9月 12 2008
時間と別れるための50の方法(35)
●男になるか、女になるか
街を歩き回る。部屋の中をうろつき回る。野原を駆け回る。「わたし」は毎日の生活の中で何とも忙しなくあちこち動き回っています。しかし、本当のところ、それは他人の目から「わたし」を見た場合に言える言い方であって、素直に「わたし」自身の位置から世界から眺めてみれば、動き回っているのは「わたし」ではなく、モノや世界の方だということが分ります。このように主観的な空間では、「外在」と呼ばれる世界はあたかも映画のスクリーンに映し出された像のようなものとなり、「わたし=内在」と呼んでいるものの方はそのスクリーンの方に対応してくるわけです。アドバンスト・エディションにも書きましたが、こうした微動だにしていないスクリーンとしての「不動のわたし」を明確に感覚化したいならば、一本の鉛筆を用意するといいでしょう。4次元を見るための立方体鉛筆ならぬ眉間鉛筆。鉛筆を視線の方向に沿って眉間に立て、そのまま部屋の中を直進したり、蛇行したり、回転したりと、いろいろと動き回ってみるのです(下図1参照)。
そのとき、視野空間には鉛筆と室内の風景が映し出されます。鉛筆の背景となっている室内風景は次々とその見えを変化させていきますが、鉛筆の方は眉間に固定されているので、周囲の風景の動きに対して常に不動を保つことになります。鉛筆が動いていないのであれば、眉間も動いてはおらず、眉間が動いていないのであれば、当然、身体も動いていはいない。つまり、「動いているのは世界の方であってわたしではない」という相対的な不動感覚が、この一本の鉛筆の見えによって認識に強調されてくるわけです。結果的に言えば、このときの鉛筆が次元観察子ψ5に相当してくることになります。ψ5は次元観察子のψ3~ψ4(モノから広がる空間)、ψ3はψ1~ψ2(モノの内部の空間)をその部分として含んでいますから、結局、ψ5はψ1~ψ4までの全観察子を統合している観察子ということになります。これは平たくいえば、主観的な身体感覚における「前」そのものに対応しています。「アドバンスト・エディション」にも書いたように、人間、モノのどの部分を見ようと、何を見ようと、どこを向こうと、どこへ赴こうと、「前」であることには変わりはないということです。
客観的空間の中においてはそれこそ身体における「前」方向は、3次元空間の任意の一つの方向と何ら変わるものではありませんが、主観的空間の中においては客観的空間に想定されたあらゆる座標からの広がりをすべて一本の線の中に束ねることのできる能力を持った方向でもあるのです。そして、言うまでもなく、この一本の線分は奥行きが無限小の長さに潰された線分になっていますから、あのベルクソンのいう「持続」をすべて含み持った場所と考えなければなりません。ヌースが次元観察子ψ5を自己を作るための容器と考えるのはそのような理由からです。「後」だって手で触れば現実として知覚できるじゃないか、という人もいるでしょうが、それは観察子でいうとψ1~2の領域(触覚空間)に当たります。ですから「後」ではないとも言えます。視覚的意味での「後」には以前もいったように、対象の背景空間も知覚されなくてはならず、そういう知覚は他者の領域であって決して「わたし」には存在してはいません。
では、ψ5の反映である、このψ6=「後」方向とは何なのでしょう。次元観察子ψ3~ψ4の解説のところでも説明したように、主観が「後」方向を意識するということは、対峙している他者の前方向を主観が想像的に意識に取り込むことと同じ意味を持っているのが分ります。つまり、鏡像空間を覗き込んでいるということですね。その意味で、主観が「わたし」の顔面を意識する際には、その意識の矢は必ずわたしの背面方向に向いており、さらにそこから顔面自体のx、y、z軸での回転を想像してしまうと、背面側にも見えない想像的な3次元空間が広がりを持ってくることになります。ここで、皆さんの空間感覚を確認してみて下さい。背中の後に広大な空間が広がっているという感覚があるのではないでしょうか。それです。そして、そこで自分の身体の回転を想像してみて下さい。そうすると、今度は前側にもその想像的な広がりの感覚が出てきてしまいます。どうも僕らはそうした「後」の集合を時空と呼んでいるのではないかということです。宇宙空間や星々の世界を遠い遠い場所としてイメージしている意識もこうした「後ろ向き」の意識が「前」に重なり合うことによって作り出されているのではないかと思います。こうして「前」が作る「ほんとうのわたし(真の主体)」という場所と、「後」が作る「わたし」を包み込んだ広大な空間という場所とが、人間の意識を働かせていくための最も基本的な「人間の条件」として意識に設定されてくるというわけです。
ユダヤ教のミドラーシュには光を意味する「OR」が皮膚の意味に変わったとき、宇宙に原初的なジェンダーの分化が起り、女性という存在が生まれてきたと説いています。知覚球体がもし光速度の皮膜で覆われているとすれば、まさに「前」という膜で閉じられた次元観察子ψ5という球空間は光の皮膚と呼んでもいいものになります。そして、この皮膚において、触ること(ψ1)や見ること(ψ3)、聴くこと(ψ5?)という僕らが知覚と呼んでいる出来事が起こっている。。。もちろん、ここでいう知覚とはベルクソンのいうイマージュを含んだ知覚のことです。とすれば、知覚とは、外部の対象を捉える能力というよりは、むしろ身体の内部空間を形成していくための機能と言い換えた方がよいのかもしれません。当然、そのときの外部とは次元観察子ψ6に相当する空間であって、この空間は知覚不可能な場所なわけですから、ただ人間が持った想像力の中で3次元という概念だけが彷徨っているような闇の世界となります。ψ5を先手に取って世界を見るか、ψ6を先手に取って世界を見るか――ミドラーシュが説く通り、「位置の等化」と「位置の中和」というヌース的な意味でのジェンダーの最初の分裂もここで起こります。5を取るか、6を取るか、女なるものに変身するか、男なるもののままでいるか、それがこれからの21世紀的な問題なのです。
つづく
10月 12 2008
時間と別れるための50の方法(43)
●ψ*6上でψ5はどのように見えるのか――位置の等化の風景
わたしが自分の周囲に広大な空間の広がりを意識しているとき、その広がり自体が人間の内面*としてのψ*6になっているということを前々回にお話しました。このとき実際に見えている人間の外面としての知覚球体=ψ5自体は、何度も言うように奥行きが同一視されることによって超ミクロの微小領域の中に3次元球面として丸められており、ψ*6が意味する時空の原点Oに貼り付いたようにして入り込んでいます。
このように、次元観察子という概念を通して見ると、僕らが普段「わたしを中心とする空間の広がり」と何気に称している空間は「わたし」を規定するψ5と、「わたし」からの広がりを規定するψ*6が二重に重なり合うことによって成り立っていることが分かってきます。ヌーソロジーの考え方からすれば、前者は哲学者たちが実存(知覚の場所)と呼んでいるもの、後者は科学者たちが実存(物質の場所)と呼んでいるものにとても似ていると言えます。
また、このような空間の二重性を前提におくことによって、「現時刻」という瞬間性の中にすべての時間が集約された形で現象化している人間の意識の在り方をうまく説明することができるようになります。つまり、周囲の空間を時空=ψ*6として捉えているときには、その中心点では刻一刻と時間が刻まれ、毎瞬、毎瞬という点時刻があたかも車窓から見る風景のようにあっと言う間に過去へと流れ去って行き、その反対に周囲の空間を自分自身=ψ5として捉えたときは、そこでは過去、現在、未来へと至る時間はすべてその知覚球体の直径の中に4次元空間として凝縮されおり、そこには、永遠の現在が現れるというからくりになっているわけです。人間の意識において、瞬間と持続が「今」という現象において重なり合い、想起や直感がつねに「現在」として起こるのも、人間という存在が4次元時空と4次元空間が持つこのような二重性の接点として存在させられているからでしょう。
さて、時空*=ψ*6の原点にこうして知覚球面=ψ5が貼り付いているとするならば、僕らが時空として世界を眺望したとき、周囲の風景のいたるところに知覚球面が張り付いていても不思議ではありません。原点とは単に便宜上定められたものであって、時空上のどの位置であろうが原点となり得るからです。たとえば、3日前のこの同じ時刻にもわたしはこの椅子に座っていたとします。その時間を原点と考えれば「いつでも今」としての知覚球体はその3日前に移動していることになります。このときは文字通り主体が三日前にタイムトラベルを行っているわけです。物理的に言えば、当然、そのときの光は3光日(光速度で進んで3日かかる距離)の彼方に飛び去っていることでしょうが、奥行き方向はψ5においては常に同一視されているわけですから、知覚球体自体は時間の経過に対して何の影響も受けません。
では、空間的な移動の方はどうでしょうか。あそこに見えるビルの屋上を時空の原点としよう、と思えば、そこに「どこでもここ」の知覚球体は一瞬にして移動することが可能です。もっとも、このときは時間の移動とは違って、3次元球面として表された知覚球体内部では、原点の空間的移動(x,y,z方向への並進運動)に伴って3次元球面上でそれぞれの3方向への回転が起こることになります。しかし、知覚球体自体としての3次元球面自体はやはり全く同一のものです。
つまり何が言いたいのかと言うと、知覚球体(3次元球面とその自転軸)としての「自己=ψ5」が「いつでも今、どこでもここ」としての存在ならば、時空認識の中ではあらゆるところに偏在することができるということです。となれば、時空上のすべての点は客体であると同時に主体と呼んでいいものになります。このことは、「真の主体は客体の中に息づいている」というベルクソンの達観の幾何学的説明に相当していますが、こうした「遍くわたし」の様子を『人神/アドバンストエディション』では空海の言葉を借用して「即身」と表現しました。
重々にして帝網のごとくなるを即身と名づく――空海が『即身成仏義』で著したこの言葉は華厳経に登場するパールネットワークのイメージを彷彿とさせます。重々帝網とは、いかなる部分にも全体が映り込み、無際限にその像が反射し合っているような状態のことを言います。今風に言えばホログラフィーやフラクタルのイメージです。即身成仏というと、物質概念にまみれた僕らはすぐに即身仏を連想して、お寺の中でミイラ化しているお坊さんを連想しますが、空海が説いた意味は全く違います。もともとサンスクリッド語での「成仏(アビサンボーディ)」という言葉は「仏に成る」ということではなく、「仏である」ことの意で、仏であることとは「現等覚(げんとうかく)」のことであるとされています。現等覚とは読んで字のごとく「あらゆるものが等しいものとして見える」ということです。いわゆる差取り(悟り)ですね。まさに、重々帝網の風景とは、いつでも今、どこでもこことしての、即身成仏の姿そのものであるわけです。
ヌーソロジーではψ5が人間の意識に顕在化を起こした状態を「位置の等化」と言いますが、この状況はまさにこの空海が語った「即身成仏」の風景に酷似しています。主体の位置と客体の位置が同一のものに感じられてきたとき、世界はどのように見えなければならないか——それはまさしく空海が言うように、世界のあらゆるところに世界自身が重々帝網を為して映り込むということです。しかし、こうした描写だけではまだ自我の拠点たる時空概念を解体させるほどの意味の強度は生まれません。見るものは見られるものである、主体は客体の中にいる、これら過去の神秘家や哲学者たちの達観が人間の意識を変えるだけの力を持てなかったのも、その意味の強度に不足していたからだと言えるでしょう。問題はこうした達観をどのようにして僕らの現実的な知識に接続させていくかということなのです。——つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 6 • Tags: ベルクソン, 人類が神を見る日, 位置の等化, 内面と外面