3月 20 2008
時間と別れるための50の方法(1)
50 Ways To Leave Your Time
The problem is all inside your head
She said to me
The answer is easy if you
Take it logically
I’d like to help you in your struggle
To be free
There must be fifty ways
To leave your time
問題はあなたの頭の中にあるの
彼女が僕にいう
論理的に考えれば
答えは簡単なのよ
もがき苦しんでいるあなたを
わたしは助けてあげたいの
時間と別れる方法には
50の方法があるのよ
時間とは何か――この問題は古来より多くの哲学者たちの頭を悩ませ続けてきた問題です。現代人は基本的に社会化された意識に浸っている状況が多いので、時間概念も主に時計で計測される時間を時間だと思いがちです。この「時計の時間」のイメージは、客観的な外部世界に空間の3次元とは別に時間というもう一つの次元があって、それが過去から未来に向かって直線的に流れている、といったような感覚で捉えられているもののことです。こうした空間に類似した直線的な時間概念からすれば、時間は空間とともに「わたし」とは無関係に外部世界に存在する何ものかであり、こうした時間概念はニュートンの絶対空間と絶対時間という概念に酷似したものだと言えます。
しかし、このような時間概念が覆される事件が20世紀の始めに当の物理学の中で起こりました。アインシュタインの相対性理論(特殊)の登場です。相対論によれば、空間と時間はもはや別々の存在の様態として考えることはできず、「時空」という時間と空間が渾然一体となった4次元の連続体だとされます。よく空間3次元+時間1次元で4次元時空であるという言い方がされますが、正確には時空4次元であって、時間という独立した次元が空間とは別に存在しているわけではありません。空間には必ず時間がセットとしてとけ込んでいるというのが、この「時空」という概念の特質です。空間的隔たりがあれば、そこには同時に時間的隔たりも存在している、ということですね。ですから、僕らが居住していると言われている空間は時間無しには存在することはできません。
この4次元時空連続体で絶対的な指標とされるのが光速度です。光速度は一般に約30万km/秒とされていますが、これは『シリウス革命』でも書いたように、実のところ「速度」という概念に収まるような代物ではありません。アインシュタイン自身も特殊相対論を著した『運動する物体の電気力学について(1905)』という最初の論文で、「光速度は将来、われわれの物理学においては無限大の速度の役割を演じることになろう」と明記しています。つまり、物理学の体系において、秒速30万kmとは無限大の速度のことを意味するのです。はて、無限大の速度って一体何のことなのでしょう。。。このことは端的に言えば、光速度とは普通に考えられているような速度ではない、と言っているも同然です。
この光速度が持つ無限大の性格によって、光速度状態になれば、どのような距離も一瞬で行くことができるとされます。たとえば、100万光年先にあると言われているアンドロメダ銀河に行くのに光速度の航行能力を持つロケットで行くことができるならば、その乗組員は一瞬でアンドロメダ銀河に到着してしまいます。なぜなら、皆さんもよくご存知のように光速度では時間は停止してしまうからです。しかし、地球上に残された乗組員の家族にとってはそのロケットがアンドロメダ星雲に到着する頃には実に100万年の年月が経過していることになります。。。う〜む。ほんまかいな。。まあ、一般向けの相対論の解説書には必ず出てくる話ですが、何とも変な話ですね。しかし、相対論の帰結はこのような不条理な出来事を許容します。
こうした時-空概念を通して宇宙空間の広がりを考察した場合、地球から100万光年彼方に見えている球面上の世界はその実100万年前の姿だということになってしまいます。マクロ空間の広がりの認識には星でも星雲でもいいのですが、何らかのモノが必要で、そのモノの存在の情報は光によって運ばれてくるので、当然、地球上で「今」という現時刻に見えている星は、地球という場所に現時刻にたどり着いた星から放たれた光であり、その光は実は、百万年という時間を経てようやくこの地球にたどり着いたのだ、という考え方をするわけです。ここに光による空間の観察という問題が紛れ込んできていることが分かります。そして、こうした時-空に対する思考の前提には、光が空間中を物体のように進んで行く、という暗黙の描像があることが分かります。空間中を光速度突っ走る光線のイメージです。
左側に懐中電灯を置いて、右側に白いスクリーンを置く。懐中電灯のスイッチを入れた瞬間に電球のフィラメントから光子が飛び出し、数メートル離れたところにあるスクリーン上に照射される。原子時計を組み込んだ正確な計測機器で、このスイッチの「入」と光子のスクリーンへの到達の時間間隔を計ったら、0,000……1秒だった。ってな具合です。
さて、この考え方、何かが変です。ここでも「幅」が文字通り幅を利かせています。純粋に物理的な世界が存在して、「あそこ」から「あそこ」までという幅の間を光が秒速30万kmで進んでいることは、その計測されている側の系の中においては確かなことかもしれません。しかし、ここで気になるのは、光速度で突っ走っている光自体の無時間的な世界の方です。これって一体何を意味しているのでしょうか。この無時間的な世界は物理学的には次のような式で表される4次元不変距離という言い方で説明されます。
ds^2 = dx^2 + dy^2 + dz^2 – c^2dt^2 ds^2 = 0
この式は光自身にとってはいかなる距離も意味がない、ということを示すものです。相対論はもともと運動の相対性原理と光速度不変の原理という二つの原理のみから導き出された理論です。その中でこの光速度の不変性の方は二つの系の相対的な運動を比較している不動の絶対的系としての役割を果たしています。しかし、物理をやっている人たちはこの「不動の系」としての光速度の不変性の意味を深く追求しようとはしません。光速度不変が前提となって時空が存在しているにもかかわらずです。なぜなんでしょ?不思議だ。光速度と時空の関係には、『シリ革』にも書いたことですが、ヌース理論の入り口(内面認識から外面認識に切り替わるところの境界)における重要な意味が含まれているので、もう一度ここで書いておきますね。
時空の中を光が光速度で運動している、という現在の一般的な描像は本末転倒している。むしろ、最初に光速度ありきと考えるべきである。時間や空間の延長概念はすべてそこからの派生物である(ヌース理論の言葉で言えば、本来、存在は人間の外面領域が先手となっているということ)。
さて、以上のことを念頭において、光が空間中を進むという描像について、もう一度じっくりと考えていってみましょう。
「左にある「あそこ」から右にある「あそこ」まで光が進んだ。」
「博士、それは、ほんとうですか?」
「ほんとうだ。」
「その根拠は何ですか?」
「根拠も何も、オレが今見たからだ。」
「ははぁ、なるほど、博士が事実としてそれを見たから「光は進んだ」と言い切れるわけですね。」
「そうだ。観測者としてのオレがちゃんと機器を使って検証したからだ。」
「ということは、観測者としての博士がもし存在していなければ、右から左へ光が光速度で進んでいるということは確かめようがないということですね。」
ここでも、『人神』に書いた客観線と主観線の問題が曖昧に扱われていることが分るのではないでしょうか。ニュートン物理学というのは観測者という存在が一切問題にされることのない、いわば無人世界の物理学でした。世界を見ている「わたし」とは何の関係もなしに世界は絶対空間と絶対時間をその背景に持って存在し、人間がいようがいまいがそんなことはおかまいなしに、宇宙は刻一刻と時を刻みながら空間の3次元的広がりとして存在している——そういった単純な場所で展開されている物体の運動を扱う物理学でした。これは哲学的に言えば素朴実在論の世界です。しかし、アインシュタインが登場して来て物理学が扱う空間と時間のニュアンスが少し変わってきました(ここで「少し」と言っているのは、物理学内部では激変と称していい変化なのでしょうが、時空に対する概念の枠組みは素朴実在論の域を出ていないからです)。なぜなら、「物理学」とは言うものの、そこに「観測者」という「意識ある存在」が紛れ込んできたからです。
このことから、一つの単純な直観的推理が生まれてきます。ひょっとして4次元時空という概念においては「観測者」という存在が重要な鍵を握っているのではないか、ということです。——何らかの事象の観測。いつ、どこで、その事件は起こったのかという記述。目撃者がいなければいかなる事象も発覚することはない。観測者なしには時空は存在し得ないのではないか。では、その時空の目撃者である「観測者」とは一体どのようなかたちで事象に関わっているのか――それは読んで字のごとく、世界で生起している事象全般を見つめている者のことであり、それを測するもののことです。そして、ここで最も重大な問題は、この見つめることや、測することもまた一つの事象であり、それは必ずや光によって為されているということなのです。。。――つづく
3月 22 2008
時間と別れるための50の方法(3)
●アルケー、十字架、イエス・キリスト
ルシファーとしての光は左右方向に横切る光。それは秒速30万Kmとしての光。
ルシフェルとしての光は奥行き方向に存在する光。それもまた秒速30万Kmとしての光。
これら二つの光の違いとは一体何か——。
奥行き、つまり身体にとっての「前」という方向性は左-右でも上-下でもない何か特別な方向性です。僕らの見るという行為はこの「前」という方向性においてしか成立することはありません。現象とは「前」で光として開示している何ものかです。ハイデガーという哲学者は『存在と時間』という著書の中で、「現象」を「自らをそれ自身に則して示すもの」として規定し、存在を現象にもたらすことを現象学の根本課題と見なしていました。存在は、あらゆるものが現出してくるその根拠として先行的に了解されているという意味では、最も自明であり、最も現象の名にふさわしいものですが、「わたし」という自我が出来上がったのちの認識される世界においては、現象は姿を隠し、それは匿名的に機能し隠蔽されてしまいます。時空という名において捉えられる「前」と、それ以前にある「前」とは、その意味で全く違うものとして考える必要があるわけです。
奥行きに左右と同じ幅という概念を与えることによって長さを持たせることは、現象そのものを見えなくさせてしまいます。現象とはいかなる判断をも与えられる以前の裸形の「前」のことであり、この純粋知覚としての現象は視野空間上でペタンと面に潰され、薄い皮膜(アンフラマンス)のようなものとして存在させられています。前回、奥行き方向とは時空の方向であり、そこには空間的距離とともに時間の経過も含まれていると言いました。とすれば、奥行き方向が一点で同一視されているというこの知覚的現実は、そこにすべての時間的経過をも内包している、ということになります。「わたし」がこの世に生を受けたのがたとえ50年前だとしても、この純粋知覚の中に含まれている奥行きという空間の深みの中には137億年という宇宙開闢以来の時間の流れが一緒に畳み込まれているということです。つまり、奥行き方向に存在する光においては、「今、ここ」と宇宙の始源の場所とは同じものとして考える必要があるわけです。僕がいつも「始源(アルケー)」と呼んでいるのはこの薄い皮膜、存在の皮膚としての光のことを言います。
アルケー=光。この覚知に至ることがヌース理論でいう「人間の外面の位置の顕在化」です。今まで人間の意識の営みの中で隠蔽されていたほんとうの主体が姿を現すのです。この奥行きにおいての無限小の厚みの中に、今という永遠が存在している。そして、そこが「わたし」という存在の根本的なプラットフォームになっている。現存在としての人間が位置する場所にはこのような永遠が常にセットになって張りついています。これをクリスチャンならば「我、神とともにここに居ます」と表現することでしょうし、哲学者であれば「不動の大地」と呼ぶことでしょう。こうした思考のもとにおいてのみ、何故に相対論において光速度が絶対的な役割を果たしているのかが分かってきます。物理学が解釈を放棄している4次元不変距離(ds^2 = dx^2 + dy^2 + dz^2 – c^2dt^2 ds^2 = 0)の本質的な意味が見えてくるわけです。
目の前で無限小の厚みにまで潰された時空。これが現象の基底としての光の正体であり、その光が持つ速度のもとでは時計の針は止まり、空間は無限小の長さにまでに縮まり、4元ベクトルゼロが出現してきます。つまり、何が言いたいのかというと、一点同一視された奥行き方向としてのこの4次元こそが、アインシュタインが言うところの「無限大の速度としての役割を演じている光」そのものの意味だということです。そして、この永遠が張りついた場所こそが時間の流れ自体を感じ取っているほんとうの主体の位置にほかなりません。要は、ほんとうの主体とは見ているものでも、見られているものでもなく、見ることそのもの、つまり、光だということなのです。このことに人間の意識が気づいたとき、すべての人間は創造の開始者、つまり、アルケーとしてのイエス・キリストへと変身することが可能になります。
コ : 見ること自体が「真の主体」なのではないですか?
オ : はいそうです。有機体(カタチのない精神)が最初のカタチを持ったということです。
永遠の相のもとに現れる形。これがOCOTが「カタチ」と呼ぶ、形本来の形のことです。このことは、幾何学とは本来、永遠という場所性の中においてしか意味を持ち得ないということを物語っています。時空の中でカタチを構成するのは原理的に不可能です。たとえば、僕らが地球と月を結ぶ38万kmの長さの線分をイメージするとしたらどうでしょう。たとえその線分を光速度で追いかけたとしても、時空の中では1.3秒ほどの時間かかってしまうことになります。しかし、実際の意識を確かめてみれば分かる通り、月までの距離を想像するのに時間は必要としません。カタチはその大きさがどのようなものであれ、一瞬で即時に把握されている何かです。また、一瞬で把握されなければカタチという概念自体が意味を持たないものになってしまうことでしょう。正4面体を構成する4つの頂点を認識するとき、それぞれの点の把握にタイムラグがあれば、正四面体というカタチについて何も言えなくなります。ほんとうの主体とは永遠性のことであり、この無時間の主体の位置の連携によって初めて幾何学というものが構成されてくるのです。
オ : 人間の意識はカタチを見る方向に入っています。わたしたちのいうカタチとは見られるものではなく、見ているもののことなのです。
目の前に表れた視野空間上にx軸とy軸の十字架をそっと置くこと。そして、そこで磔刑に処されている光の意味について考えること。さらに言うならば、そこに垂直にイメージ化されている3次元目のz方向の意図について深く思考すること。このz方向としての幅と同一化してしまった空間的奥行きとは、光の身体であるイエスの脇腹に刺されたロンギヌスの槍のことであり、人間の意識をシリウスに接続させることを妨げている深淵のことなのです。この深淵の支配者が時間であり、人間という次元の本性です。
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 9 • Tags: ハイデガー, 内面と外面