9月 9 2016
ヌーソロジーを理系の話と思っている人が多いがそれは間違い
スタッフのOくんがヌースレクチャー2015のVOL.4のDVDの製作に追われている。第四回のテーマは「次元観察子と自我」。ヌーソロジーを物理学を通した意識論と思っている人が多いが、実はこれは逆も言えて、心理学・哲学を通した物質論という言い方もできる。
このVOL.4は心理学や精神分析を通して観察子概念を解説する回になっている。案内文を見てみよう。
―人は折に触れて「わたし」とは何者かと考える。「わたし」が「わたし」であることは自明であるにも関わらず、「わたし」の意味について考えざるを得ないということは、「わたし」という存在がつねに正体不明なものであり続けているからに他ならない。哲学者デカルトは「我思う、故に我あり」と語り、
「わたし」とは思考する者のことだと言い切った。ここには現代人が考えるステレオタイプ化された自我イメージがある。しかし、この文章はどう見ても変だ。結果である「我」が原因である「思う」に素知らぬ顔で入り込んでいる。正しくは「思う、故に我あり」なのだ。
では一体何が「思っている」のか。それを人はつかめない。だから、あがく。「思う我」と「ある我」の間には、言葉で表現することのできない亀裂がある。この亀裂を超えない限り、人はほんとうの「わたし」を知ることはできない。
以上、引用終わり。
この亀裂のナゾを解くことがポスト構造主義最大のテーマだったと言っても過言じゃない。そこで、出てきた結論は、そこには「もの自体」が挟まっている、というもの。つまり、「もの自体=物質の起源」を挟んで、僕らの意識と無意識がグルグルとラットホイールのように旋回し続けているということだ。
BABYMETAL風に言うなら「悪夢のロンドが繰り返されている~♪」ということになる。このロンドに飽き飽きしているのなら、ワシらは「もの自体」に突入するほかはないじゃろう。その入り口が「奥行き」にあるという筋立てがヌーソロジー。
だから、ヌーソロジーは自我論でもある。ただし、そこで精神と物質を分けて考えない。だから、当然のように素粒子も出てくる。いや、出てこないとおかしい。結局のところ、学問における文系・理系の乖離自体が近代自我の産物であるということ。両者を接合しない限り、意識進化なんてものはやってこない。それを推して知るべし。
9月 12 2016
太陽の中にある太陽
以前Twitterで「宇宙には太陽系しかない」とつぶやいたら久々にたくさんのハートマークが来た。たぶん、ハートをくれた人は占星術をやってる人や伝統的な霊知に詳しい人がほとんどだと思うけど、一方で科学的宇宙観をそれなりに信じている人にとっては、このオジサンかなりイっちゃってる、と思われたかもね。事実、イっちゃてるから、まぁ、いいんだけど(笑)
でも、この発言は反転した空間における思考がもたらしているもので、別に霊感であてずっぽに言ってるわけじゃないんだ。奥行きの空間で世界を見だすと意識の場は時空から素粒子の場に移る。太陽というのはその素粒子の全体性が組織化されていくプロセスになってるんだよね。そして、この組織化がアートマン(個体原理)としての人間の無意識構造になっている。
人間という生き物(特に男性)はどうしても世界を客観的に見たがるよね。いつも言ってる「世界を幅で覆っちゃう」ってやつなんだけど。でも、そういう見方だと人間は絶対に宇宙とは調和を持てない。自分の意識を特権化して、つねに、〈われ-それ〉の関係で世界に触れようとするから。理性の横暴がここにある。
今の常識的なマクロに対する宇宙観って、全部その見方からきてるものだよ。それをまずはしっかりと確認してほしいんだ。つながってないよね、見てる自分と。何も。
でも、僕らが世界と関わっている空間を幅(延長)ではなく、奥行き(持続)そのものに取り替えて、そこに物理学が使用している虚軸の概念を添えると、僕らは物質の内部の場所に一気にワープし、宇宙の内部とつながることができる。そこから、宇宙を考え直す時期がきてる、と言ってるわけ。
僕はもうその思考を25年以上やってる。さっきの太陽の話も、その結果として見えてきたものなんだ。つまり、太陽を太陽の中から見て言っているってこと。外から見た太陽じゃないよ。宇宙を裏返して認識していくことは可能なんだ。空間を奥行きの空間へと模様替えしさえすればね。
そろそろ〈われ-それ〉の関係から出ようよ。裏返った宇宙にはそれこそブーバーが言うように〈永遠の我と汝〉しかいないよ。そこでは「それ」なんてものは存在していないんだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 太陽, 奥行き