11月 18 2016
女の物質(エヴァ)と男の物質(リリト)
他者の前方向というのは、自己にとっては後ろ方向のようなもの。だから、皆んなが大地に立って地球を見るとき、皆んなの視線に合わせて自分が前に地球を見ちゃうと、それは後ろで地球を見ちゃうことに同じ。それは物質の地球。そんな地球なんてものは本当は存在しちゃいない。
自然科学が見ている地球というのはその意味では幻想と言っていいんじゃなかろうか。本当の前に見えている地球というのは物質じゃなくて精神体。この精神体と共に生きているのがほんとうの人間。僕らの肉体を作っているほんとうの人間。
人間が科学的に合成した人工的な物質と自然界にもとから存在する物質はその意味で存在している空間が全く逆のところにある。科学は後ろの目しか持たないからそのことに気づかない。女の物質(エヴァ)と男の物質(リリト-敢えてそう呼んでみる)の違いとはそういうもの。
女の物質はおそらく表面しか持っていない。形に色、味と香り。そして音色たち。しかし、女の物質の衣服を脱がしてその隠された裸体をどうしても見たいと思った男たちの欲望は物質を逆さまの目で覗いていく。そこで「どうしても見たいのなら、どうぞ」と奥へ奥へと誘惑しているのは髑髏だとも知らずに。
もちろん物質科学が全面的に悪だと主張する気はない。物質は本来、外部と内部から同時に見られるべきものだということだ。これからの科学が世界を豊穣なものとするか、それとも廃墟へと変えるかは、科学自身が物質というものが持つこの両極性を自覚できるかできないかに懸かっているように思う。
※下写真はhttps://s-media-cache-ak0.pinimg.comからお借りしました。
11月 21 2016
遥かなる円環の大地へ
「肉体の中に魂が閉じ込められている」というのがスピリチュアリティの常識だけど、これは逆だと思うな。本当は「魂の中に肉体が閉じ込められている」のではないか。そういう考え方をしないと、魂の解放はとても望めない。というのも、物質という観念を作り上げている力自体が魂だと思うから。
こういうことを最初に言ったのは確かニーチェだったと思う。あまり好きな表現じゃないけど、主人としての魂(今でいう無意識のこと)と奴隷としての肉体ってやつだね。身体を単なる肉体へと物質化させていったのは「魂」に他ならないということ。僕らが意識と呼んでいるものは、その意味で魂に飼いならされた意識でしかない。
物質意識というのはいつも言ってるように時間と空間と共に現れるのだろうから、時間と空間を作っているのも魂なんだと思うよ。ということは、身体を単に物質の塊とみなし機械同然に見立てたり、政治の道具として規律化させたりしているのも、また魂だということになる。
ニーチェの意思を継いだフーコーやドゥルーズが戦った相手も、自我の主人とも呼べるこの魂だった。この魂に退却してもらわない限り、人間は変わらない。OCOTのいう意識戦争とは、こうした内在における戦いのことを言うんだね。
だから、肉体からの解放を望むのではなく、魂からいかにして解放されるか、それを考えていかなくちゃならない。無意識を意識化する(顕在化)とはそういう意味。
シオリちゃんは「素粒子なんて存在してないの」と言ってたけど、素粒子が無意識構造だとするなら、魂という境界を打ち破った認識には確かに素粒子なんてものは見えないだろうね。憎しみの中に映し出されていた原子という存在は、そこでは霊としての元素へと変態を起こしている。
先日行った、男の物質と女の物質という対比もまた同じ。物質を内部から見ることができるようになった能動的諸力にとっては受動的諸力が受け取っている現象世界は自分たちが向かうべきゴールのように見えているはず。そこにほんとうの地球とほんとうの人間がいるんだね。その円環のイメージを再生させないと。
イメージだけでいいんだよ。イメージだけで。世界観をそのように反転させて生きること。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, もののケのしおり, ドゥルーズ, ニーチェ, フーコー, 素粒子, 顕在化