12月 10 2013
位置の交換に潜む真意
わたしたちは空間に潜むあるねじれとひきかえに世界から主体へと静かに遷移している。この「あるねじれ」は反転認識のことでもあるのだが、このねじれを同一性から差異への移行の風景として見ても何ら問題はない。
このねじれは今までは潜在的なものとして存在していたものであり、唯物論的に制度化された思考の中ではなかなかそれを見出すことは困難だったが、それは一つの超感覚的知覚として確実に浮上し始めている。
この捻れは外部を内部へと巻き込んでいる。見えない渦が猛烈な勢いでミクロへと流れ込み、われわれに認識の反転を促しているのだ。その渦が感覚化されてくると、主体が創造の原初へと方向づけられていることが分かってくる。この役割を担っているのが物理学が光子と呼んでいるものである。
物理学において内部空間が複素空間として表現されるのは、そこでは同一性と差異の関係がそれこそ存在論的差異として明確化されているからだろうと思う。シンプル言えば、幅と奥行きだ。
そこは時空と真反対の性格を持っていて、同一性(幅)が差異(奥行き=純粋持続)に従属していく空間になっている。この空間での統合(回転)は新たなる差異の発生の意味を持ち、いかなる同一性に回収されていくこともない。
複素空間で記述される量子力学の形式的な展開を見ていると、複素空間自体が精神が持った力能の数学的表現と言っていいもののように思えてくる。その力能とは一言で言えば、有限性の中に無限を内包させていく柔軟性だ。
そこにおいて回転が作る円や球はベクトル(線分)へと収束させられ、それがまた回転によって次元を拡張し云々〜、といった形で空間を次々に巻き取り、襞の多重性を表現していくのだ。その意味で単位円とは真の無限性であり、あらゆる生成を飲み込んでいく無始無終の精神の形象化のようにも見える。
さて、人間が居住する時空はといえば、複素空間が作り出すこうした空間の無限の多重なる襞は物質として現れ、空間自体は単なる容器としていかなる多重性も持たない弛緩の極限物として表象されている。
ドゥルーズは言っていた。マクロな知覚は、ミクロな知覚の間に確立される微分的関係の産物なのである。それゆえ意識の中に知覚されるものを生み出すのは無意識の心的メカニズムである——と。このメカニズムは量子力学(非相対論的)が場の量子論(相対論的)へと発展するときの構造変動の中にある。時空は量子から生まれる産物なのである。
マクロな知覚は3次元知覚に倣いそれは局所的な「いま、ここ=瞬間、局在」の上に生じている。一方、ミクロな知覚は内部空間知覚に倣い、非局所的な「いま、ここ=永遠、遍在」の上に生じている。前者は同一性の海。後者は差異の渦である。
わたしたちは幅と奥行きの間に絶対的差異を見出し、この差異の渦の中に侵入していかなくてはならない。新たな創造の扉はすでに開いているのだ。
2月 18 2014
奥行きの中に垣間みた永遠世界のクロッキー
このところ奥行きへのdevotionが続いている。たまには幅の世界へと戻らないとヤバイ(笑)。
奥行きに身を捧げることは永遠に身を浸すということになるのだろうから、死を永遠の生へと転ずるための一つの身振りということでもあるのだろう。この存在に沈み込んでいく感覚を単なるムードではなく、どこまでリアルなものへと掘り下げられるかは、その風景の描写にかかっている。まだまだ潜行が足りない。
無限大が無限小へと舞い降りるという事件を目の当たりにして個人的に一つ分かったのは、今まで無限大と無限小という観念のもとに二つの未知としていた対象は二重化した自分自身の在り方にすぎなかった、ということだ。
今まで巨大なシャボン玉のように世界の包括者として君臨していた時空間(=自我)が単純な実体としての自分自身に気づき、キラキラと七色の光を放ちながら物質のもっとも深いところへと旋回しながら舞い降りて行く。ライプニッツ的なあまりにライプニッツ的な聖霊降臨という出来事。
ライプニッツに拠れば「モナドには窓はない」。とすればこの事件は極めてパーソナルな、自らの内在での出来事ということになる。もちろん、それはそれでいい。だけど、果たして、この内在としての生の中で「永遠の汝」と出会い、そして一体化するなんてこが可能なのだろうか。出会えるとすればどうやって?
ケイブコンパスを素粒子の生成地図にあてがって、イメージを広げる限り、直接の出会いはどうも難しい。たとえ出会ったとしても、必ず二つのものへの分化が起こるということを地図は物語っている。対称性は常に拡張されていくものだから。。
しかし、これは必ずしも分裂を意味するものではない。生産的差異化のようなものじゃなかろうか。 内在原理には深く結合すればするほど間により大きな差異を累積させていくという性格があるようなのだ。2が4に。4が8に。8が16に。延々と累乗化されていく力の地層。。
この累乗化がライプニッツがいう共可能性というものの本質なのかもしれない。つまり、天上世界とは他者と「一つになる」といったようなスタティックな状態を指すのでは決してないということ。
むしろ、一つになれる「可能性」がはっきりと示されるからこそ、絶えることのない差異化が実行されていくということ。そこでは「一つなのだから別々であっていい」という背理が神の存在の根拠のもとに働いているのだ。
こんな世界だから、奥行きに住まう天使たちには、妬み、悲しみ、野心、不安といった感情はない。そこでは「君はここにいるよ」「君もここにいるよ」というメッセージだけが一つの美しい音楽としてやりとりされている。
幅の世界は相変わらずの喧噪だが、奥行きの世界では真夜中の静寂の中に降り積もっていく雪片のように、無数のモナドたちが物質のもっとも奥深いところに次々に着床していく様子が感じ取れる。内なるものへの欲望の扉がまさに開いたかのように。これからも徹底してこの内部化への欲望に準じようと思っている。
崇拝とか憧憬の対象となる神なんてものはもういらない。モナド化した「わたし」とはすでに神の身体の一滴である。だから、今度は神の身体の内部から人間世界に向かって畏敬の念を払い続けること。永遠の中に生きるとはそういうことなのだろうと感じている。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ケイブコンパス, モナド, ライプニッツ, 奥行き