9月 5 2016
『QJKJQ』はタイトル自体がミステリー
先日紹介した『QJKJQ』を一気に読了。読む人を選ぶ作品だが、本当に意欲的な作品だ。選考委員の有栖川有栖氏が「これは平成の『ドグラ・マグラ』である」と帯に書いているが、僕にはそう感じなかった。
『ドグラ・マグラ』は時代がまだ追いついていなかったために、狂気で閉じている。しかし、この『QJKJQ』は狂気では閉じない。今という時代の”正気”を描いている。倒錯に対する視点が確信犯的に真逆になっているのだ。そこにヌースとの接点もあるのだが(笑)。
佐藤氏が好きな作家はニーチェ、バタイユ、フーコー。そこにマリリン・マンソン風のサウンドが加わり、全盛期のデビット・フィンチャー風の映像感覚が畳み掛ける。膨大な量のシミュレーションを行い、丁寧にシーンを切り貼りし、まるで設計技師のような手つきで物語の輪郭を作画していく。すべてが計算され尽くされている。実に彼らしい作品だ。
小説はここ20年ぐらい読んていないので、現在のミステリー小説のシーンに関しては全く知らないのだが、このようなテーマをミステリーに持ち込み、かつ、それで日本最高峰の賞を獲るという彼の筆力はハンパない。BABYMETALやシン・ゴジラ旋風とも共通するのだろうが、「平成」の終焉を感じさせる力作だ。
タイトルの『QJKJQ』。ほんとうにイカしてる。相変わらずセンスいいよなぁ。作中に何度か顔出を出す「国家には窓がない」という謎めいたフレーズも気がかりだ。このフレーズがこの作品のすべてを象徴していると言っても過言ではないような気がする。今のような時代だからこそ、日本人はこの言葉に秘められた真意を探る必要がある。
―国家という密室の中で何が起こっているのか。そして、犯人は誰か。。
※下写真は裏表紙です。
9月 7 2016
Are you ready?
人間の身体は存在論的反転の蝶番の位置に生成してきている。これは無限大と無限小の結節点に等しい。人が身体を自己中心化の位置として見ているときは、身体は巨人族の一員である。ここには時間の神が宿り、人は言語的動物と化し、俯瞰者として宇宙を我が物へと所有したい欲求に駆られる。
科学の目、政治の目、経済の目、これらはすべて巨人の目のバリエーションと考えていい。すべては一神教的精神の産物だということ。
しかし、同時にこの巨人は自分の奥底に潜む小人性に恋い焦がれてもいる。この小人性が女神アフロディーテだと考えるといい。ここには金星的美、つまりは黄金比が立ち上げる螺旋状の生成力が息づいている。人が経験する共感を通した喜びの感情はすべて、この螺旋力の反響としてもたらされている。
巨人が自力でこの小人の身体へと身を翻すことは不可能だ。巨人を巨人たらしめた者が背後にいることを忘れてはいけない。ユダヤ-キリスト教者が一心に待ち続けている「救済」とは、その意味で言うなら、彼らが神と呼ぶところのものにおける回心なのだ。唯一そのことに気づいていたカバラはこの回心をツィムツーム(収縮)と呼ぶ。
古代キリスト教においてキリストがヴェシカ・パイセスで表現されたのも、この互いに互いの中心を交差する二つの円が神の回心の身振りを象徴しているからにほかならない。
さぁ~て、諸君。
反転の準備はできているか?
もう一度、聞く。
反転の準備はできているか?
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: ツィムツーム