7月 15 2016
良識から逆-良識へ
人間が持った最大のカルマとは表象の思考に支えられた僕らの良識―霊的認識から見れば、これは紛れもない真実だろう。反転知覚は人間の悟性が作り出した概念の連結を全く別なものへと作り変えていく。その再構築の足場となるのが、超越論的なものの構造知覚なのだ。
ここで言ってる「表象」というのは、「目に見える物体像」ぐらいに解釈しておけばいい。表象は時空と持続空間の接点に立ち上がっている。この間を取り持っているのが波動関数Ψだと考えられる。
素粒子が複素関数で表現されるのは、複素空間が持続空間の数学的表現となっているからだ。時空は当然、実数空間(r,t)なわけだから、結果、素粒子はψ(r,t)=Ae^i(k・r-ωt)のような複素空間と実数空間の混交状態で表現されることになる。
円環的な複素空間の位相に直線的な時空が巻きついている、もしくは巻き込まれているわけだ。僕が素粒子を「巻尺」と呼んだのもこうした数学的イメージによる。
量子力学的物理量がq数として扱われるのも、時間や空間といった延長量をこの巻尺から取り出さなくては物理量としての意味をなさないからであり、そのときに使われる数学的手法が微分演算子だったりするだけの話だ。巻尺の中から延長性 r(空間)や t(時間)を引っ張り出してくるということ。
ただ、面倒なのは、持続空間がこうした巻き込みの運動を層のように多重化しているということ。ユークリッド的な空間概念に慣れっこになっている僕らの良識にはこうした空間のイメージがなかなか馴染めない。
層(レイヤー)のように多重化する、というのは、具体的にいうなら、たとえば、波動関数Ψがまたe^iθ回転によって無数存在させられているような空間を作ったりしているってことだ。Ψ’=e^iθ・Ψ。これはU(1)群なんて呼ばれ方をする。
回転しているものがさらに回転し、また、それが回転し・・・どこかで聞いたことがある言葉だぞ?と思ったら、これってNOMIが最初に「宇宙の作り方」として送信してきた言葉じゃん(笑)。実際、量子の世界はそうなっている。
こうした回転による巻き込みの構造が漁師にはあるものだから、量子は非局所的なんて言われ方をされていると思うといい。つまり、点的(局所的)イメージで捉えられているのだけど、それらは外部を巻き込んでいるっていうわけ。まぁ、早い話、外部を自らの内部に反転させているわけだ。
で、今の物理学は「持続」という概念を思考から排除してしまっているから、つまり、観測者の内的空間への運動の自由度というのを無視しているから、並行宇宙論などといった全く馬鹿げた方向へと思考のイメージを拡散している。
実のところ、複素空間を持続空間の概念に置き換えて素粒子を描像していけば、量子論が呈している哲学的問題のほとんどはあっさり解決するんじゃないかと思えるくらいだ。
まぁ、ヌーソロジーはその作業をやってるわけだけど物理学者の人たちはなかなかその作業の中には入っていかないだろうね。それをやってしまうと、彼らが現在抱いている客観的宇宙をベースにした宇宙像は足元から木っ端微塵に崩壊してしまうだろうから。。
結局、ここでも一番の敵は理性が底支えしている自我なんだね。そして、良識はそうした自我とともにある。道のりは険しいけど、頑張るにゃん。
おいおい、途中、量子が漁師になっとるぞ。まぁ、いいか。魚とは3次元の中で彷徨う人間の魂の象徴と考えれば、漁師力学というのもまんざらじゃないな(笑)
参議院選挙、三宅洋平氏応援していたんだけど落選してしまった。残念です。政治の世界においても世の良識はまだまだ絶大な力を持っているんだな、と実感。そして、世界を滅ぼしていっているのも、この良識であるということを再認識。いかにして、この良識を逆-良識へと反転させていくか。宇宙的政治学が必要。
下の絵画作品はフランシス・ベーコン「叫ぶ教皇の頭部のための習作1952」
7月 20 2016
生成の音楽を聞き取るために
空間をすべて奥行きで見る思考とは「なるものとしての思考」と言えます。僕らはまだ空間を幅で見る思考しか知らないので「あるものとしての思考」しかできていません。世界を対象としてしか見れていないんですね。こうした思考とは死んだ思考です。「ある」という結果の中に思考が埋葬されている。
誰しもときに「わたし自身が世界である」という直感に触れることがあります。しかし、そのとき、「ある」世界に自分のイメージを重ね合わせても「なる」の世界には届きません。「なる」に思考が届くためには眼差し自身を自らの持続的身体に変える必要があるのです。
「あること」を成らせているもの。その最初の力が実は光子なのです。
光は「あること」の中で彷徨っています。光が自らの素性に気づいたとき、光は縮みます。この縮んだ光が光子(γ線)と呼ばれているものです。時空を満たしていた「光あれ!」としてのタルムード的光が、自分の役目は終えたとばかりに身を縮めて世界から撤退していくこと。こうした神学的事件のことをカバリストたちはツィムツーム(収縮)と呼びました。
素粒子は「あるもの」ではありません。光子に始まる素粒子のスピンの本性は奥行きを通した内的空間の拡張が収縮の中に見てとられているものです。「あること」から思考が解放されてくれば、それらがすべて自らの内在性を拡張していっている精神の運動だということが分かってきます。
この「なる」という運動の看取は「ある」世界に対する内破力と呼んでもいいものでしょう。霊的参入はこうしたイメージで捉えられなければいけません。このことは同時に霊的世界を霊感や神秘体験の中に見る時代も終わりを告げるということを意味します。霊とは対象ではなく、自身の中に眠る生きた思考の力そのものだということ。これを忘れないようにすることが大事です。
少しずつでも構いません。意識の重心を「幅」から「奥行き」へと、そして「流れる時間」から「流れていない時間」の方へと遷移させていきましょう。そして、そこから「ある」世界がどのようにして「成って」きたのか、その未知の内的空間の深みにイメージを膨らませていきましょう。
扉はすでに開いています。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ツィムツーム, 光子, 奥行き, 素粒子