1月 14 2014
久々のツイッター御託
存在論的差異には二つの種族がある。ハイデガーのそれとドゥルーズのそれ。OCOT情報のいう人間の元止揚とヒトの元止揚がそれに当たる。ベンヤミンのいう神話的暴力と神的暴力の起源がそこにはある。その意味ではこれら両者の差異こそがほんとうの存在論的差異として問題とされなくてはいけない。
このことはドゥルーズも十分意識していたように思える。「本性上の差異は、象徴界と想像界に間にあるのではない。そうではなくて、欲望的生産を構成する機械的なものの現実的生産と、想像界と象徴界からなる構造論的総体との間にあるのである。」『アンチオイディプス』上・p.162
素粒子の対称性構造でいうと、おそらく、これら両者の差異はSU(2)×SU(2)変換と超対称性変換の差異ぐらいの違いがある。要は古い神の生産機構か、新しい神の生産機構かの違いだ。もちろん、この考え方を受け入れるためには、創造の反復という永遠回帰の回転を受け入れなくはならないが。。
OCOT情報のいう「定質と性質の交替化」というやつだ。これは、単純化していうなら、宇宙の陰陽のエネルギーの相互変換の運動である。能動的諸力と受動的諸力における対称性の奪回。ドゥルーズ流の永遠回帰はそこに要請されてくるものなのだろう。
だから、ドゥルーズは嫌うだろうけど、ドゥルーズのような思考は信仰がないと決して生まれてこない。その意味ではバディブがドゥルーズのことを「キリストに属する者、使徒」と呼んだことはよく分かる。
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貨幣を媒介とするモノの交換は、モノの内部で起こっている交換、つまり、生成の力が逆転したところに起こっている倒錯現象だと思います。資本主義の回路をこの真の意味での生産回路へと反転させるときが来ていると感じてます。交換されていくべきは主体なんだろうし、たぶん、そこに価値の源泉がある。
主体を肉体の座に置いている限り、主体の交換は無理。たがら、主体を空間化させる必要がある。もちろん、この空間というのは潜在的なものとしての空間であり、その実質は純粋持続(魂)。人は魂において始めて主体の交換を達成できる可能性を持つ。だから魂の形象化のイメージが必要なんですね。
そして、それが素粒子世界だということ。哲学的思考はここに入らないといけないと思います。その先駆けがライプニッツ=ドゥルーズ。
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シュレディンガー方程式はドゥルーズがいうところの潜在的ななものの場を純粋に記述している。しかし、潜在的なものの場はその内部に自らを巻き込まれたものから繰り広げられたものへと、〈差異化→異化〉〈微分化→分化〉、つまり、差異の差異化を行うシステムを持ち合わせている。
これは素粒子が自らを時空上へと姿を出現させるということに対応している。いや自らが時空を創出するといった方が的確かもしれない。この手続きによって、結果的に、相対論的場と量子論的場が重なり合う。こうした重合の場を記述しているのが、相対論的量子力学なのだろう。
ここではもはやシュレディンガー方程式は通用しなくなり、違う運動方程式の形式が必要となる。具体的に示せば、スピン0の粒子ならクライン=ゴルドン方程式、スピン1の粒子ならプロカ方程式、スピン1/2の方程式ならディラック方程式という形式を取る。
意識の発生は内部性と外部性の差異の発生に準じていると考えられるが、それはドゥルーズの概念に即して言えば、それは〈差異化-微分化〉と〈異化-分化〉の差異を巡って巡回するものである。
〈差異化-微分化〉が内包性を作り、〈異化-分化〉が延長性を生み出すと考えていいのではないかと思う。そして、ここにドゥルーズ哲学の二元論的要素である現働的なものと潜在的なものの原型が生じている。
よって、致し方ないことなのだが、時空の変数(x,t)が組み込まれているシュレディガー方程式は、先構成的なものを取り込んで表現されていることになり、結果的に、粒子の運動方程式を連結させている基盤は円環的な回互性の構造を持っていることになる。これがドゥルーズのいう「クロノス」の物理数学的表現と言っていいのだろうと考えている。
シュレディンガー方程式から時空の変数を抜き取れば、それは純粋に潜在的なものの表現形式となるが、そこにはもはや運動もないわけなので、方程式も成立しない。つまりは、波動関数は形象としてしか意味を持たなくなるわけだ。
ここで抽出されてくる形象が、魂の形象だと考えている。強度的空間には通常の意味での運動は存在しない。そこには純粋な形象のみしか存在しない。それがイデアだろう。
しかし、永遠としての魂が、時計の時間として繰り広げられてくるときの具体的な身体感覚が欲しい。。それは何を意味しているのだろう。確かに時計的時間は概念にすぎないのだが、なぜ、単なる概念がこれほどまでに意識を占有するのだろうか。やはりそれは言語との協同によるものなのだうか。
時空を意識から消し去ることは、経験的他者を意識から消し去ることに等しいのだが、それによって経験的自己も消滅する。ドゥルーズのいう非人称的主体がここに登場する。この一点の意味において、ドゥルーズ哲学を政治化させるのには無理がある。ドゥルーズ哲学はやはり解脱の哲学に思えてならない。
僕がどうしてもホルワード寄りになってしまうのもそのためだ。つまり、ドゥルーズ哲学はアカデミズムという政治的環境にはもっともそぐわない哲学だということだ。本来なら、坊さんが学ぶべきである。オレも出家しようかな(笑)でも、宗教も政治化されてる世の中だからな。。ほんと最低。
5月 7 2014
新しきロゴスのイマージュ
思考(ロゴス)が存在を超え出て新しい無限を切り開いていくとき、思考はそこで初めて魂(プシュケー)と出会うことになる。そして思考は、そこで初めてこの女なるものとの間にエロス的関係を持てるようになり、ヌースへと変身を果たす。これが古代のグノーシス者の一部が感じ取っていたロゴス(思考=種子)とプシュケー(魂=子宮)、そしてヌース(能動知性=胎児)の関係性である。
ここで展開しているロゴスのイメージは現代哲学を軽く凌駕している。このロゴスはもちろんキリスト教が言うような「受肉したロゴス」のことではない。あえて言うならば、イエスと同時代にアレキサンドリアにいたフィロンによる「切断者としてのロゴス」のイメージに近い。
「切断者としてのロゴス」というのは、言うなれば、ロゴスに抗って運動するロゴスのことである。思考に抗って思考自体を切断する思考……とでも言おうか。だから、この切断によって起こる分離はハイデガーの言う存在者と存在との差異に似てなくもないが、もっとデカイ。存在者を含んだ存在と、それを超え出ていくものとの差異ということにでもなろうか。
永遠の時間を一つの存在だとするならば、この「切断者としてのロゴス」とは、その永遠性さえをも超えて行こうとする一つの無限による無限運動と呼ぶことができる。要は、存在を丸ごと差異化させるような運動だ。そして、そこに存在の刷新を呼び込むこと。「創造とは分離から始まる」のである。
こうした思考には一者は存在しない。というのも、普通、一者とは分離ではなく統合を行うものと考えられているからだ。だから、フィロンは「1」ではなく、「2」を始まりの数にした。
さて、わたしたちの今現在の世界を覗いてみよう。「2」は二元性という言葉に代表されるように対立の数と見なされている。善と悪、光と影、わたしとあなた、男と女etc。どこを覗いてもそこには「二なるもの」における対立の乱交状態があるかのように囁かれ、「2」は常に悪者として糾弾されているかのようだ。
しかし、わたしたちの世界にほんとうに「二なるもの」が生まれているのだろうか? それは実のところ「一なるもの」が自らの支配を隠蔽するために流したデマとも言えるのではないか。
古代のプラトン主義者たちが考えたように、存在がもし一者であるのならば、その一者は「1」の観念として当然、個物の中にも影を落としている。一つのモノであれ、一匹の動物であれ、一人の人間であれだ。つまり、一人の人間にも厳然と一者が宿っているのである。それはわたしたちが「自我」と呼んでいるものにほかならない。
そして、知っての通り、この自我はどうあがいても自分の世界の中でしか生きられない。たとえわたしたちが万物の中にあらゆる二元性がうごめいているのを目撃したとしても、この2元性はこの閉じた一元性、つまり自我の中でうごめいている「2」にすぎず、それはつまり「1」の中の「2」、同一性に従属した差異の範疇でしかないのだ。
ここで「切断者としてのロゴス」が意図することが明確になってこよう。つまり、存在=一者に憑依された存在者としての人間=自我が、存在を乗り越えていくときに見出す超-存在、つまり、存在を切断する新たなる存在の芽、それが切断者としてのロゴスのことなのだ。となれば、存在の連続性を担保しているのは一者としての神などではなく、この二なるものとしての天使性と言ったほうがいい。
であるのならば、わたしたちが自然の中に見る生命の連続性の中にも、この無窮の無限運動の切り開きをイメージしなくてはならない。一つの種子から一つの樹木が生まれることも、一匹の動物から一匹の動物が生まれることも、そして一人の人間から一人の人間が生まれることも、一重に存在を超え出ていこうとする「一なるもの」からの切断力の現れでもあるのだ。
ドゥルーズを持ち出すまでもなく、おそらく、今、世界に必要なのは、それそのものにおける差異である。「1」という存在に閉じ込められた世界に「2」を到来させなくてはならない。そして、そのときに初めて、わたしはほんとうのわたしとなってとほんとうのあなたを世界の中に迎え入れることができるのだ。
そのとき、ロゴスとしての男ありき、プシュケーとしての女ありき、そして新しい生命としてのヌースありき、と考えた古代のグノーシス者たちの存在世界に対するイメージをわたしたちは真に理解するに違いない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: グノーシス, ドゥルーズ, ハイデガー, プラトン, ロゴス