3月 29 2008
時間と別れるための50の方法(5)
●時空上のどこもアルケーだらけ
さて、このように見てくると、アドバンス・エディションをお読みになった方はもうお気づきのことと思いますが、ホーキング=ハートルの無境界仮説が説くアルケーと、ヌース理論が説くアルケーが幾何学的にほぼ同じ構造を持っていることが分ってきます。違うのは、虚時間宇宙に対する解釈の仕方だけです。無境界仮説では特異点レベルのミクロ空間に4次元時空が4次元球体と連結する通路があると考えるのに対し、ヌース理論は、身体の「前」をそのまま光速度状態と見なすことによって、そのミクロ空間へと一気にワープし、そこから光速度のカベの向こう側へと反転を挙行して虚時間宇宙への侵入を画策しているわけです。このことは、ヌース理論が人間という存在自体を実時間宇宙と虚時間宇宙の結節点、つまり「特異点」と見なしているということを意味します。
人間存在=特異点。こうした人間存在の在り方と合わせてこの時空の成り立ちを考えると、ホーキングが言う次のような言葉の意味も手に取るように分かってくるのではないでしょうか。
「もし、宇宙が神の摂理によって定められた場所だと信じるなら、こうした法則(無境界仮説)が、宇宙の始まりを含めて時空のあらゆる点で成り立つことを信じなければなりません。」
信じる信じないというより、これは当たり前ですね。これは単に人間存在が時空上のどの場所にでも位置できる自由度を持っている、ということを言っているわけです。「覚醒(人間の外面の顕在化)」が起これば、この特異点は「無境界」として乗り越えられるけれども、覚醒が起きなければ特異点は特異点として、生成空間との間に永遠にカベを作るように働くことになります。つまり、物理学のいう特異点とは「人間の内面」という次元を限界づけている仕切りだということです。僕がよく「人間は生成から疎外されている」「人間は宇宙の創造活動に何一つ寄与していない」「人間は神のうんこだ」「人間は出血している」と、半ば確信犯的に人間批判を繰り返しているのも、創造や生成がこの久遠の場所とも言える虚時間宇宙の中で為されていると考えているからです。もっとも、うんこをしなければ神も具合が悪くなるでしょうから、人間は神にとって必要不可欠な存在とも言えるわけですが。。今度の人神アドバンスト・エディションで約100ページにわたって付け加えた内容は、こうした虚時間宇宙に見えてくる最初の風景のスケッチだと思って下さい。
虚時間宇宙である4次元球体の表面は3次元球面というカタチになっていますが、現代物理学においては、この3次元球面というカタチはとても需要な役割を占めています。たとえば、電子や陽子、中性子などは、すべてこの3次元球面をベースとした幾何学構造体になっています。というのも、これらの粒子のスピンが生まれている空間のカタチはSU(2)(複素2次元特殊ユニタリー群)という群で表され、この群のカタチが3次元球面と同じものとされているからです。
前回、幾何学の形成は時空上では決して成立し得ないのではないかという話をしました。物理学は素粒子をスピン(角運動量)の大きさ等で分類しますが、このスピンという概念には当然、素粒子が何らかの回転をしているという暗黙の了解が含まれています(もちろんモノの回転のような回転ではありませんが)。しかし、それはあくまでも時空という概念をベースにして高次元のカタチや運動を描像しているからだろうと思います。虚時間宇宙の中には通常の意味での時間は存在しないのですから、素粒子はいかなる回転もしていないとも言えます。永遠の中では回転という運動は、円環という幾何学構造体としてスタティックにただ「在りてあるもの」として存在しているとしか言い用がありません。無境界仮説により創造の瞬間という問題を一応はクリアしたホーキングも次のように言います。
「宇宙は創造されたものではなく、消滅することもなく、ただ存在しているだけです。従って、創造主の出番はどこにあるのだろうか。」
この「ただ存在しているもの」の中には創造のマトリックスとしての神聖なる幾何学が息づいています。その幾何学領域こそが神のスペルマが注入される女なるものの子宮のことであり、哲学者たちはそれを「コーラ(容器)」と呼び、物理学者は素粒子と呼び、宗教者たちはそれをサンサーラの環と呼んでいる………おそらく、それらはすべて同じものを指しています。ヌース理論が「次元観察子」と呼ぶんでいるのもこの永遠の器のことなのです。
さて、改めて自身の「前」に久遠を見てみましょう――ここにはもはや時間はないわけですから、身体を回転させてどの方向を見ようと、そこにはもう回転は存在していないと考えなければなりません。そして、事実、そこにはただ「前」という一つの方向性があるだけです。こうして、わたしの周囲を取り巻いていると考えられていた知覚球体は、虚時間概念の導入のもと、もはや球体とも呼べないものとなり、ただ無限小の長さを持つ4次元の線分として見えてきます。この顕在化した4次元の線分のことをOCOT情報は3次元空間から垂上する力という意味で「垂質」と呼びます――こうして物理学が電子のスピンと呼んでいたものの実体が僕らの意識に、自己そのものの器(コーラ)として顕在化してくるわけです。電子のスピンとは「わたしの前」のことであったのだと。。
コ : 変換人の意識にはモノはどのように見えてくるのでしょうか?
オ : 位置の等化においては、それは垂質に見えてくることでしょう。 (シリウスファイル)
4月 28 2008
時間と別れるための50の方法(7)
ようやくMacも復旧。まずは仕事の遅れを取り戻していました。
今日からまたボチボチ、ブログの方も更新していきたいと思います。
現在、このブログでは2月に出した『人神』のアドバンスト・エディションの補足をする内容を思いつくまま書いている。その中でもとり分け「人間の内面」と「人間の外面」というヌース用語の基本中の基本とも言える言葉についてより理解を深めてもらうために、身体における前-後という概念について少し掘り下げている。というのも、アドバンスト・エディションにも書いたように、「人間の外面と内面」というヌース特有の概念がそれぞれ身体における「前の空間」と「後ろの空間」に対応していることがようやく分かってきたからだ。
僕らの意識は普段、3次元空間の中に落ち込んだ位置から空間について思考しているので、「前」と「後ろ」という方向性のトンデモない差異にほとんど気づいていない。おそらく、ヌース理論が今まで次元観察子と呼んできた無意識が形作っている高次の次元構造は、つまるところ、身体における前・後、左-右、上-下という三つの方向性が持つ本質的意味と重ねられて語られていくことになるだろう。自他におけるこれらの三つの方向性の絡み合いが作り出す意識の働きのすべてが見えてくることになれば、それはヌースで言う次元観察子ψ1〜ψ12までのすべてが顕在化したということにおそらく等しい。ということで、とりあえずは『時間と分かれる50の方法………6』で紹介した「後ろ」についての話に戻って、「前」と「後ろ」の、そのトンデモない差異を露わにしていくことにしよう。
「後ろ」は見えません。「後ろ」には「わたしの身体の後ろ」と「正面に見えている対象の後ろ」という二通りの後ろがありますが、どちらも見えません。この二種類の後ろに共通しているのは、いずれも向かい合う他者側から見た場合、その他者の「前」の範疇の中に収めることができるということです。この見えない「後ろ」を見たいとき僕らが使う道具が鏡です。その意味で鏡というのは他者の「前」の代用品という言い方ができるわけです。ですから、鏡は自分の前方の中に自らの後方を出現させることができます。ということは、鏡というものはその本来が「バックミラー」と呼ばれてしかるべきものであるということです。
そこで、皆さんも、朝起きて洗面所の鏡の前に立ったときの自分の姿を思い出してみましょう。普段は寝ぼけ眼で見ているから気づきにくいのですが、やっぱり、鏡に写っているのは「後ろ」の世界です。ということは、次のような非常識的な推測が成り立ってきます。つまり——僕は自分の顔が前に付いているとばっかり思っていたのだけど、鏡に映し出されている世界は僕の「後ろ」なんだから、顔は「前」に付いているというより「後ろ」についていると考えなくちゃいけないのではないのか——ちょっと奇妙に聞こえるかもしれませんが、これは、前を見るにしても、後ろを見るにしても、実は視点というか、視線の方向がそれぞれ二つづつあるということを言っています。普通、僕らは文字通り自分の前方向を「前」と呼んでいますが、自分の顔がある場所も「前」のように感じています。というのも、顔と反対側の頭部は「後頭部」と呼ばれ、「後ろ」とされているからです。でも、これってちょっと変です。なぜなら、「前」とは見える世界が存在している場所の方向を差している言葉のはずなのに、自分の顔は見えない世界側に属しているからです。自分の顔が「前」にあると認識している意識は、普通に「前」を「前」と認識している意識とその方向性が完全にひっくり返っているにもかかわらず、人間はその方向性の違いに無頓着で、それらを一緒くたにして混同してしまっているんですね。極端な話、ほんとうは僕らが後頭部と呼んでいるものの方を実は「前」と呼ぶべきであり、顔面は僕の背後世界の方向に存在している対象と考えるべきなんです。
僕には見えない後ろ側の風景をいつも引き連れているであろう己の顔。この顔は自分自身では実物を決して見ることができず、鏡像を通した想像力でしか捉える術がないのだから、とてもリアルな顔面とは言えません。自分にとっては自分の顔面はあくまでも「仮面」なのです。そう、ペルソナ(persona)です。このペルソナが人間性を養い、パーソナリティー(personality=人格)というものを作り上げて行く土台となります。こで人格と言ってるのは、いわば現象(世界がこうしてあること)に浮上してくるすべての意味の統括者としての自我存在のことを意味しています。
ですから、僕は半田広宣という仮面を被っており、ここでの語りもまたすべてその仮面による語りです。おそらく、この語りを聞いている皆さんも、すべて仮面-者としての皆さんでしょう。そこで僕はほんとうの顔って何だろうと考えるわけです。仮面じゃないほんとうの顔面は昔風に言えば「面(おもて)」です。時代劇とかで「面を上げぇ~い」と言うでしょ。アレです。「面を上げぇ~い」と言われれば、昔の人だって当然、顔面を上げてしまうことでしょうが、顔面は仮面なのだから、面ではありません。シリウスファイルにこんなやり取りがあります。
コ : 人間が見ている世界とは何ですか?
オ : 面です。
シリウスでは「面(めん)」というのは眼に見える世界そのもののことを言うそうな。。あひゃ?ひょっとして、それって「前」のこと?見えてる世界そのものが僕の素顔ってことなのか?
そうです。OCOT情報のいう「面」とは、僕が『人神/アドバンスト・エディション』の中で不動の視野空間と呼んだものそのもののことを意味します。。。。——つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 2 • Tags: ヌース用語, 人類が神を見る日, 内面と外面