3月 11 2019
大西さんによるヌースレクチャーレポート
ヌーソロジーがドゥルーズ哲学と相性がいいことは、昔からレクチャーあたりでも話していますが、とても難解な哲学(言葉使いが必要以上に晦渋)なので、あまりヌーソロジーとの関連でドゥルーズに触れてくれる人はいません。
大西さんのように、こうして古いレクチャー資料を大切に読んでいただけているのをみると、ほんとに嬉しくなります。歴史上の哲学的知識もヌーソロジーにとってはOCOT情報と変わらないくらい重要な情報なんですね(^^)。
最近は、ハイデガー哲学の話ばかりしていましたが、それは単に今までハイデガーをまともに読んだことがなかったからで、哲学的な思考を一人の人間の個性とするなら、個人的にはドゥルーズの個性の方が好みです。
ただ、ハイデガーはちょっと可哀想かな………。
ドゥルーズはハイデガーの存在論的差異の哲学にとても大きな影響を受けているのですが、ハイデガーの中に垣間見える同一性への回収(おそらく、民族主義や集団主義的なもの)を嫌って、ハイデガーについては多くを語りませんでした。ドゥルーズ哲学は徹底した霊的個体化の思想なんですね。
そのためにドゥルーズ哲学とハイデガー哲学に見られる類似性を指摘する研究者は少ないんです。ヌーソロジーから見るとその存在論の骨格はまったく同じなんですが。。もちろん、ヌーソロジーも同じ方向を向いています。
何はともあれ、この両者は”グノーシス的”という意味で、両者とも極めて「スピリチュアルな哲学」ではないかと思っています。
哲学の本は慣れないとほんとに読みにくいですが、霊性思想に対するリテラシーを上げるためにはとても重要な知識で溢れています。女性には合わない部分があるのは重々承知していますが。。男性臭があるのは否めません。なんと言っても、西洋の男たちの思考の歴史のようなものですから。
一言に、スピリチュアルと言ってもピンキリですから、変なスピリチュアルに持っていかれないように、伝統的なオカルティズムや、哲学の知識も、少なからず触れておいても損はないでしょう。
ヌーソロジーがレクチャーで、哲学やオカルティズムを紹介するのは、もちろん、それらをヌーソロジーと対比させてみていくためでもあるんですが、そういう別の理由もあるんですよね。スピリチュアルリテラシー……これ大切。
ヌーソロジーも、単に「OCOTかく語りき」を話してたんじゃ、人間側の主体性がなくなって、クーソロジーになってしまいます。糞ロジーね(笑)
ですから、これからも、哲学は並走させます。
大西さんレポート
ドゥルーズ=ガタリのアンチオイディプスについて、ヌースレクチャー2014vol.4を見ながらメモしたものです。
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オイディプスという物語が示しているのは、
父を殺す=神を殺す 母を犯す=自然を壊す
オイディプスは人間の宿命なのだ、ということ。
家族も機械に含まれた一部品。
主体というのは存在しない。
すべては機械なのだ。
構造にマシンのイメージを重ねていく。
機械を生産しては接続させて、欲望する無意識機械。
人間という意識主体が文明や歴史を作ってきたのではない。
文明がシステムに合った人間を生産してくる。
教育も人間性を育てるなんてものではないのが現実。
原始土地機械、専制君主機械、資本主義機械の三つの欲望機械の変遷を通して、無意識の運動の中に潜んでいる抑圧者を告発していくのがドゥルーズ=ガタリ。
「器官なき身体」という脱人間像、脱意識像を掲げ、人間の人間自身からの開放を過激に訴えていく。
抑圧がない。常に反発の流れがある。
それがエス=器官なき身体
エスを目覚めさせるための機械=独身機械
欲望機械と器官なき身体を和解させるための機械として出てくるのが「独身機械」
アーリマンとルシフェルを統合するキリスト意識みたいなもの
「この間に本当の和解が実現されうるのは、『抑圧されたものの回帰』として機能する新しい機械の次元においてでしかないように思われる。」
「独身機械は何を生産するのか、独身機械を通じて、何が生産されるのか? それは強度(内包)量である。ほとんど耐え難いほどの純粋状態における強度量の分裂症的経験が存在するのである。」
「ここには、強度の諸地帯、もろもろの潜勢力、もろもろの閾と勾配以外に何も存在しない。」
強度とは奥行きの中にある持続の事
そしてそれは素粒子として見えている。
これはまさに素粒子が目覚めるというイメージ。
そこに真の経済圏がある。それが宇宙を作っているのだから。それは純粋なる贈与なのだ。古代の人々はそれを忠実に守って、贈与を流していた。貯めたりはしなかった。
神が実体を運び、贈与している、それを運び、贈与し、新たに生産していこうとしているのが、エスである。
エスはそれを望んでいるのに、人間が堰き止めている。
堰き止めを何とか開こうとしたのが、ドゥルーズ=ガタリなのである。
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最後にスフィンクスの語る言葉が朗読されるのですが、もうね、泣けて泣けてしょうがないですね。ほんとにね。資本主義機械というのが、人間のシステムの最後の学びの場であるとしたならば、そのことに敬意を表しつつも、最後には見事にスキゾって量子の内包空間に実体を見出していきたいものだと思いました。
もちろんこの先にはAI社会が待っているだろうけれど、同一性を見抜いて、やはり外面に逃走することを僕は選びたいなと思ったのでした。出来るかどうかどんな展開になるかはわかりませんし、もちろんどんな選択もOKなのだということはわかったうえなのですけどね。
そうだそうだ、それでいいのだ。と、天才バカボンならいうんだろうな。(笑)
3月 20 2019
ヌーソロジーの思考の原点
ヌーソロジーは「わたしは一体どこにいるのか」という、その場所を問うところからスタートする。わたしは今博多にいるが、博多にいようが東京にいようがわたしはわたしだし、昨日であれ、1年前であれ、わたしはわたしなのだから、わたしは時空によって規定されるような存在じゃない。もちろん、時空の中の物質など尚更だ。
じゃあ何によってわたしを規定するのか―そりゃあ、持続(記憶を支えているところ)で規定するのが一番妥当だろう―という考え。そこから、持続の場所論へと入っていく。
時空と持続空間の関係は「反転」している。もともと持続空間にいた「わたし」が時空へと引きずり出されたのは、いつも言ってるように、他者視線によって鏡像の世界へと投げ込まれてしまったからだ。幼児期にわたしたちは全員が選択すべき空間を誤ったのだとも言える。
持続空間は言うまでもなく「いつでも今、どこでも此処」という場所である。それが自分だというのは直感で誰もがわかるはずだ。問題は、その「いつでも今、どこでも此処」という場所がどこにあるのか。それだ。このことが思考できなくなったことが、人間に多大な不幸をもたらしている。
多くの人は自然をカオスだというが、カオスなのは人間の方であって、自然は極めて十全なものだ。自然はちゃんと、こうした人間がいるべき場所を確保してくれている。さっきも言ったが、実像としての人間の方は、複雑な化学反応のプロセスの中にではなく、時空に対して「反転した場所」にきっちりと位置付けられているのだ。
その場所は当然、時空に対しては「非局所的な位置」として現れる。物理学者たちは、それを対象化して「素粒子」と呼んでいる。ほんとうの自分を拒絶し、それをあくまで自分とは別のものとしてはねのけてしまっているのだ。自然を対象化しなければ気が済まない科学的理性。残念ながら、これが「男なるもの」の欲望の視線だ。もう、この視線の時代は終わりにしてもいいように思うのだが。。
こうした視線は直線的で、行き過ぎると、鋭利な刃物のようにして対象を切り刻んでしまう。その点、持続空間での眼差しは対照的だ。それは常に対象を優しく包み込む。物を包み、世界を包み、相手を包み、最終的には包んでいる自分をも包む、そうやって、何枚も空間を柔らかな襞のようにして折り重ねていく。
自然が電気的な化学反応のプロセスを経てここまで進化してきたとするような、物質化した自然の世界観はいい加減お開きにしたいものだ。自然はそろそろ精神化されていい頃ではないかと思う。「いつでも今、どこでもここ」としての素粒子たちが自然の根底で活動しているのだから、自然を一つの精神体と考えた方が、はるかに筋が通っている。
問題は、素粒子がわたしたちの精神を基礎づけているものと見なすために、どのような思考を通して素粒子に命を吹き込めばよいのか、ということなのだ。
ヌーソロジーはそれを試みている。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 素粒子