4月 12 2016
最近のツイッターのまとめ
ヌーソロジーの哲学について思いつくままそのイメージを書いています。長文になってしまいますが、興味のある方は是非チェックを。
・思想が何を言おうと、科学主義に対抗することのできる思想は現状として何一つない。科学主義に対抗し、それを凌駕するためには科学主義のオカマを掘るしか方法はない。物質の裏を取るのだ。そして、そこで一発、十字四方固めをかけてやれ。それで決着はつく。空間の幅(実軸)と奥行き(虚軸)への分化とはそのような意味を持つ。
内に巻き込まれた差異(持続)は内の内において外へと繰り広げられている。そして、この繰り広げの様態としてあるのが外的時間と考えてよい。その意味で、時間の本来性とはわたしたちの内なる共同性と言ってよいものだ。しかし、私たちはこの内から外へ至るルートを忘却してしまったどころか、その忘却さえも忘却している。
この忘却の忘却は、今は「死」と呼ばれている。そして、この「死」を見ないようにすることで、忘却の記憶を取り戻そうとする意思さえ失ってしまっている。しかし、この諦めが自己と他者の倫理的関係をその根底から切断しているということにわたしたちはそろそろ気づくべきだ。
・自己と他者の距離は光=知覚と言語=言表の距離に等しい。この距離をイメージすればすぐに分かることだが、光と言語の間には物質が割って入っている。物質は光によって自己側で露わになり、言葉によって他者側と共有されるが、物質自体は光にも言葉にもその秘密を開いてはいない。
「自己と他者の間に創造の秘密が隠されている」とは、こういう事情による。この秘密を解く思考が「外部から内部へ、そして内部から外部へ」というドゥルーズがいうところの「襞の思考」なのである。この襞の中を流れている力の交通路を開かなくてはならない。
・空間自身の中に自らの精神を直観することによって、わたしたちは正しく内在性というものについて語ることができる。空間を外界と見なす意識が内在と感じているものは内在性への欲動であって、感情も思考もこの欲動が生み出しているものであり、それらはすべて幻想的内在と言っていいものである。
「空間自身の中に自らの精神を直観する」とは、空間を持続の海に見立てるということだ。つまり、幻想的内在を乗り越えるためにはその供給者である外在としての空間を消し去ることが絶対条件となる。それによって内在は意識に内在することを止め、逆に意識を自らの内に内在させるようになってくる。
空間を満たしている無限数の渦流に注意を払おう。素粒子の渦、原子の渦、DNAの渦、有機組織の渦、自然界の渦、太陽系の渦、星雲の渦etc。空間はその内在運動の無限性に向けて常に減圧を行っている。君が自身の生の感覚を感じ取れているのもその減圧があるからこそだ。
これらの渦流を外から眺めるのではなく、君自身が空間となりその減圧の流れの中に同化していくことが必要だ。水門は奥行きの名のもとにすでに開いている。そこではスピノザのいう第三種の認識における無限速度がすでに達成されており、諸々の幻想的内在はいずれこの風圧で吹き飛ばされていくことになるだろう。
この減圧の旋風に乗って、思考のイメージを根底から変えていくこと。持続体そのものに思考の力能を与え、レディメイドの思考を一切破棄していくこと。無限小世界から生命のトルネードを革命の狼煙のように随所で発生させていくこと。
・世界が物質の多重な地層から成り立っているように、精神もまた精神の幾重もの地層から成り立っている。伝統的な霊知がエーテルやアストラルと呼ぶものはそのような精神の履歴を表現する言葉だ。この履歴は時間の中に垂直的に分け入ることのできる思考にしか感知することはできない。
人生が常に一つの現在の中でしか進行していない現実を知るなら、この現在出現以前の絶対的な過去というようなものがあったであろうし、同様に、この現在の消滅の後に時間を超えた未来が到来したとしても理不尽な話ではない。意識を主体で閉ざす近代的クセがほんとうの過去や未来を見えなくさせている。
主体にしか感じ取れなくなってしまったこの生ける現在とは水平軸に溶け出してきている精神の液状化現象のようなものだ。そこでは何一つ確かなものは掴むことはできず、すべてが熱となって蒸発していくだけにすぎない。事実、科学は人間の死をそのような無への回帰として考えているのではないか。
宇宙の垂直軸は垂直軸を意思する者の目の前にしか現れることはない。空間にただ浮遊するように生きるのではなく、空間に自らの記憶を流し込むように生きることが重要だ。物を見るときも、言葉を語るときも。垂直的なものはそうした行為にのみ反応し、君にその内部を開いてくるのだ。
君の中心に内在する孤独を愛すること。その孤独だけが大いなる結合の希望となるものであって、それを忘れてしまえば、世界は一気に衆の心で覆われ腐臭を漂わせる。奥行きは孤独であることの正当性を証言できる唯一の証人であって、同時にそれは魂の現実を守護をするための命綱のようなものである。
自我は個体ではない。自我とは衆が産み付ける衆の卵にすぎない。衆の中では宇宙的関係は決して生まれてこない。君の中に住む自我と個体を見分ける視力を身につけることが必要だ。自我は偽の連帯を好むが、個体はこれを嫌う。誰もが二つの類型の最中に投げ込まれている。それをまずは自覚すること。
「わたし」の中を貫く〈自我-個体〉という二つの対立軸。こうした抽象化の軸が〈幅-奥行き〉という知覚的な二軸に重なり合っていることに私たちはもっと意識的になるべきだ。そこにおいて思考は真に関係性を観るものとなり、その中を流れ、物質も精神ももはや対象であることを止める。
4月 22 2016
ドゥルーズ以外の哲学者の本を読むのは久々
現在、哲学界で話題になっている本、メイヤスーの『有限性の後で』をとりあえず読了。哲学のテクニカルタームが頻出してちょっと読みにくかったが、論旨はどうにか追えた。Amazonでポチッたのは失敗だったとまでは言わないが、果たしてこの本が巷で騒がれているほど価値のある本かというと「 ………? 」。
ただ、メイヤスーらが展開し始めているこの思弁的実在論とやらが、哲学界に物質に対する思考の再開を迫る契機になるのであれば、それなりに評価されていい本なのかもしれない。
メイヤスーの論旨はとてもシンプルなものだ。一言でいうなら、超越論的なものと科学的なものの折り合いをどうつけるか、ということなのだろう。カント以降、哲学は一つの超越論的なものの準拠枠に則って思考を進めてきた。
つまり、世界がこのようにあるということは人間の意識とともにこのようにあるのであって、人間の意識を除外したところにある世界=もの自体については、思考は何も言えない。「語りえぬものの前においては沈黙せよ」というヴィトゲンの物言いもまた、この理性の権利の使用の限定を意味するものだった。
メイヤスーはカント以降の哲学が持ったこうした思考の在り方を相関主義という言葉で括って、この相関主義の縛りを解いて相関主義の外部にある「物自体」の方向への思考の可能性を論理的に示唆していく。そのトリガーとなってくるのが科学的世界観による数理で語られているところの「物自体」の世界だ。
この世界の有り様を、外部の何ものかによって必然化することはできない。相関主義はそれを固く禁止している。しかし、科学主義はそれこそ人間が存在する以前の世界のみならず、人間がいなくなった後の世界についても、平気で論を立てるし、現代の常識人たちはまたそれが正しいものだとも考えている。
「語れないもの」=「絶対的なもの」を超越的に語る信仰主義と事実的に語る科学主義。相関主義はこの両者の間に立って、人間の思考がそのどちらの極に走るのも禁じているわけだが、どちらを相手にするにせよ、相関主義の口からは絶対的なものの世界が存在しないと断言することはできない。
言い換えれば、哲学は宗教と科学それぞれに語る「物自体」の世界の在り方をうやむやにしてきたとも言えるわけだ。しかし、時代の要請がこのオブスキュアな状況を打破することを哲学者たちの無意識に要請してきているのだろう。
哲学に内在するこうした「有限性」の檻を何とか越えていくために、哲学自体がこの種の絶対性の厳密な規定をどのように考えればよいか――これがメイヤスーの問題提起だと言っていい。
メイヤスーの指摘で個人的に一番面白かったのは、「相関性こそが真の唯一なる即自的なものである」と仄めかした部分だ。ひょっとすると、超越論的なものこそが「もの」自体である、ということを言いたかったのかもしれない。
ここから一気にドゥルーズの物質論と接続していくのではないかと期待を持って読み進めたのだが、ドゥルーズに関しては途中、一種の生気論として「相関主義」の中に放り込まれてあっさり終了。え~!!嘘だろ、という感じ。
とにかく、この本が何でこんなに話題になっているのかよく分からない、というのが正直な感想である。
あえて言わせてもらうなら、「相関性こそが真の唯一なる即自的なものである」という部分にもっと切り込んでいくと面白いのになぁ~。
科学が提示する数理的な「物自体」と、宗教が提示する超越性としての「物自体」を接続する思考は、相関性を「物自体」の基底として思考していく以外に道はないと思うのだけどね。
それが、ヌーソロジーがいつも「素粒子とは超越論的無意識の構成だ」と言ってることの真意なんだけど。。ぶつぶつ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ドゥルーズ, メイヤスー