10月 28 2016
モーツァルトVSサリエリ
本当の「見てる」というのは、中から見ている意味であって、それは目で見ているわけではないの―もののケのしおりちゃん語録「眼力の悪用についてしかめっ面をしながら語ってみる。」より
しおりちゃん絶好調だよね。哲学の歴史が現代思想に至ってようやくたどり着いた人間の無意識の構造について、「壊れた十字架」と「完全でも不完全でもない十字架」とのメタファーで見事に説明している。現実界が消え去って、象徴界と想像界の中でパパ-ママ-ボクの三角形が生まれてしまったというストーリー。
本当はカムナがアマナを包んでいたのだけど、カムナが落ちてきて、アマナの中に入り込んでしまう。それによってアマナも死んでしまう―
カムナとアマナというのはカタカムナの言葉だけど、本を読んだのかな? アウノスベシレの中にトキトコロは生まれてきたのだけど、トキトコロが生まれたと同時に、アウノスベシレはトキトコロの中に落っこちてしまう。それによってトキトコロは死んだアマナとしての時間・空間になってしまう。そんなことを話してる。
カタカムナ的にいうと、これによってアウノスベシレは忘却されてしまうんだね。しおりちゃんの言い方をすると、人間は地球から追い出されてしまったってこと。
物質の起源というのは本当は時間と空間の外部にあるものなんだけど、人間は体を持ったことによってそれを時間と空間の中で見るようになってしまったんだね。外部(時空)の外部(霊的世界)は実は時空の内部に見えている物質になっているんだ。この仕組みを理解するためには、まずは自分自身が時空の外部(無限遠点)に出なくちゃダメ。そして、そこから一気に物質の中に滑り込む。この滑り込みを行っているのがカムナ(ビデオでは黒色で描いている)だね。
本当の「見てる」というのは、中から見ている―ベルクソンが言ってることでもあるけど、持続が収縮して対象の中に入っているということ。それが奥行きのことだよ。
10分にも満たない話なのにホントすごい情報の凝縮度なんだよね。行雲流水さんがしおりちゃんをモーツァルトに喩えていたけど、その喩えでいくと、ヌーソロジーってサリエリじゃん!!ってな感じ。ちょー、カッコ悪りぃ。まぁ、才能の差は歴然だけど、通訳はできるんでご容赦を(笑)
12月 14 2016
「嘘の鏡」についての補足
前記事について、もう少しイメージを広げられるように仏教(密教)的な説明を加えておくね。自己側のみについてだけど。。
転換位置(対象の外部の自他がいる場所)から見ると変換位置(対象の内部の自他がいる場所)の方は、すべての対象の内部に偏在していると考えていい。これは空海の『即身成仏義』にある「重々帝網なるを即身となす」のイメージに近い。―2008年『人類が神を見る日アドバンスト・エディション』の記述内容より。
「即身成仏」と聞いて、お寺の中でミイラ化しているお坊さんなんかをイメージしちゃアカンよ。それはバリバリ、ニンゲシ(人間型ゲシュタルト:笑)。「即身成仏」というのは奥行きの純粋持続感覚がまさにそれではないかなと感じてる。
その感覚を強めていくために、具体的な構造概念が必要となるんだね。そのうち、こうした空間認識が力を持ってくれば、転換位置感覚と変換位置感覚の主従関係が逆転していくことになる。
要は肉身のまま即時に成仏していくということだね。しかし、それは決して世界から消え去るということじゃないのね。世俗化した仏教はこのへんの話をうやむやで終わらせてしまうから、ついついモヤモヤが募るんだけど、まだまだ先があるんだよね。っつーか、ここからが実体の世界の始まりなんだよね。
ちなみに、このビジョンは「後ろの正面だあれ」の話でもあるし、カタカムナの「アマヤドルマリ」の話でもあるし、プラトンの「背中合わせの人間」の話でもあるし、ドゴン神話の「天上の二人のノンモ」の話でもあるし、十種神宝の「ヘツカガミとオキツカガミ」の話でもある。。。挙げるとキリがない。
大事なことは、こうしたイメージはすべて”素粒子世界の構造”になっているということ。ここがとても重要。そして、ここにはまだまだ続きがある。その世界を探査していくのがヌーソロジーだと思うといいよ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: カタカムナ, ドゴン, プラトン, 人間型ゲシュタルト, 人類が神を見る日, 十種神宝