8月 25 2017
ヌーソロジーにとっての「エーテル界のキリスト」
明日土曜日に行われるアトリウム『ヌーソロジーがシュタイナー思想に見たもの』の話は、先週行った福山での講演会での話を膨らませたものにしようと思っている。シュタイナーとのコラボ本が9月末に発刊になるということで、その本の内容から、一つ二つ、お題をピックアップしていろいろと語ってみたい。
話の流れはこんな感じになると思う。
1.シュタイナーの世界観
2.エーテル界のキリスト
3.エーテル空間について
4.素粒子構造とエーテル界
シュタイナーがいうエーテル界を怪しくなく表現するなら、哲学が長年、議論の対象としてきた超越論的審級という言い方にでもなるだろうか。要は、人間の無意識領域のことだ。シュタイナーはその領域は「時空が反転したもの」として在る、という。
そして、シュタイナーは、1930〜40年ぐらいに、このエーテル界の領域に「キリスト」が現れるだろうと予言した。それが「エーテル界のキリスト」というものだ。
物質界へのキリストの出現の物語は、実際にイエスがどのような人物であったかは別として、人類史に多大な影響をもたらしたことは事実。今度のキリスト降臨は物質界ではなく、エーテル界に現れるということらしい。もちろん、ここには当時の神智学協会の動きを警戒する意図もあったのだろうけどね。
物質界にキリストが現れたとき、当時の誰も汚らしい青年をキリストだなんて思わなかったろう。エーテル界のキリストもまた同じ。人々は”それ”がキリストなどとは夢想だにしない。キリストとは常にそのような出現形態をとる。そういうものだ。
しかしながら、エーテル界のキリストも、物質界のキリスト以上に人類に多大な影響を与え、誰も想像もできないような変化を世界にもたらしていく。果たして、そのようなキリスト存在は出現したのか——。
現れた。それが量子だ——とヌーソロジーは断言する。
今回のコラボ本での僕のパートは、そのエーテル界のキリストの具体的な生態をヌーソロジーの解説に絡めながら、かつ、哲学と物理学を並行させて、論理的に語っていくものとなっています。
一部で、販売価格が下がるのではないか、というウワサもあり。いずれにせよ、販売部数は少ないので、予約はお早めに!!
8月 30 2017
物質と精神のつながりをイメージしながら自我についても考えていくこと
水平性の中に突き刺さっている垂直性。それが物質です。まずはこうした構図を設定しないと、自然の謎は決して分かりません。ここでいう水平性とは時間と空間のことです。物質の起源は時空の中にはありません。20世紀になって登場してきた量子論はそのことを明らかにしてきたのだと思います。
この前のアトリウムでは、こうした量子のことをシュタイナーの予言にあやかって「エーテル界のキリスト」として話しました。
物質的知性のクセは量子を対象として見たがります。それをやらせているのは、言うまでもなく、幅化した奥行きです。物理学的思考はなかなかこの「幅化した奥行き」の呪縛を払拭できません。奥行きに幅が入ると、本来の奥行きは一瞬でズームアウトされ、ミクロ世界の中に観察されてしまいます。
主客分離という悲劇が発生するのも、まさにその瞬間なんですね。
そして、この主客分離の領域をフランチャイズとして生きているのが、私たち人間の自我です(シュタイナーのいう自我とは意味合いが違うので注意)。
シュタイナーは「エーテル界のキリスト」の登場は1930〜40年ぐらいになると言っていました。そして、それは知的な営みの中において現れるとも。
シュタイナーは、このキリストの存在はアーリマン的なものとルシファー的なものの調停者として現れてくると言います。シュタイナーのいうアーリマンとルシファーとは、簡単に言えば人間の中に潜む二つの悪のタイプのことです。この二つの悪は、象徴的に言うなら、科学的悪と宗教的悪とも言っていいものです。
その意味で、一応、アーリマン的なものを、私たち人間の客観的な意識に潜む悪としましょう。これは科学的唯物論などをイメージするといいと思います。
一方、ルシファー的なものを主観的な意識に潜む悪と考えてみましょう。これは、宗教的な超越主義や、それが引き起こす幻想の類のようなものです。
そのように仮定するなら、今度、私たちの眼の前に出現してくるキリストは、主観的とも客観的とも呼べないような、奇怪なものとして現れてくるはずです。なぜなら、それは、主観と客観を調停する存在形態を持っているはずですから。
そうした奇怪な存在が果たして、1930〜40年辺りに「知的に」登場してきたか。。。ヌーソロジーはこの問いに「然り!!」と答えます。
量子ですね。量子こそシュタイナーが予言した「エーテル界のキリスト」。そのように考えるわけです。
問題は、量子を相も変わらず、物質として見ようとしてしまう人間の認識が持った頑ななクセです。量子が物質の存在形態を持っていないことはすでに分かっているにもかかわらず、相も変わらず物質というフィールドの中に監禁したままにしている。
量子を外的に見ることは、そろそろヤメにして、内的に見ることを開始してはどうでしょうか。そうすれば、知的に登場してきたエーテル界におけるキリストは、エーテル形姿として、今度は私たちのエーテル知覚の中にはっきりと姿を現してくるはずです。人間すべての内在性の中にキリストは生きているんですね。宇宙の始源(アルケー)として。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, シュタイナー関連 • 1 • Tags: エーテル, シュタイナー, 量子力学