2月 25 2008
月の呼吸
やっと、太陽と地球の間を挟んで行われている月の公転運動の本質を、シンプルな関係で置換できる位置が見えてきたようです。地球-月-太陽の本質的な関係はこの地上では、おそらく次の三つものの関係性として落とし込まれています。
地球=モノ
月=肉体
太陽=他者の眼差し
どういうことか説明してみます(『人神・アドバンスト・エディション』をすでに読まれた方は第二部の「トランスフォーマー型ゲシュタルト/ベーシックプログラム」に掲載してある「図9-向かい合う自他の視野空間と交合円錐」を参照して下さい)。
太陽とは何ですか?
カガミのようなものです。
(シリウスファイル)
ここにもあるように、オコツト情報では太陽とは「カガミのようなもの」とされます。ここでオコツトが言っている「カガミ」とは物質的なカガミではなく、自分が自分であること、もしくは自分を自分として成り立たせるための絶対必要条件としてのカガミのことです。『人神・アドバンストエディション』では、その役割を精神分析の知見を借りて、「他者の眼差し=他者の視野空間」として解釈しました。『シリ革』にも登場させた例のラカンの「鏡像段階」の話ですね。
何者か分からない他者がまずいます(ラカンはこれを「大文字の他者」と呼びます)。その正体不明の語らいの場所にやがて「わたし」と呼ばれることになるその生き物は生み落とされ、そこに居合わせた他者たちの眼差しを通じて、その生き物は「わたし=自我」というものの基盤である身体のまとまり意識化して自意識を発芽させていきます。このとき、他者の眼差しと同時にその生き物の前に現象として表れてこざるを得ないもの――それがモノに対する知覚と肉体(前々回のシュタイナーの言い方をすれば、エーテル体と物質体)です。ここで、モノと肉体の関係性をごく単純に円のカタチで表してみます。
「わたし」が肉体側を動かしてモノの表面の全体性を見ようとするとき、肉体はその周囲を回る必要性が出てきます。それも、そのとき肉体は絶えずモノの方向を向いておく必要があります。モノに対して「わたし」の前半身を常に向けていなければ、モノはたちまち視界から消え失せてしまうでしょう。ここで、すぐに次のような連想が湧いてくるのではないでしょうか。
肉体は絶えず同じ面をモノの方に向けて回っている………(1)
月は絶えず同じ面を地球の方に向けて回っている………(2)
(2)は月の地球に対する公転周期と月自身の自転周期が寸分の違いもなくピタリと一致していることによる現象ですが、こうした一致は天体物理学では「軌道共鳴」と呼ばれ、他の惑星とその衛星の間でもたまに見られる現象です。しかし、そうした共鳴が起こる原因はまだはっきりとは分かってはいないようです。
さて、ここでもう一度ヌース的な思考に戻って考えてみます。肉体というのはモノの手前性にその位置を感じている何ものかですが、実際には、モノの手前の位置にあると思われる「わたしの頭」はわたし自身には見ることはできません。だから、『アドバンスト・エディション』でも書いたように、わたしに頭があるとする言明は、「鏡(他者の眼差し)」を通した認識を借りた一種の想像物にならざるを得ません。
ここでの「モノ」「肉体」「他者の眼差し(視野空間)」の関係を、そのまま、地球-月-太陽に置き換えて、並べて考えてみましょう。すると面白いインスピレーションが湧いてきます。こうした配列が地球上から見てどのような状態をもたらしてくるかと言うと、この場合、月の背後に太陽が隠れているのであるから、当然、月は太陽によって照らされていない状態、つまり、「新月」の状態として地球側から見えることになります。つまり、ここから予想される推理は、新月とは想像的自我の核を表しているのではないかということです。
では、一方の満月の状態とは、これら三者がどのような配置になれば作ることが可能でしょうか。ちょっと考えればそれは分ってきます。月の位置を今度は下図のように地球の左側に持ってくればいいんですね。このとき、月は地球で太陽が隠されてしまう月食のときを除いては、モロに太陽の光を受け、満々とした月の鏡として夜空に大きく輝くことになります。
はてはて、わたしは何が言いたいのか。。。
満月とは何ですか?
プレアデスがシリウスに連結を行っている状態です。
新月とは?
プレアデスが方向を見失っている状態です。
(シリウスファイル)
ということが言いたかったのでした。
何を言ってるのか分からない人たちもたぶん多いかもしれないので、要点を簡単にまとめておきます。
他者の視野空間に映る自分を想像して、それを自分と思っている意識状態の天体的投影が「新月」であるということです。これは想像的な自我を中心として意識が働いている状態のピーク時の様子を意味すると考えておくといいでしょう。これはヌース理論が「人間の内面の意識」と呼ぶものそのもののことです。そして、反対に、自分の視野空間に見えている現実そのものをしかと自分自身として見い出せている状態が「満月」の状態だと言えます。前回書いた光速度状態のことですね。いつでも「今」の中で世界を見つめている意識状態。これは人間の意識が自分自身の無意識の位置に最も接近したピーク状態と考えていいと思います。これが「人間の外面の意識」です。もっとも想像的自我の集合によって成立している人間社会全般から見れば、このような無意識の位置のピーク状態は「lunatic/ルナティック/狂気」として古来より敬遠され続けてきたものではありますが。。
さて、以上のヌース的な洞察がもし正しいとするならば、人間の無意識はこの新月と満月の間を約28日周期で反復していることになります。つまり、無意識は一月に一回は人間の内面の意識と外面の意識の間を行ったり来たりしているということですね。ここから好奇心が強い人は、じゃあ、一年ってなによ?ってな疑問が湧き出てくるかもしれません。ヌースから見ると、一年というのは、今度は人間の無意識における自他の視野の位置そのものの入れ替わりの周期、つまり、「次元の交替化」と何らかの関係を持つ領域の等化運動になってきます。それは次元数で言うと、28×13=364を等化していく運動になります。365に一つ足りない最後の「+1」は、公転と自転を等化するための一日です。どうも、これは、モノの一回転とモノを取り囲んで見ている無数の他者の視線をグルリと一回りした時に見えるモノの様子を同じモノとして見る精神作用が形作られている次元に相当しているようです。皆さんにもそうした認識能力がありますよね。その認識能力を作り出している空間構造に潜む精神が1年と関係を持っているということです。
地球、月、太陽………これをスサノオ、ツクヨミ、アマテラスと呼びましょう。。。おおぉ~、思わず「ツァラトゥストラはかく語りき」のテーマが今にも流れて来そうな雰囲気です。ダントン、ダントン、ダントン、ダントン、バー、パァー、パァァァー、ジャジャ〜〜ン、ダントン、ダントン、ダントン、ダントン、♪〜♡
3月 11 2008
太陽と月に背いて(4)
画像はhttp://blog.nsk.ne.jp/stella/archive/month200603.htmlからお借りしました。
ヌース理論から垣間見える、「シリウス領域へのアセンション」についての話を続けます。
前回、前々回と――シリウスとは「モノ自体」の世界である――と書きましたが、一体何を言ってるのか意味が分からな~いよぉ~、と頭を抱えて込んでいる方も多いかもしれません。かくゆう僕も10年ほど前までは、シリウスの意味について七転八倒して考えていた部類の人間なので、どうぞご心配なく。多くの人たちにもいずれはっきりとこのことの意味が手に取るように分ってくると思います。
コ : シリウスとは何ですか?
オ : 重次元に反映された力の反転作用の意味です。
(シリウスファイル)
ここでオコツトが言っている「重次元に反映された」というのは、人間の内面の意識の総体と人間の外面の意識の総体が双対性として充満したときの、そこからの新しい力の立ち上がりのことを意味しています。無茶苦茶端折った分りやすい言い方をすれば、科学も宗教も行き着くとこまで行き着いて、もう先がなくなると、そこから「全く別のもの」が現れてくるということです。そうした状態になるとそこから意識は科学的なものと宗教的なものを相互に変換するような調整を自動的に行なうような仕組みを持っており、そのときに互いの等価性を見出す意識が生まれ、その意識の力の発現のもととなっている力が「シリウス」だと言ってるわけです。
この内容からも分るように、ヌース理論がいう2013年から始まるアセンションとは世界認識の激変、それも物質と意識という両者に対する概念の激変が始まるということを意味します。以前のサイトの「シリウスファイル原本」をご覧になっても分かるように、オコツト情報というのは、そのほとんどが物質とは何かに関する情報ばかりでした。もちろん、感情的な内容や宗教的な概念についてもいろいろと尋ねたのですが、そのほとんどについては無視されました。何の返答も返ってはこなかったんですね。ですから、結果的に、シリウスファイルは物質に関する情報に集約されてしまった形になっているのですが、と言って、オコツトがよこして来た物質情報は、地球科学が言うような無味乾燥なエネルギーの塊としての物質のことでは全くありません。オコツトに言わせれば物質の本質とは霊そのものなのです。
物質=霊。
こうした見方に立つことは、ある意味、従来の物質的世界観や霊的世界観からの脱却を意味します。方や科学では物質は137億年前に起こったビッグバンという出来事から発生してきたものと決めつけられ、方や、宗教ではそのような物質は霊的に低位の存在と見なされ、より高次の霊的な実体を物質とは全く関係のないところに求めようとします。——太陽が持つ明晰な狂気と月が持つ仄暗い狂気。これらはいずれも、物質は物質、意識は意識、というように両者の二元的な対立を相互保証するための、人間の意識が持った一種の症状と言っていいものです。
このような分離意識が科学的世界観と宗教的世界観相互の間に相容れない対立を呼び起こしていることは今の社会を見ても明らかです。どちらも互いの知識を吸収しようとはしない。もちろん、良心のある科学者たちや宗教者たちは、こうした分離はよくないということをよく分かっているので、物理法則は美しい。この美しさの背後にはきっと偉大なる何らかの存在がある、と言う科学者もいれば、神の御心はすべてにつながっている、このつながりの力は万物に浸透しており、物質もまたその例外ではない、と語って、科学的なものをもまた救済の対象とする宗教者たちもいます。しかし、互いに遠慮があるのか、はたまた互いの利権を保証し合おうとしているのか、それら両者が積極的に歩み寄り、この二つのものを統合しようとする知の営みは、現在の学問の世界の中にも宗教世界の中にもなかなか見当たりません。
こうして、知的権力は科学に、知的権威は宗教に、といったような最悪の妥協が引き起こされてくることになります。僕ら一人一人の魂はつねにこの対峙する二つの巨大な無意識の流れに引き裂かれ、現実的(俗的)なものと理想的(聖的)なもの、客観的なものと主観的なもの、父親的なものと母親的なもの、男性的なものと女性的なもの、超越的なものと内在的なもの、という種々の二元的な対立の間で、それらの間を反復することが「安定」だと教えられ、今も尚、この共に嘘っぽさを孕んでいる両者の知識の狭間で、深い苦悩の中に佇み続けているわけです。
問題は科学や宗教にあるのではなく、この両者の引き裂かれにあります。ヌース理論が科学も宗教も同じコインの表と裏にすぎない、とつねづね言っているのはこうした理由からだと思って下さい(つづく)
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: アセンション, 内面と外面