4月 27 2016
言葉でも象徴でもなく、星たちの幾何学へ
Φさんがツイッターで素粒子について易しく丁寧に話をしていた。
―素粒子はフェルミオンもボソンも断じて「粒」ではない―
まずはこの認識をしっかりと頭に入れることが必要だ。つまり、世界は粒の集まりでできているのではない、ということ。こうした既成の認識を解体して、世界について根底から考え直す必要があるということ。
ヌーソロジーの考え方からすれば、素粒子とは「自他の即自的状況」に他ならない。創造世界はその関係性が無限の発展性を持つところに生まれている。思考とモノの相関関係を決して閉ざしてはいけない。その外部に思考が侵入することは不可能ではない。なぜなら、世界がこうしてあるのだから。
素粒子の粒子性とは空間の幅化がもたらしている一種の幻想であるということにそろそろわたしたちは気づくべきだ。空間の本性は奥行きに息づく純粋持続体であり、この視座の転換は知覚の現場を一気に無限小領域へとワープさせ、それまでの自他を精神としての「自他の即自的状況」の場へと遷移させる。
ここには小難しい哲学的議論はいらない。空間が延長であるという思い込みを外すだけでいいのだ。そのとき、わたしたちはすべての権力機構が延長概念によって供給されていたことを知ることになるだろう。自他の即自的状況にはいかなる権力も存在しない。
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無限小へと降り立った知覚は対象を持たない。なぜなら、それは繰り広げられたものを表象ではなく、イマージュへと加工しているからだ。知覚はそこから襞を形成し、そのまま出来事の場へ捻られ、繰り広げの場を用意する母胎となる。
すべてが内内で、それこそ内密に事が進んでいるのだ。繰り広げが繰り広げの最中で知覚されたものが表出であり、そこではイマージュは再び表象となって姿を表す。そのとき、内に折り曲げられた襞の方は、表象=再現前化のシステムとして「潜在的に」働くのだ。
ライプニッツ=ドゥルーズが描くこの生成の襞なる生産機構は息を呑むほどに美しい。
この機構の明晰なる設計図が素粒子の群の構造と一致するならば、世界はそれ以上に美しい。この美的な完全性は果たして危険物として懐疑されるべき類のものであろうか。
確実に言えることは、やがて、否定と肯定という二つの思考の類型の間に激しい戦いが起こるであろうということ。そして、襞はその戦いの火花さえイマージュとして呑み込み、それを表現として繰り広げるであろうということ。たとえそれが破局的なものだとしても創造的なものだとしても、わたしたちにはその見分けがつかないだろう。
デジタルとナチュラルが混在する今の世界はまさに、その表現の場になろうとしているのではないか。
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以前、死においては主体は1本の線(アンリ・ミショー)となると書いた。この線は非局所としての線のことだ。物理学的にはスピノルに相当している。線の理念と言い換えてもいいだろう。その意味で幾何学を思考することは死の組織化を思考するということであり、そこに幾何学と霊との直裁的な結びつきがある。
つまり、カタチを知るということは、霊的なものの復活なのだ。
主体を一本の線ごときに還元することに抵抗を持つ人も多いだろう。しかし、その線が有機的に他の死者たちと結合し、そこに真の物質の風景が立ち上がり、尚且つその風景が人間の現実世界と深い繋がり持つということになれば、私たちは現在の生を数倍、いや数百倍、数万倍にも輝かせることができるのではないか。
超越論的なものの幾何学というものが存在している。それは決して複雑なものではない、プラトンが指し示したように―。
5月 6 2016
田邊元という哲学者
甲田氏から借りている田邊元の本。旧字体でなかなかとっつきにくかったのですが、時間ができたのでゆっくり読み進めています。方向性がベルクソン=ドゥルーズとそっくり。さらには数理的にはドゥルーズよりも深い思索をしていることに驚いてます。スピノルの解釈などもヌーソロジーと全く同じなのが二度びっくり。
田邊の思考の柱は内包的時空の世界弁証法というやつにある。この弁証法はヘーゲルのように同一性への綜合へと向かうのではなく、絶えず差異化を行っていく。つまり、外延においては部分が全体に先立ち統合へ向かおうとするが、内包においては全体が部分に先立ち、その限定として部分が思考されていくということ。
田邊の思考が内包的時空へと侵入した経路がまたすごい。たぶん西田からの影響だと思われるのだけど、そこにも「切断即連続」という彼なりの世界弁証法の思考が働いている。つまり、外延(実数直線)を切断しているのは内包だという考え方だ。分かりやすく言えば、直線をある点で切る無限小の刃幅のナイフとはどんなナイフなのかというと、それは実は直線全体を含んで内側へと入り込むものだといったようなイメージ。(ヌーソロジーのいう「コンパクト化」と似てる)
田邊は、外延と内包が接するこの交点を万物が交錯する絶対弁証法の蝶番のようなものと見なして、その位置のことを「現在(瞬間)に相当する矛盾の渦動的統一の中心」と呼んでる。そして、はっきりとは明言してはいないものの、その渦動的統一の中心を複素平面と見なそうとしていた様子もうかがえる。なんて人だ!!
今から半世紀以上も前に哲学と物理学をここまで接近させて思考していた哲学者が日本にいたということに心底驚く。字体を変えて復刊してほしい。ほんま読みづらくて(笑)
田邊を読んでいて改めて思ったが、まずは「内包」という概念を取り戻そう。霊やスピリットという表現でもいいのだけど、それだと似非宗教の手垢がつきすぎていて一般では拒絶する人も多い。「内包」や「持続」という表現であれば言葉は固いけれど、僕たちに創造の思考を促していくキーワードに成り得るのではないか。要は、物の内部と時間把持の場所概念というものを意識に再生させるのだ。
もちろん、それらを奥行きの空間と重ね合わせて。ここがヌーソロジーのキモ中のキモ^^。
田邊は複素2次元空間についても、それが絶対的弁証法成立のための基盤であるかのように語っている。嬉しくなるよね。もちろん、それが自己と他者における奥行きと幅の双対的構成とまでは語ってないけど(笑)
いずれにせよ、この二重の十字路が田邊がいうところの「矛盾の渦動的統一の中心」と言っていいと思うよ。存在の力はすべてこの捩れから発生してきている。要は物理学が「場」と呼んでいるやつだね。
物理学の「場」と聞くと、途端に難しく聞こえるかもしれないけど、本質はどんな人にでも分かるものだと僕なんかは思ってる。早い話、自他の純粋な奥行きと幅の関係がスピノル場だと思うよ。そして、自己、他者それぞれが自分の奥行きと幅を同一化させているところがベクトル場。ほんでもって、自他が奥行きと幅をそれぞれ交換し合っているところがスカラー場。スピノル、ベクトル、スカラーというのは物理量の基本とも呼べるものなのだけど、全部、眼差しの交差の産物なんだよね。どういう交差を持つかによって、それぞれ空間の質が違ってくる。
この対応から考えると、僕らが時空と呼んでいるものとは、自己と他者が共に自分の奥行きを他者から見た幅に置き換えて認識してしまっているところに生じてきている。何度も言ってるけど、それが外延世界の本性だよ。内包(=奥行き)から完全に疎外された場所。それを宇宙と呼んでいるなんてちょっと怖くならないかい。そこには自分の居場所なんて存在してないよ。
でもね、現在のほとんどの学問はそこを拠点にして作られているんだよね。内包として活動している自然生命がガタガタになるのは当たり前だよ。
田邊で物足りないのは、田邊がこの内包性の数理構造を社会理論に転化させて思考しているところかな。これは中沢さんなんかも同じ。いわゆる「種の論理」というやつなんだ。内包の発展から外延が生じるのだけど、これをいきなり今の社会に当てはめてしまうと、カントと同じように超越論的なものを経験に従属させてしまうことになっちゃう。ここがドゥルーズと大きく方向性を異にするところだね。田邊元のような人でも、創造的境域という発想がないんだね。晩年の西田が田邊のことをファシストと言って批判していたのも、このへんの思考性に原因があるのかも。
でも、正直、このへんは現在の哲学の限界なんだろうと思う。人間の思考が宇宙を再―創造する力があるなんてことを誰も信じていないだろうからね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: カント, スカラー, スピノル, ドゥルーズ, ベルクソン, 中沢新一, 弁証法, 田邊元, 複素2次元空間, 西田幾多郎