7月 24 2008
時間と別れるための50の方法(22)
●持続、記憶、イマージュ
次元観察子ψ3………対象の背景方向で同一視され、ペッタンコにされた奥行きという名の方向性。それはヌース的思考のもとでは3次元空間から垂直に立ち上がる4次元方向の軸を意味するものになります。その領域は見るもの(主体)も含む場所であるとポンティは結論づけたわけですが、これは一体どういう意味なのでしょうか。
たとえば目の前にモノがあるという状況について考えてみます。僕らは日常、単純にそこにコップがある、とか、灰皿があるとか、口にします。物質というものが客観的な外在世界に存在しており、そこに光が当たり、その光の反射が目に入ってきて、網膜がその像を写し取り、その信号が脳に送られ、脳内のどこかでその像が再構成される。それがモノが見えるということの一般的な説明です。人間型ゲシュタルトではそう考えることが習慣のようになっていて、学校でもそう教えるものですから、ほとんどの人がこの常識を疑いません。
しかし、見えるもの(客体)と見るもの(主体)の関係を単に空間的な配位の中で考えるのではなく、時間的配位の中で考えてみるとどうなるでしょう。これは今まで見てきた次元観察子ψ3~ψ4の構造を念頭に置いて、モノが目の前にある、とはどういうことかを考えることと同意です。別の言い方をすれば、相互に反転した4次元軸の介入を仮定して主体と客体の関係性を考えてみたらどうか、ということです。一方ですべての時間を包摂した無時間の場所があって、他方で、その無時間を秩序立て直して、時間があたかも未来からやってきては過去へと流れていくように見せかけている場所がある。ひょっとして、僕らが主体と客体という形で概念化している世界の有り様の二つの側面は、この4次元の相互反関係に由来しているのではないかと考えてみるのです。
僕自身、このψ3とψ4の構造が見え出したときに、主客関係を時間の問題(ヌース的には4次元の方向性の問題ということになります。つまり、人間の外面か内面かということ。)として捉え直そうとした哲学者がいなかったかいろいろと調べてみました。すると、いないどころか、哲学史に燦然と輝く天才思想家がそれに挑んでいたのです。アンリ・ベルクソンです。ベルクソンは主客問題を時間的側面から乗り越えようとした最初の哲学者だと言っていいと思います。
ベルクソンは時間には二通りの時間があると言います。一つは時計の針で計られるような物理的時間。もう一つは実際に生ある人間が感じ取っている本当の時間。心理学的時間と呼んでもいいのかな(ベルクソンはこちらの時間を「持続」と呼びます)。物理的時間は過ぎ行く時間の瞬間、瞬間を点のように描像し(実際、物理学では瞬間性を点時刻として扱います)、時間の流れを点の連続的集合性として線的に捉えます(時間軸tというのがその典型です)。ベルクソンはこうした物理的時間の在り方を「空間化した時間」と呼んで、本当の時間(持続)を隠蔽しているかさぶたのようなものとして批判します。
物理的な時間のもとで物質という存在について考えてみましょう。僕らは単純に3次元的かさばりを持った物質が外在世界に存在しているものとして考えますが、このとき、外在世界と呼んでいるものは時空ということになります。そこでは、刻一刻と時間が流れ、訪れる一瞬一瞬があっと言う間に過去へと収納されていっています。こうした時間の奔流の中で「物資が存在している」と言うのはちょっとナンセンスかもしれません。なぜなら、「存在している」という形容自体が幾ばくかの時間的経過を含んでいるものと考えられるからです。物質が時間と無関係にある、ということを証明するためには瞬間性における物質の存在を明らかにしなければならなくなるわけですが、瞬間としての現在を意識が把握するのは全く持って不可能です。今・現在という瞬間性を意識が対象化したときには、それはもうすでに過去のものになってしまっており、点時刻としての瞬間性、現在性は、ある意味、意識の盲点とも呼べるような把握不能な存在なのです。
そこでベルクソンは大胆に言い放ちます。「物質とは記憶である」と。いいですねぇ~。カッコいいです。僕らが「そこに灰皿がある」というとき、その物質は単に現在の灰皿の姿だけが立ち表れているのではなく、その背景に、1秒前の灰皿、1時間前の灰皿、1ケ月前の灰皿、一年前の灰皿というように、その灰皿の履歴が彗星の尾っぽのようにたなびいている、というわけです。このたなびきがベルクソンが持続と呼ぶものと考えていいと思います。その意味では持続とは記憶と言い換えていいのかもしれません。
言われて見ればその通りです。僕が目の前の灰皿を認識するとき、単に、モノとしての灰皿だけがあるわけじゃありません。そこにはその灰皿に対する様々な僕の思いが付着しています。単純なところで言えば、〜昨日もここに灰皿があった。そして、相も変わらず今も同じところに灰皿がある〜だから、「ここに灰皿がある」という継続を含んだ言い方になるわけですし、一ヶ月前はこの灰皿を見ながら「タバコ止めたほうがいいかなぁ」なんて殊勝な心持ちにもなった。でも、食後の一服が引き起こすあの快楽の誘惑に耐えきれず、結局、「タバコ最高!!」といいながら、その灰皿に再度、灰をポンポンと落とした自分がいた。。「僕の前に物質として灰皿が存在する」ということは、こうした見るもの側の物語の継続と同じ意味を持っているわけです。そして、その物語をたなびかせながら、今もまた、ここに、こうして灰皿がある。。
このような思考を含んだ視線で捉えられた灰皿は、単に僕らが客観的実在世界にポンと放置された物質としての灰皿とは全くニュアンスが違うものであることが分ります。同時に、それは意識が単に表象として再構成しているような灰皿でもありません。それは生きている事物と呼んでもいいような何かであり、単なる物質でも単なる観念でもないような何物かです。ベルクソンはこうした何物かのことを事物や表象とは区別して「イマージュ」と呼びます。きれいですねぇ~。イマージュ。ベルクソンが「物質とは記憶である」と言うとき、物質はこうしたイマージュとして見なされているのです。そして、このイマージュはベルクソンの中ではもはや客体としての対象ではなく、見るもの、つまり、主体の活動を含んだ精神の働きとして解釈されていくことになります。――つづく
7月 29 2008
時間と別れるための50の方法(23)
●生ける光と死せる光
周囲に知覚されている事物をベルクソンのいう「イマージュ」として捉え直し、改めて見つめていると、おのおのの事物がそれ自身の過去を背後にたなびかせながら、それを見ている主体と一緒に存在し続けているような、そんな感覚が芽生えてきます。空間が過去を含み持って厚みを増してくるようなこないような、何やらそんな感じです。
このように、ベルクソンによれば、過去は過ぎ去った現在の知覚などでは決してなく、現在=知覚(ベルクソンは純粋知覚と呼びます)の背後に付き添う記憶とともに存在しつづけているものなのです。ですから、そこで生起している知覚は、もはや以前のような瞬間の切り取りとしての知覚ではなく、数々の記憶に支えられたイマージュとしての知覚でしかあり得ません。このように純粋知覚から記憶へと移行することで、物質という概念を破棄し、精神へと向かうことがベルクソン哲学のまさにキモと言っていいのですが、ここにヌース的な分析を施した場合、こうしたイマージュとしての知覚を一体どこに想定すればよいのか、その場所性が問題になってきます。
ベルクソンは、この問題については直観で捉えるしかなく、空間化された時間のように、持続が根づいている場所を(構造として)幾何学的に表現することは不可能だと言っているのですが、一方で、下図1のような円錐モデルを用いて、持続の具体的な振る舞い方を比喩的に説明してもいます。この円錐はヌースの観点から見てもかなり興味を引くものなので、ちょっと紹介しておきます。
ここに描かれている円錐の全体性SABが記憶に蓄えられたイマージュの全体を意味します。頂点Sが現在、すなわち純粋知覚の場です。ベルクソンによればこれは身体のイマージュです。身体は常に現在とともにあり、僕らの行動の起点となりますが、これは分るように常にingの世界です。ベルクソンは、この現在としての身体と密接に結びついているのが感覚-運動のシステムだとし、その場所を平面Pとして表します。つまり、想起によって引っ張り出されてくる記憶と、運動や行動の習慣化によって獲得されている身体的記憶を区別して考えているわけです。実際に通学路を思い出しながら歩いている人はいませんよね。ベルクソンの言う通り、確かに習慣はつねに現在に根を張っているという言い方ができます。
一方、通常の記憶の場所は円錐SABの様々な断面として表されます。時間の流れは頂点Sが平面Pとつねに接しながら、平面Pを押すように円錐自体を成長させてくのに対応し、新たな過去をA’B’、A”B”というように生産し続けていきます。現在は想起によって記憶を引っぱり出して、そのときどきの精神水準を作り出してくるわけですが、ベルクソンによれば、意識はつねにこの円錐内部を反復しており、その反復によって記憶が現在にもたらされるとしています。つまり、意識は精神の内部において常に現在と過去との間を振動しているというわけです。この振動の状態が「持続」と考えてよいでしょう。
とまぁ、ざっと、ベルクソンの円錐モデルの説明をしましたが、その他、意識状態についてのいろいろなことがこの円錐モデルを通して説明できるのですが、興味がある人はベルクソンの『物質と記憶』を読んで下さい。というところで、話を本題に戻します。こうした持続空間が一体どこにあるのか、という問題です。
気づかれた方もいらっしゃるかもしれませんが、ベルクソンが何気に出してきたこの持続円錐は相対論に登場するミンコフスキーの光円錐ととても似ています。もちろん、光円錐の方は単に時間と空間の関係をその高さと底面の広がりに取って、両者の関係性をあくまでも物理的に把握するために作り出された幾何学的モデルであって、そこにベルクソンが語るような持続の意味づけは一切ありません。しかし、ヌース理論が説く人間の内面、外面という概念を念頭に置いて、この光円錐自体を反転させてみたらどうなるでしょうか(下図2参照)。
そこには虚時間における光円錐とも呼んでいいものが現れますが、おそらく、この光円錐がベルクソンの持続円錐の意味を持っているのではないかと考えられるのです(ヌース的には円錐というよりも球体となる)。その理由は今までこの拙論でお話してきた下記のような理由からです。
1、人間の外面は知覚そのものが生起している場所であり、数学的には射影空間として考えられること。
2、人間の外面では奥行きという方向性が一点に潰されており、潰された奥行きは光速度状態と称してもいいような過去ー現在を全て含み持った薄膜として視野空間上に存在させられているということ。
3、この薄膜はモノの見えとその背後の空間をすべてを含み持っており、記憶はその薄膜の厚みの中に重層的に存在させられていると考えられること。
4、この記憶の重なりがポンティの言う見るものとしての主体の息づきとして考えられること。
5、この薄膜の厚みは、物理学的には虚時間とよばれる4次元空間の方向の微小長さの軸によって支えられていると考えられること。
こうしたヌース理論の予想が正鵠を得ているのかどうかはまだ分りません。しかし、とりあえずは、目の前のモノから広がっている空間を、4次元の軸(視線)の相互反転関係を用いて人間の外面と内面という二つの領域に分離させ、それぞれに「持続空間」と「均質時空」の意味を付与することは、ベルクソンの主張を簡潔な形で整理する上で極めて有効な手法となります。一方に持続を保持した記憶が活動する分割不能な空間があり(人間の外面)、方や他方に時間の流れにおける現在を一瞬、一瞬の点のように分割し、それらをパラパラめくりの動画のようにして概念化して整理している空間がある(人間の内面)。前者は物質がまさに記憶として存在する、それこそベルクソンが言うところの精神の住処にふさわしい場所となり、後者は僕らにおなじみの時空となります。
こうして物質的身体=主体という人間型ゲシュタルトが提供する頑な意識感覚は弱められ、人間の外面と人間の内面という概念のもと、世界自体が世界自身を主体的側面と客体的側面に「対化」として分離させているというトランスフォーマーが所持する世界概念の基礎を形作ることができてくるわけです。
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 0 • Tags: イマージュ, ベルクソン, 人間型ゲシュタルト, 内面と外面