3月 12 2005
青空の機械
新しいサイトのトップページのデザインを上げた。今回の雰囲気はハイパーダンディ。なんやそれ?黒を基調に昨日話したデジカメで撮影したケイブコンパスをあしらったもの。現行のやつがMac.OS.9調だったので、今回はこのcave syndromeも意識して、黒系でいくことにした。下側には01〜10まで、appendix boxつき。Quick timeなんかも仕込んじゃおうかなぁ〜と思ってる。NCやケイブコンパスのアニメーションだけではなく、ブルーが美しいNCジェネレターの実写ビデオとかも公開する予定。乞うご期待!!
ところで、先日、NCジェネレーターのことを21世紀版のオルゴンボックスと称したが、少し補足しておこう。
オルゴンボックスの発明者というか、開発者であるW・ライヒは、ある意味わたしのアイドル的存在だった人物だ。
ライヒはフロイトが一時息子のようにかわいがっていた愛弟子で、精神分析とマルクス主義をリビドー論を持って統合しようとした異端児である。まぁ、フロイトの弟子の中ではある意味、一番ラディカルだった人物と言っていい。彼の思想に共感する点はいろいろとあるのだが、最も大きな点を挙げるとすれば、思想のスタイルが極めて直球ストレートであったということだ(わたしは重箱の隅をつつくような哲学や思想は大キライなので)。そして、その思想を最終的に一つの装置として実現させようとしたこと。つまり、わしと似てる訳ね。でへ。フロイトが性の抑圧からの解放を主眼として精神分析を確立させていったいったのは有名な話だが、ライヒは師に極めて忠実だったがゆえに、この初期フロイトの立場を一生涯貫き通し、性革命を主軸とする革命運動を続けて行く。ナチに追われ、アメリカに移った晩年には、オルゴンボックスをガン治療器として利用したためFDA(日本の厚生省のようなもの)に告訴され、最終的には政府の圧力によって潰され、獄死する(ここは似たくないよぉ…)。彼にとっては、結局、アメリカもナチも大した違いはなかったということなのかもしれない。。
性エネルギーを物理的な力と考え、人工的な装置によってそれらを解放させようとした彼の意図に対しては、たぶんに抵抗を感じる人も多いだろう。オルゴンエネルギーに取り憑かれた彼の晩年(いわゆるオルゴン期)に対しては、ほとんどの識者はオカルト扱いにしてよくは言わない。しかし、彼は単なる学者でも、社会運動家でもなく、フロイト的なものとマルクス的なものの融合を図ったという意味で、ユダヤ的な精神の解放のビジョンを持った巨人ではなかったのだろうかとも思う。それだからこそ、彼は、精神分析学会からも共産党からも追放された。これは、ヌース理論が科学畑の人からも宗教畑の人からも嫌われるのと似ている。。。ぜんぜん、違うか(笑)。オルゴンボックスなる奇妙な機械は、性の抑圧によって欠如したオルガスムスを補給する機械であり、オルガスムスとは、彼の言葉を借りれば「あらゆる生命体を支配するエネルギーであり、それはとりもなおさず大気中のエネルギーと同一のもの」であるのだ。
現在、科学では地球の大気圏は重力によって宇宙空間のガスが引きつけられできたのだと考えている。これはたぶん嘘だ。大気が作っている膜とは、物質階層のあらゆる膜に通じる中間地帯のエネルギー境界のシンボルである(ヌース理論でいうΩ7〜Ω8)。そこでは当然のことながら、物質も意識も、生と死も、自己と他者も、男と女も、一つに解け合っている。そうした中間領域で活動するエネルギーがオルガスムスであり、オルゴンオネルギーなのだ。いずれにしろ、ライヒはこの地上世界に天使の不在を感じたに違いない。ライヒのオルガスムス論はフロイトのリビドー論をはるか超えて、やがては、惑星、天体レベルへのエネルギー論、宇宙論へと発展していく。青空はなぜ青いのか。ライヒは空の青さの中に何を見ていたのか——オルゴンボックス。それは、やっぱり青空の機械なのである。
4月 10 2005
スピノザ効果
今日は、昼近くに起きた。外は昨日と打って変わって雨模様。花見の予定を組んでいた人たちには残酷な天気である。近くのY電機からバソコン用の部品を買ってきたあと、スピノザの『エチカ』を書棚から取り出し、久しぶりに読書の時間を持った。
しかし、日曜日の午後に何でまた『エチカ』なんぞ古めかしい哲学書をほじくり出してきたのか——。それは、最近、ヌース理論会議室の方に顔を出されたgnuさんという方の一言がなかなか頭から離れなかったからである。曰く——ヌース理論は数学に幻惑されている。。。
ヌース理論に使われている数学的定式化が曖昧だ、とか、間違っているという批判であれば、今までも何度かはあったし、こちらもそれらの批判が正当であると感じれば、素直に訂正すればよいだけの話だった。しかし、今回のgnuさんの意見は視点が全く別のところにある。だからこそ、少し気になっていたのだ。会議室の方でのgnuさんとわたしのやりとりを読めばすぐに分かるが、この方はかなり数学ができる方だ。ただ、その割に、こgnuさんご自身は数学をあまり信頼していない様子である。このご時世、医者が医学を余り信じていないというのならまだ話は分かるが、数学者が数学の神を信じていない(少なくともそうした印象を受けた)、というのは結構、意外であった。
さて、ヌース理論は果たして数学に幻惑されているか否か?——ケイブコンパス当たりの解説に、たどたどしい群論や高次元トポロジーの用語が多用されてくるのは事実だが、しかし、それらの記号表現や論理構成に特別の魅力を感じているからというわけではない。ヌース理論に登場してくる「人間の内面」「人間の外面」と言った概念があまりに、群論や高次元トポロジーの世界と相性が良すぎるから、ただそれだけのことである。翻って、このことは、ヌース理論に登場する観察子という概念が、高次元トポロジーの諸概念に唯一実体概念(意味)を付与できる思考体系であることを暗示している。数学者たちが首をひねっている高次元空間にはれっきとした意味があるのだ。わたしの場合、こうした信仰の後押しをしてくれているのがスピノザ、その人なのである。スピノザはデカルトと同時期に活躍した孤高の哲学者である。ヌース理論が「幾何学とは一つの倫理学でなければならない」といつも言ってるのは、このスピノザがしたためた一冊の書物「エチカ」の影響なのだ。
スピノザは人間の認識には三種類のタイプがあると考えた。第一種は「想像知」(imaginatio)で、これは通常の感覚的認識を意味する。第二種は「理性」(ratio)で概念的認識である。第三種は「直観知」(scientia intuitiva)と呼ばれ、これは、概念的認識から、さらにその原因の認識へと進むのだ。言うなれば、認識の認識である。そして、この認識の認識において人間の知性は改善され、真に能動的な神的知性が誕生すると考えたのである。彼にとって、神との合一を果たすこの知性こそが幾何学が持つ本質的精神なのであった………。
果たして数学や物理学抜きで、精神と物質の間に横たわる黄金の環の姿を知性に再現しうるのか——それはやはり難しいだろう。このために、必要なのは新しい数学というよりも、数学に対する新しい解釈である。認識を認識するためのあの第三種の認識に深く関わる幾何学は、すでに既存の数学の中に網羅されていることをヌース理論は直感している。いくぜ、スピノザ!!
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌 • 1 • Tags: ケイブコンパス, スピノザ, 内面と外面