8月 28 2013
ヌーソロジーVSシュタイナー
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去る8月24日の土曜日、神戸で『ヌーソロジー×シュタイナー』というトークイベントが開催された。主催は観音企画さん。会場には関西ヌーソロジー研究会の皆さんをはじめとして総勢50名に近い人が集まって下さり、2次会まで大いに盛り上がりを見せた。この場を借りて、参加していただいた皆さん、司会を担当していただいた関西ヌーソロジー研究会代表の川瀬さん、そして観音企画のKaoruさんと鈴木さんに感謝の念を表したい。どうもいろいろとお世話になりました。ペコリ。
さて、公開の場で、ヌーソロジーが他の思想・哲学とセッションを行うというのは初めての試みだ。僕自身、このイベントのために前もってシュタイナーの著書を4〜5冊ほど読んで臨んだのだか、受験勉強のようなつけ刃の詰め込みではシュタイナー思想の壮大な厚みはとてもつかみ取ることができない。ヌーソロジーからいろいろと突っ込みを入れようと思ったものの、逆に福田さんによる幅広いレンジのシュタイナー解説に「ほぅ〜」と感心するばかりで、スリリングな対談に持っていくことができなかった。やはり、シュタイナーは巨人。ヌーソロジーは新入幕程度のレベルということなのか。。。とほほ。いや、僕にはなかなかそうは思えない。しっかりと突っ込んだ議論こそできなかったが、ちょうど北の湖全盛時代にキラ星のごとく現れた千代の富士のように、ヌーソロジーには現代感覚にマッチしたスリムなシャープさがあると自分で勝手に自負している。現代において人間の知性の営みに霊的な感性を蘇らせるには、時代にマッチした表現力というものが必要なのだと感じている。シュタイナーに物足りなさを感じるのはたぶんその時代感覚の強度にかけるところかもしれない。
とは言うものの、シュタイナー霊学はほんとにすごい思想体系になっている。今回、ゲストとして招待された福田秀樹さんはシュタイナー自身が敢えて避けていた、「シュタイナー宇宙論の構造分析」に取り組んでおられる方なのだが、その枠組みの解説を聞いていると、こと構造面に関する限り、ほんとにヌーソロジーとそっくりなのである。おそらく、現代人がシュタイナーの思想を受け入れづらいのは、やはりその多くが霊視を通じた超越的な知識の記述で満たされているからだろう。ほとんど宗教に見えてしまうのだろうと思う。ディルタイを意識したのかどうかは知らないが、シュタイナーは自分の思想を『精神科学』と呼ぶことを好んでいた。シュタイナーの思想は確かに奥が深く、意味深ではあるのだが、それでも従来の哲学や科学からはかなりの飛躍がある。おそらく、この飛躍を現代思想や現代物理学の知見を持って埋めていく役目をヌーソロジーは担っているのではないかと考えている。
シュタイナーは修行によって誰でも霊視力が芽生えてくるものと言っているが、霊視力が超感覚的な高次元知覚の力であるならば、それは文字通り、数学的な意味での高次元の幾何学的概念ともリンクしなければならないし、実際の現象世界においてもその存在の徴表を、素粒子の振る舞い等の現象的事実として指し示すことができなくてはならない。そういう作業を通してこそ、霊的知識は多くの人々に相互了解可能な知識となるのであり、精神科学という表現もその達成において、初めて違和感のないものになるのだと思う。
超古代建築のあまりの壮麗さの前に一瞬ではね飛ばされるモダニズムの建築家のように、僕自身もシュタイナーの思想の射程に一瞬眩暈を感じはしたが、未来の建築物は超古代の建築物が持った圧倒的な存在感を乗り越えるところにしか出現しない。超古代はやがて到来する未知の絶対的未来を朧げに模倣しているだけだと感じている。だから、ヌーソロジーの試みは必ず成功する——そう思って作業を続けるしかない。
観音企画さん、川瀬さん、参加していただいた皆さん、そして、福田秀樹さんに、重ねてお礼申し上げます。
(上写真提供/関西ヌーソロジー研究会の原さん)
10月 9 2013
シュタイナー哲学とヌーソロジーの最初の接合点
シュタイナー哲学とヌーソロジーが互いに同型とも言ってような対応を見せるのはやはり「反転した空間」のイメージというものを純粋思考の中に打ち立てなくてはならないとするところです。この「反転した空間」はシュタイナー哲学ではエーテル空間と呼ばれています。
エーテル空間は太陽的な力を浸透させている空間で、生命を維持しているエーテル体の活動の場と言ってよいような空間です。端的に言えば、物質空間と生命を支えているエーテル空間は互いに反転した関係にあるということです。
エーテル空間のもとでは、わたしたちが日頃感じている空間の無限の広がりは、無限の縮まりとして見えます。そして、広がりの彼方にある無限遠の周縁は、ひとつの”宇宙中心点”となります。空間上に散在するような相対的な点ではなく、絶対的な一点が出現してくると言ってもよいでしょう。
天上世界と地上世界は「見上げること」と「見下ろすこと」の間にある関係ではなく、この相対的点が活動している空間と絶対的点が活動している空間の間にある関係として、同時に目の前の空間に重なり合っていると考えなければなりません。
シュタイナーの研究者であるG・アダムスという人がこのエーテル空間について数学者?の立場からいろいろと書いています。とても面白い本なのですが、射影幾何学の概念をそのままユークリッド空間の中で解説しようとしているので、幾分、分かりにくい本になっているような感じがします。
認識される点を相対的なものではなく、絶対的なものにするということは、局所=非局所という空間理念を作り上げることに対応しています。それはより簡単に言うと、視野空間を動いているものとして見るか、不動のものとして見るかの違いです。
物質空間では当然、身体は物質であり、空間の中を移動するものと見られていますから、視野空間自体も動いているもの(相対的な点)として判断されます。しかし、エーテル空間側では、動いているのは視像側であって、視野空間はそれこそ射影空間(無限遠平面と言ってよい)になっています。
エーテル中心としての”宇宙中心点”を意識に浮上させてくるためには、こうした無限遠平面と通常の相対的点をそれこそ「等化」しなくてはなりません。それによって、通常の相対的点の中に物質空間のすべてが収納され、部分=全体という生命力の本質的な在り方が垣間見えてくるのです。
この空間感覚を作り出すためには、自分を無限遠平面、つまり空(そら)だと思うことです。ぐるりと周囲を見渡したときに空も回りますが、それは自分が空の裏面にいるからです。そして、そのとき、その回転の中心となる場所にエーテル中心としての宇宙中心点が出現してきます。
こうしたエーテル空間は見ることそのものが持つ射影的性質によって、ユークリッド空間から見れば小さく小さく収縮して見えます。こうしてエーテル空間は素粒子となって元素的なものを生成する元となっているのです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, シュタイナー関連 • 0 • Tags: エーテル, シュタイナー, ユークリッド, 無限遠, 素粒子