念はそれまで主体サイドの働きと考えられていた記憶という作用を客体サイドの物質に重ね合わせることによって、主体の居所を対象側に移設しようとする試みだと言えるんだけど、ヌーソロジーは単に対象だけではなく対象の背景空間についても考えないと、このベルクソンのいうイマージュという概念に論理的な整合性を持たせることは難しいのではないかと考えてるんだ。実際、ベルクソン哲学のことを神秘主義的だと言って批判する人たちも多くいるしね。
藤本 対象の背景空間についても考える?
半田 そう。つまり、僕がさっきから「前」と呼んでいるやつだね。対象の存在は確かに「前」で確認されている。でも、その「前」は対象だけじゃなく対象の背景空間も含んで初めて「前」と呼べるってことさ。
藤本 半田さんがいつも言ってるモノは図と地の関係によってしか認識できないというゲシュタルト心理学の内容のことですか?
半田 もちろんその意味もあるけど、ここでいうモノの背景空間というのは「前」という方向が持った空間の奥行きについて言ってると思ってほしいんだ。
藤本 奥行き………。
半田 一言で言えば、「奥行きこそがイマージュの源泉である」ってことかな。
藤本 奥行き………がイマージュの源泉?
半田 うん。さっきも言ったように目の前にモノがあるという認識はベルクソンの言い方を借りれば必ず幾ばくかの時間の経過を含んでいるということになるんだけど、この時間の経過を漠然と記憶や持続という言葉で観念的に説明するのではなく、その時間の経過がどこにあるのかを知覚を通して論理的に探索してみると、どうしてもモノの背後にある奥行きの中にあるんじゃないかって思えてしまうんだよね。
藤本 時間の経過がモノの背後としての奥行きにあるってどういうことですか?
半田 藤本さんはアインシュタインの相対性理論に出てくる時空という概念は知っているよね。
藤本 ええ、多少は。時間と空間は別物ではなく4次元の連続体として一体になっているってやつでしょ。
半田 ご名答。僕らはアインシュタインが現れてもう百年以上も経つというのに、空間や時間に対する見方は実際のところ相変わらずニュートン的で、空間は3次元で、それとは別に時間が刻一刻と流れていると考えている。つまり、時空一体として空間や時間を見ることにまだ不慣れなんだよね。しかし、時空としてこの空間の広がりを見れば、それは遠くに行けば行くほど過去になっているということになる。
藤本 ええ、半田さんも『人類が神を見る日』で書かれていましたよね。視覚的な情報は光で運ばれてくるわけですから、遠方から情報が届くまでに時間を要するということですよね。たがら、100万光年彼方に見えるアンドロメダ星雲は今現在のアンドロメダ星雲ではなく100万年前の姿になっている。
半田 そうだね。科学者たちがブルーバックスなんかで一般人向けによくやる説明だよね。しかし、これは極めて重大な内容だと感じないかい。奥行きはそれが深まれば深まるほど過去となっているということ――つまり、このことは人間が前に見ている空間の中には過去から現在に至るまでの一切の時間の流れがぎつしり詰まっているということを言ってるのと同じだよね。
藤本 なるほど。科学者たちの言ってることを真に受ければ確かにそういうことになりますね。
半田 つまり、時空という概念を通して「前」を見た場合、奥行きは単なる空間としての3次元の一部ではなくて4次元になっているということなんだよね。
藤本 時間は4次元ですもんね。
半田 うん。このことは裏を返せば過去は空間的にはどんどん遠ざかっていっているものとして翻訳が可能だということなんだ。僕らの知覚との関係でいえば、たとえば今、目の前に灰皿があるとして、一秒前の灰皿という存在は現在の時点では30万km彼方の奥行きの中に遠ざかっているということになる。昨日の灰皿は同じく一光日(光が1日かかって進む距離)彼方の奥行きの中だ。
藤本 ………つまり、それが記憶だということですね。記憶は奥行きの中に畳み込まれていると。。
半田 そうだね。ベルクソンの考え方とアインシュタインの考え方を繋ぎ合わせるとどうしてもそういう推論が出てきてしまう。モノというのは記憶をも含んでモノとして存在していて、ベルクソンに言わせればその記憶というのは一般にいうような断片的な記憶のことではなく、常に在り続けているという持続感覚のことなんだ。その持続感覚は言い換えれば僕らが感じている時間の流れそのもののことだから、それは前の中に、つまり、奥行きの中にあると考えても論理的には矛盾はないよね。
藤本 なるほど。。だから、前が主体だというわけだ。。
半田 うん。まだまだ不明瞭なところはあるけれど、ヌーソロジーはそういう考え方をしていると思ってくれればいいよ。
藤本 ん〜、前が主体で、後が客体かあ。。ぐるっと体を回したときに、前だけで作られている球空間と後だけで作られている球空間の二つがあるってことなんですね。そして、僕らが普通、外の世界と呼んでいるのが後が集まってできている球空間で、こころの世界と呼んでいるのが前でできている球空間になっていると。。
半田 ああ、大まかにいいうとそれらが順に次元観察子のψ6とψ5と呼んでいるものになるね。
藤本 でも、なぜなんでしょ。そういう仕組みがこの空間にセットされているとしても、なぜ僕らは前を客体世界と感じ、むしろ後側を主体世界と感じているんでしょうかね。それってやっぱりさっき言われた言葉の力のせいでしょうか。言葉が後の空間にバラまかれることによって、その言葉の集まり自体を主体と感じているからなんでしょうか?
半田 そうだね。前が後側に鏡像を作っているんだよ。その意味で言えば、僕らが普段、外の世界と呼んでいるものは鏡の中の世界なのさ。さっきも言ったように想像的なものだよ。
藤本 それも『トランスフォーマー型ゲシュタルトプログラム』に書いてありましたよね。
半田 うん。この際だからしつこく説明しとくね。「わたし」にとっての後の世界というのはさっきも言ったように他者の前に当たる世界だよね。こうして僕と藤本さんが向かい合っているとして、藤本さんには僕の後の世界が見えているはずだ。いや、それだけじゃく、僕の前に見えている様々なモノの背後もおそらく見えているよね。それが僕にとっての「人間の内面」ということになるのだけど、それは何度も言うように僕には実際には見えていないわけだから、藤本さんが前に知覚しているものを僕が認識するためには僕は藤本さんが発する言葉でしか構成するしか方法がない。そして、そのとき同時に藤本さんが前に見ている世界の映像もイマジネーションによってコピーすることになる。つまり、藤本さんの視野空間に僕を含む僕の背後世界がどのように見えているかってね。これは僕にとっては僕の鏡像に等しい。
藤本 ええ。朝起きたとき洗面所に立って鏡を見ると自分の顔だけではなく背後世界も映し出されている。という話ですよね。それは他者の視野空間に映っている自分の像とほとんど同じものだと。
半田 うん。鏡映反転を起こしているわけだ。だから、言葉を他者から聞き取りながら習得して他者が見ている世界を言葉としてコピーし、そのイメージで世界を構成していくというのは、鏡像空間を作っていくことと同じ意味を持っているということになるんだ。
藤本 つまり、僕らが外在世界と呼んでいるものは言葉によって概念として構造化されていて、かつそれは鏡像空間の中に投げ込まれた鏡像的なイメージの集積にすぎないということですね。
半田 おそらくそうだね。だから、本当の主体である前は反転させられてしまって、その鏡像空間の中で自分の顔を主体として感じてしまうことになる。
藤本 半田さんが仮面(ペルソナ)と呼んでいるものですね。
半田 前の面が後の面に反転させられている。そしてそのときの後の面が集約させられたものが顔としての「面」だと考えるといいよ。
藤本 面白いですね。日本語でも英語でも面=顔、face=faceです。こりゃあ偶然の一致じゃないな。ほんとうの主体である前が後になってひっくり返っちゃうんですね。それと同時に前であったものに後が重なり、ほんとうの前は意識から消え去って、客体と呼ばれる世界になってしまう。。主体と客体の反転だ。
半田 ああ、前が無意識の中に沈んじゃうんだよ。フランスの哲学者や文学者たちは神秘思想の影響もあって人間という存在自体を性的な倒錯者だとよく言うんだけど、このひっくり返りもその倒錯の意味と考えていいかもしれないね。ヌーソロジーが4次元の反転と呼んでいるやつさ。おそらく持続としての時間もそのときに普通の時間に化けている。
藤本 普通の時間に化けているってのは?
半田 ベルクソンの言葉でいう「空間化された時間」というやつだね。イマージュとしてモノの背景空間の中に浸透していたはずの時間が鏡像的にヒックリ返されることによって単なる時計的な時間に置き換わってしまうとでもいうのかな。直線上に目盛りを打ったように解釈されてしまう時間のことだよ。
藤本 ?記憶における時間と通常の時計の時間は違うものだということですか?
半田 うん、全く質が違うものだと思うよ。
藤本 どういうふうに違うんでしょ?
半田 その違いを深く理解するにはベルクソンの本(『意識に直接与えられたものについての試論』や『物質と記憶』)を読んでもらうのが一番いいんだけど、ごくごく簡単に言うと、時計の時間は過去、現在、未来がすべて一様で均質的なものでしかないということなんだ。直線を引いて、中央にゼロ時刻を取り、左側に過去、右側に未来をそれぞれ方向づけ、直線上を現在という点時刻が流れて行くってイメージだよね。
藤本 物理学が使う時間軸みたいな考え方のことですね。
半田 うん。でもこれだと時間は単に空間の位置座標のようなものでしかなくなって、実際に僕らが感じ取っている時間とは程遠いものになってしまう。たとえば、現在というのは今、この瞬間のことを言うわけだけど、僕らの実際の生にとっては現在というのは必ず過去や未来を含んでいるよね。現在は過去の集積によって初めて現在となり得ているのだし、また、未来への希望や不安も抱えて初めて現在足り得ている。現在というのはこのように過去と未来の間に挟まれながら、それらを絶えず含んであるものだ。しかし、直線的な時間においては現在というのは、その直線上の単なる点時刻のことでしかない。点時刻の中には当然、その瞬間、刹那しか存在しておらず、過去や未来と有機的なつながりは何一つ持っていない。つまり、点が集まって線を作るという思考と同じで、瞬間瞬間の集まりのようなものとして時間の流れを想定しているわけだ。
藤本 そうですね。今、今、今という今の連続的な連鎖で時間が成り立っていると確かに思っています。
半田 しかし、そんな瞬間、瞬間なんてものは存在していないと考えた方がいいんじゃないかな。大森荘蔵という哲学者がうまい喩えをしていて僕も思わず笑ったんだけど、ハムの切り口をいくら集めたところでハムにはならないってことだね。それと同じで点時刻をいくら集めたところで時間の流れになることはない。それはせいぜい真の時間である持続に対する一つの参照の仕方にすぎず、単に整然と数字のラベルを貼付けて序列化しているだけってこと。ベルクソンが時計の時間のことを空間化された時間と呼ぶのはだいたいそんな内容かな。
藤本 でも、半田さんはさっき、奥行きの中に時間があると言われましたよね。そのときの時間も奥行きが深まれば深まるほど過去で、浅ければ浅いほど現在に近づくってことにはなりませんかね。なんだか空間化した時間のイメージに近い感じがしますけど。
半田 そうだね。奥行きに距離があるのならそうなるよね。でも奥行きに距離なんてないとしたらどうなる?
藤本 ………? 一応、奥行きというからには長さがあるような気がしますが。
半田 それは奥行きではなくて「幅」だと思うよ。奥行きを真横から見たことを想定して幅としてイメージしてしまっているんじゃないかい。僕が奥行きと言っているのは身体における絶対的前方向のことだよ。自分がそれを真横から見ることができるのであれば奥行きは幅に変換されて長さを持つかもしれないけど、こと身体空間においては奥行きはあくまでも奥行きであってそこには長さは存在していないよね。つまり、実際の知覚では奥行きというものは1点で同一視されて潰されてしまっている。だから、その厚みは無限に小さいものだと言わなくちゃならない。
藤本 観察の位置を横に出しちゃいけないということですね。
半田 うん、現段階ではダメだ。それだと身体空間における左右が介入してきてることになる。
藤本 確かに前だけ見る限りではそこにある奥行きの方向は点に潰されていますね。ということは、記憶はその凝縮化された点の中にグチャグチャになって蓄えられているってことですか?
半田 おそらくね。そういう考え方もできるってことだよ。射影として潰されている奥行きの中に圧力のようなものが加わっているかどうかは分からないけど、とにかく点に潰されてしまっている奥行きの中にある時間は数直線上で示される時間のように整然と秩序立てられて並んではいないと思うな。それこそ実際の記憶そのもののが僕らの意識に示す在り方と同じように、それは重なり合ってランダムに蓄えられている感じがする。過去に遡れば遡るほど記憶が薄まるってこともないし、時計的な時間の順序で記憶が整然と並らんでいるってこともないだろ。
藤本 ええ。半年前と一年前の区別は記憶だけじゃ判別できないですね。カレンダーをあてがわないと。。
半田 うん。つまり、僕らの時間の観念というのは、それこそ外面の時間(記憶)と内面の時間(時計、カレンダーでの時間)という形で混淆的に作り出されているんだよ。その二つがあって初めて時間は意識化されている。だけど、僕らはこれら二つの時間の在り方をうまく分離することができず意識の中でごっちゃになっているんだ。それを明確に区別していくことがヌーソロジーが言っている人間の内面と外面の見極め作業のことだと言い換えてもいいかな。
藤本 男の時間と女の時間ですね。時計の時間が男のリビドーによる時間、記憶の時間が女のリビドーにおける時間。二つが合わさって初めて時間が存在している。。
半田 そういうことだね。時間もまた悟性と感性の共同作業によって生まれているものなんだよね。
——つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: イマージュ, トランスフォーマー型ゲシュタルト, ベルクソン, 人類が神を見る日, 内面と外面, 大森荘蔵, 対談, 言葉