6月 14 2017
一本の線の出現から何が始まるのか―
以前、外部は内部だという話をした。これは、君が奥行きの中で感じ取っている宇宙は対象の中にある、ということを言っている。他者についてもおそらく同じことが起きている。その意味で、自他の出会いの場所とは、本当は対象の中にある。人間の意識はこの出会いの中で構成されている。
超越論的な場は対象の中にあるということだね。
こういうと、すぐに物質の中に思考のベクトルが向いてしまいそうだけど、それは賢明じゃない。すでに外部は内部なのだから、目の前にあるがままの空間でその構成を思考して構わない。わざわざ物質の中に入り込むイメージを作る必要はない。空間に自分の不動性を感じたならば、そこはもう物質の内部。
そう考えるといいよ。
そこに出現してくる空間が物理学が内部空間(アイソスピン空間)と呼んでいる空間に対応している。生粋の複素2次元空間だ。「生粋の」と言ったのは、この場所に出るまで、外部と内部が混交した空間が二つあるから。
その二つというのが位置表示の波動関数ψ(r,t)が作る空間と状態ベクトルψが回転している空間と考えるといい。
知覚イメージで言うと、一つの対象周りの空間と自分の周囲の空間。これらはまだ非局所に届いていない。「非局所に届く」というのは、観測者の全奥行きが一本の「線」に収束することを意味している。
つまり、完全なる持続空間においては「わたしは一本の線となる」わけだ。
メスカリンの服用によって、自分という存在が一本の線に還元されてしまったことに詩人アンリ・ミショーは底知れぬ恐怖を感じ、それを「死」の姿と直感したのですが、それは人間の死の形象と言ってよいものだと僕自身も強く感じています。
つまり、わたしの死は、時空間上では物理学が「スピノル(物質粒子のスピンにあたります)」と呼ぶものに姿を変えて見えている(実際には見えるものではありませんが)と言っていいのではないかと思います。
このスピノルはそこから物質を生成していくために、多様な組織化を図っているわけですから、死後の世界は物質を創造する世界になっていると言えそうです。
これまたOCOTのトンデモ情報の話になりますが、その中に「まもなく人間は生きながらにして死後の世界に入っていく」というのがありました。
ヌーソロジーの文脈からすれば、自分を一本の線へと還元したときに世界の構成はどのように見えてくるか、そこで展開されてくる風景が、この「生きながらにして死後の世界に入っていく」ということの意味に相当しそうです。死が開く、ということですね。
こうして開いた死のことを「霊」と呼んでいいのではないかと思います。ヌース(神的知性)を持つ者たちのことです。
12月 4 2017
ヌースの量子解釈からイメージされる21世紀の思考のテーマ
今度(12/9)のヌースアトリウムの資料作りをしないといけなくなってきた。お題は「SU(2)の描像について」。
今回はシュタイナー研究者である福田氏の講演の前座で持ち時間が2時間ほど。なかなか厄介なテーマなので、組み立てに苦しんでる。数学的な詳しい解説は翌日曜日のΦさんのレクチャーでいろいろとあるだろうから、あくまでも、こちらはヌーソロジーからの切り込み。
しかし、初めての参加者も多いので、バランスを取るのがチョー難しい。
さて、どういう構成にするか、かなり迷うところ。いずれにしろ、素粒子と観察子相互の関係が話の重点になると思うので、ヘキサチューブルのモデルに沿って、ヌーソロジーの概念と並行させながら、SU(2)に接近していくのがベストかな(下図参照)。
SU(2)の背景は、ΦさんやSさんなど物理学の研究者たちもいつも言ってるように奥が深い。シュタヌー本でも、その奥深さを指定のページ数の中では語れそうになかったので、深入りはしなかった。まぁ、まだ本に書けるほどこちらの理解が深まっていないということもあるが。
SU(2)の奥深さの本質。それは、自他関係が虚(奥行き=自己)と実(幅=他者)としてしか現象化しない、というところにある。だから、SU(2)は鏡像としてiSU(2)を要請する。これは、自己から見たSU(2)と他者から見たSU(2)の関係のようなものだ。
その対関係もまた自他においては入れ替わっているということ。そうした捻じれ合いが延々と続いて、持続空間を組織化していっている。
時空やローレンツ変換という外部性と、スピノルが形作る内部空間は、こうした捻じれの多重性による美しい秩序で構成されており、この組織化を理解することが、まるで量子論の本質的理解と言ってもいいかのような様相を呈している。ヌーソロジーの文脈で言うなら、このことは、量子論の本質が自他論として再構成されなくてはいけないことを意味している。
そうした空間ビジョンが人間の知性の中に築かれたときはじめて、人間は時空や物質が自分とは無関係に外部にあるものなどではなく、自己の内的延長性に息づく自他の霊的合一の場であることを知るようなる。元素体として生きるヒトの意識次元というものはそういう領域だ。
その意味では、世界の存在を外部に見てきた人間の歴史観は自然史からは大きく逸脱している。いや、自然史に対する抵抗勢力と言っていいのかもしれない。人間が現在、時空上に思考している宇宙史は自然史を無理やり人間の歴史側に組み込んだ幻想だ。
ビッグバン理論も進化論もすべて、生命に対する反動のビジョンだということ。この是正を行うことが21世紀の思考のテーマにならなくてはいけない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: SU(2), スピノル, ビッグバン, 佐藤博紀, 量子論