7月 1 2014
今日は哲学の話です
GWは中世哲学の世界に浸っていた。坂部恵の『ヨーロッパ精神史入門』、山内志朗『普遍論争』、八木雄二『天使はなぜ堕落するのか』。この三冊でヨーロッパの中世の思想がどういうものであったか、そのアウトラインがおおよそ分かった感じがした。いずれも良書なので関心がある方は是非、読まれてみるといいです。
ヨーロッパの中世というのはキリスト教のせいでむっちゃ暗〜い時代だったかのように思われているのだけど、三冊の本を通読してみて、天使的思考が死滅した現代という時代の方がよほど暗い時代ではないのか、という想いがよぎった。
ここでいう天使的思考というのは存在の円環の思考のことと言ってもいい。神と人間の間には天使という媒介を通じて一つの反復がある、という存在論的思考のことだ。こうした思考は現代ではごく一部の哲学者の仕事の中にしか見られなくなった。代表的なラインはニーチェ→ハイデガー→ドゥルーズという系譜。哲学の言葉でいう「存在論的差異」をめぐる思考というやつだ。「存在論的差異」というこのいかめしい用語は、OCOT情報がいうところの「人間の外面の顕在化」に相当している。
存在論的差異。。とても難解な言葉に聞こえるかもしれないが、これは一言でいえば「あるもの」と「あること」の違いのことをいう。「あるもの」とは、たとえば「ここに茶碗がある、本がある、財布がある」というように、この世界に満ちあふれている多種多様な無数のモノのことをいう。一方で、これら無数のモノは「ある」という意味においては共通しており、つねに「ある」という一つの状態を指しているのがわかる。このように「ある」というかたちで一つに統一されている諸事物の状態のことを哲学者たちは「存在の一義性」と言ったりもする。
我はありてあるものなり(エフイェ アシェル エフイェ)——というユダヤの神名が示す通り、「あること」における一義性は一者としての神と言い換えてもいいような何かだ。一者なる神は存在(あること)のこの一義性として世界に出現しており、あるものたちの差異を多義性として従えている。つまり、あるものたちが持った様々な差異は、「ある=存在する」という同一性のもとに従属した差異でしかないということ。
では、この「あること」の一義的はいかにして「あるもの」の多義性をそのうちに含むようになったのか——これは神がいかにして世界を創造したのかという問い立てに等しいものだが、ニーチェ、ハイデガーの思考の系譜を持つドゥルーズの問題設定もここにある。
そこでドゥルーズは次のように考えるのだ。「ある」ということの同一性に従属しない差異がある。つまり「あること自体に対する差異」である。この差異について思考することが存在論的差異の思考というものだと考えていい。
この思考は存在そのものに対する差異を思考するのであるから、当然のことながら「あること=一者」から逃れる思考ということになる。そして、ドゥルーズはここに生まれてくる差異を「なること」、つまり、生成=創造として考える。ここはむちゃくちゃスリリングなところ。つまり、創造とは存在という同一性に従属する諸々の差異についての思考ではなく、存在そのものから逃れる差異を作り出すことによって初めて達成されるということだ。
ここには、ヌーソロジーと同じ「反転」のひらめきがある。存在とはあるものすべてをその内部に包括し、あるものすべての差異をその中に従属させているのであるから、いわばこの上なく最大のものだ。しかし、その最大としての存在に対する差異が、翻って今度は存在に従属する最も極小の差異となる——ドゥルーズが展開している差異の思考はそうした性格を持っている。
さて、存在に対する差異とは何だろう。ハイデガーはそれを僕たち人間の存在の在り方だと考えた。人間は確かに「あること」の範疇だ。しかし、「あること」はすべて人間を通して現れてくるものでもある。ということは、人間とは「あること」を半ば超え出ている存在とも言える。「あること」に対するこうした人間が持った差異をここでは「いること」と言い換えてもいいかもしれない。観察されるものは「あるものとしてある」が、観察する人間は「いるものとしている」のだ。このように「あるもの」とは差異を持った人間という存在の在り方をハイデガーは「現存在」と呼んでいる。「いるもの」はもはや単なる存在者ではなく存在の一部を為しているということだ。
現代人の世界観からすれば、さすが哲学者というのは深遠な考え方をするものだと思うかもしれない。しかし、このような考え方の基礎は実は中世哲学では半ば常識だったと言っていい。というのも、中世では人間の個体というものが天使の最低種と見なされていたからだ。神は宇宙を光の流出において生み出した。そして、その流出の流れの最下部に位置しているのが人間であり、人間はそこから光を再び上昇させ、神のもとに環帰する。人間は存在世界全体における光の反射板の役割を担っているのである。
こうした裏事情が見えてくると、ニーチェもハイデガーもドゥルーズも取り立てて難解には感じなくなる。「あること」からの離脱。それが人間が本来、存在する意味だということを彼らは確信して、それを哲学の使命だと考えているということだ。
「いること」が「あること」の勢力から逃れ、「あること」から離脱するとき、それは「なること」へと変身を果たす。そして「なること」の始まりは次なる「あること」の中においては最も微小となる「あるもの」として立ち現れてくることになる。何と美しい思考だろう。僕がOCOT情報の中に目撃した思考も、また彼らの思考と全く同じこのような「対称性の美」だった。
「なること」の思考は「あること」ではなく「いること」から始めなくてはならない。その思考が立ち上がる場が僕がいつも言っている「奥行き」であることは言うまでもない。奥行きは「いること」を保証している時空(あること)との差異であり、それは時空の内部においては最も微小な部分にあたかも「あるもの」のようにして息づいている。それが素粒子というものである。
巨大な差異の波が押し寄せてきている。反復不可能な反復の波が押し寄せてきている。OCOT情報はこのことを「まもなくオリオンが方向を回転させる」と表現していた。幅の世界の終わりのあとに奥行きの時代がやってくる。
4月 19 2016
ナルキッソスとエコーのスピンオフ
言葉を受け取るとそこにはイメージが浮かぶ。一方、イメージが浮かぶとそこには名付けの衝動が起こる。水星の少年と金星の少女の間に繰り広げられるエロス的関係がここにはある。この恋愛体は人が生きることの中でシーソーゲームのように延々と反復しているが、一体、二人は何を望んでいるのか?
言葉とイメージの反復を裏で操っているのは、言うまでもなくこの両者の間にあるズレだ。このズレは他者と自己の間にあるズレと言い換えてもいい。というのも、他者は言葉としてやって来るものだし、一方の自己はいつも知覚と共に居るからだ。
他者と自己の間にあるこのズレによって、水星の少年と金星の少女の間に生まれている恋愛体は時に抗争体ともなり、数え切れない喜怒哀楽を人間たちの中に送り出してきた。
このズレの正体とは一体何か?ということについて、現代の思想家たちの結論は概ね一つにまとまっている。それは、僕らが「意味」と呼んでいるものだ。でも「意味」って何だ?
意味について考え出すと一気につかみどころのない感覚に襲われる。意味を言葉で表現しようとしても、結局のところ、言葉の中をグルグルと堂々巡りするだけだ。
「意味の意味とは存在である」と言ったのは確かハイデガーだったか。これが正しいとすれば、存在は言葉とイメージの間に埋もれているということになる。同じく、他者と自己の間にも。
そこで、また象徴的思考が訴えかけてくるわけだ。水星の少年と金星の少女の間に身を潜めているものは二人の亡き父と母に当たるものに違いない。そして、それは地球と月だぞって。そして、おそらく、このときの地球と月とは精神と物質と言い換えてもよい。
水星の少年が月を見つけ、金星の少女が地球に戻るとき、意味は存在へと生まれ変わり、そこに太陽が顔を出すことだろう。
アバウトだが、水星の公転周期と月の公転周期の比は円周率π、金星の公転周期と地球の公転周期の比は黄金比Φ、という関係がある。
これは言語は物質に円周率として関わり、知覚は精神に黄金比として関わっているということを暗示している。
意味の内部には円周率と黄金比に満たされた存在のめくるめく無限がある。
この二つが共同しあって生み出すものが黄金螺旋なのだ。
取り留めのない書き込みで申し訳ない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: ハイデガー, 円周率, 黄金比