2月 5 2019
ハイデガー哲学とヌーソロジー
―科学的思考は物質が時空の中で生まれ、様々な変遷を経て、多様に進化してきたものとして考えますが、ヌーソロジーではそういう考え方は一切しません。ヌーソロジーの思考から見ると、物質とは時空の「めくれ」のようなものなんですね。
「めくれ」とは、本当は裏にあるものが表のような顔をして現れているということを言うのですから、ヌーソロジーは物質を時空が裏返されたところで活動しているヌースという霊的実体が、あたかも無数の泡玉のようにして時空の中に浮き上がってきている状態として考えるのです。
『シュタイナー思想とヌーソロジー』p.305
科学的思考は、時空ベースで行なわれている。時空は物質を表現する場であることは間違いないが、その表現とともに物質の本性である「存在(ここでヌースと書いているもの)」は隠れ去る。それがハイデガーの言う「エルアイグニス(性起)」だと考えるといい。存在が忘却されてしまうというわけだ。
ただ、この隱れ去りの原因についてハイデガーは詳しく論証していない。これをヌーソロジーは複素空間(内部空間)から実数空間(時間と空間の世界)への遷移として考える。量子力学的に言うなら、「エルミート共役」というヤツがその原因となっているのだが、これは簡単に言えば複素共役が作用しているということだ。裏にあったものが表に出てきて「めくれる」というのも、この「共役される」という意味で解釈するといい。
めくられたものの方にとっては、これは裏返しにされたのであるから、このめくられたものが自分自身の本性に戻るためには、時空を再び本来の自分の方向へと裏返すしかない。それがヌーソロジーが「意識の反転」と呼んでいるものだ。つまりは、時空を作り出した元の世界へと身を翻すこと。
時空は実数領域であり、それは複素共役という「重次元」でできているのだから、この重次元を再び二つの個別の次元へと戻すこと。そういう言い方もできる。
「シリウスとは重次元における力の反転作用の意味です」というOCOT情報による「シリウス」という表現の真意もそこにある。
当然、このとき世界は、例えて言うなら、x^2+y^2の実数世界から(x+iy)と(x-iy)という形で因数分解されることになる。このとき生まれる「+i」と「-i」が〈自己-存在〉と〈他者-存在〉の種子の数学的表現と考えるといい。これは時間が二つの固有の純粋持続へと分離した様子を意味する。空間的に言えば、ここに真の「奥行き」の顕現が起こる。
「奥行き」を3次元内部の一つの実軸から、複素空間における虚軸と見なすことは、ハイデガー的に言うなら「感性的な眼からの〈唯一的な眼差しの跳躍〉」であり、ここで「唯一的な眼差し」と呼ばれるものこそが本来の自己だと考える必要がある。
この移行は「現存在」としての人間を待ち受けていた「存在」との出会いとも呼べるものであり、この出会いは「存在」が時空へと表現されていく道行きを今度は、ハイデガーいうところの「非-隠蔽性(アレーテイア)」として露見させていくことになる。物質が存在自身からどのようにして出現してきたのかを人間の知の歴史がたどり着いた物理学的知見を通して教授していくのだ。
ヌーソロジーがヌース(能動的思考)と呼んでいるものとは、この「道行き」のことと考えるといい。その最初の道行き(これがハイデガーのいう〈エルアイグニス〉の雛形となる)をダイアグラム化したものがヌーソロジーが思考装置の一つとして用いている次元観察子ψのケイブコンパスである。
このケイブコンパスを現代物理学の概念と対応させると、次のような構成になっている(下図参照―シュタヌー本p.469より転載)
この図の内側の転回円を物質、外側の転回円を時空と見なせば、ハイデガーが「存在者を存在させると同時に、存在者から身を引く」と説明するエルアイグニス(性起)の仕組みが一目瞭然で分かるのではないかと思う。
このダイアグラムから、一応の結論を出すなら、時間は存在を存在者として送り出す贈与者であり、空間はその存在者を再び存在へと向けて送りかえそうとするところに生まれる私たち人間自身、ハイデガーの言い方を借りるなら、「現存在」としての人間を根拠づけるものである。
「自己-存在は素粒子構造に根拠づけられている」とヌーソロジーが述べる理由も、こうした思索を通してのことだと考えて欲しい。
物質はまだ正しく知覚されていない。物質が正しく知覚され始めれば、それは自己-存在と他者-存在の結び目のようなものとして見えてくるだろう。
そこに、まもなく到来する、私たちの次なる社会の原型がある。
2月 12 2019
ハイデガー哲学をトランフォーマーの空間に移し替えてみた
ハイデガー哲学の基本的な概念をヌーソロジーが用いるケイブコンパスにマッピングしてみた(下図)。観察子概念のイメージを広げるための参考にしてほしい。ほんとうは大系観察子で示されるべきものだが、分かりやすくするために、ここでは次元観察子で配置している。次元観察子と大系観察子は入れ子的な構成になっているので、それほど意味合いは逸脱しない。
ということで、少しだけ解説しておこう。
ここに示した「存在者」とは外的に認識されている事物のことを指す。図からも分かるように、それはΨ9(思形)の働きによって送り届けられるが、ここで送り届けられるものとは存在自体が転倒したものである(赤が先手になってしまうところにそれが示されていると考えるといい)。
このΨ9の働きに対して、存在は自分自身を人間に委託するための方向性を逆の方向に生み出す。それがΨ10(感性)の働きであり、ここに、存在へと方向を向けた存在者の次元が生み出される。ハイデガーはそれを「現存在」と呼び、人間の根本的な在り方とした。人間は存在の守り人(牧人)でもあるというわけだ。
さて、こうやって、存在、贈与(Es-gibt)、存在者、現存在という四者の関係性をケイブコンパスに配置すると、「存在は自分自身を存在者として明るみに出すと同時に隠れる」という、ハイデガーが執拗に連呼する「アレーテイア(非隠蔽性)」の仕組みが、比較的たやすくイメージできてくるのではないかと思う。
図からも分かるように、存在者として明るみに出された事物はΨ9方向に認識されるか、Ψ10方向に認識されるかという二つの方向を持っている。これが客観的事物(実在的対象)か、主観的事物(感覚的対象)の違いだ。ハイデガーが『存在と時間』で行った現存在分析も、主にこの二つの対象の違いをめぐるものだった。
たとえば、科学のように、人間を生物学的な存在として見てしまうと、人間は存在者一般の中に投げ込まれてしまい、現存在としての存在への方向付けは失われてしまう。このような思考態度はハイデガー的には「頽落」の産物となる。存在がまったく忘却されているということだ。
ハイデガー哲学が目指したのは、そのような頽落から逃れて、現存在としての人間がいかにして、自らの通底に潜む存在を開示し、このEs-gibt(贈与するもの)を含む全体的な機構の中で、存在全体を了解するかということにあった。
その了解によって、今までの形而上学が等閑にしていた存在者と存在の差異(存在論的差異)がはっきりと認識されることなる。
ハイデガーのいうところの「真理」=〈アレーテイア=非隠蔽性〉というものも、その認識への思考の到達のことを意味している。
ハイデガーが言ってることは、個人的にはまったく正論だと思う。ただ、こうしたハイデガーの表現ではもう時代が受け入れないだろう。やはり、神秘主義的で根拠に乏しい。とりわけ、科学との接点がないのは致命的だ。科学が存在者の構造の学であるなら、アレーテイアの仕組みがその構造にどのように介入してくるのか、当然、科学の言葉でも表現することが可能なはずである。
ヌーソロジーはこうした存在論的構成をそのまま素粒子構造と結びつけ、開示されるべき脱-自(存在を露わにすること)の構造は素粒子に潜んでいるということを示していく。
「存在へと身を開き、そこへと出立つ在り方」とは、人間自身が自分自身の根拠を素粒子に見るところに生まれるということだ。
そして、ヌーソロジーはこの理念型を持って、迫り来るAI時代にそのカウンターとして生まれてくるメタヒューマンの在り方とする。それがまた「トランスフォーマー」の定義でもある。
人間が目の前から〈幅〉を取り去るとき、脱自としての〈奥行き〉が存在の名の下にその姿を露わにしてくることだろう。そこにおいてすべては世界-内-存在と化す。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ハイデガー関連 • 0 • Tags: アレーテイア, ケイブコンパス, ハイデガー, 大系観察子, 次元観察子, 素粒子