11月 1 2017
フォニオの芽吹き
言葉は存在の住処だと言うハイデガー。すごく抵抗がある。むしろ、言葉は仄暗い土の中で目覚めを待つ種子のようなものとして考えたい。そういうイメージの方がしっくりくる。
今は薄暗い所で活動しているが、言葉もやがて目を開き、生成の大地に文字通り芽を出してくる。
そして、種子が大気の存在を初めて知る日、すべての言葉も双葉に割れる。
【フォニオ】とは——
ドゴン神話においては「種子」の意味を持つ。フォニオは七段階の振動を作りながら自らの内部で螺旋状に成長していく。この七段階の振動を発展させていくのは種子の生命の本質とされることばの活動である。ことばの力によって種子がその内部で成長を遂げていく。十分に種子が育つと、そこからこの種子は螺旋状の旋回の方向を反転させフォニオを双子化させて世界を開いていくとされる。ここに基本となる「7×2=14」という数が生まれるる。「14」はドゴン神話においては極めて重要な数である。
11月 10 2017
「物質」が目の前にあるということ
SU(2)からの時間と空間の発生は、ドゥルーズ風に言うなら、潜在的なものによる現働的なものの構成である。すなわち、生起—出来事—立ち現れ。現働的なもの(現在)は、そこですぐに潜在的なもの(過去)へと連続的に移動し、潜在的なものは現働的なものを常に無時間の中に記憶を通して支える。
ハイデガーは存在論的差異としてこの仕組みを見抜き、ドゥルーズはその批判的乗り越えとして、潜在的なものの顕在化に真の意味の「差異」を見出した。SU(2)を認識に浮上させること。それは時間と空間の間に挟まって活動する精神の覚醒を意味する。それは「対象を主体へと再転回させること」でもある。
私たちには、対象が時間と空間の中にあるように見えているが、それは現働的なものの世界から見た対象の姿にすぎない。対象は時間と空間が作る亀裂の中にその本質を隠している。それが物質の本性だと考えないといけない。
抽象的な観念を心的表象の上でいくら弄んでも、私たちは潜在的なものに触れることはできない。この空間は単なる形式ではなく、力の実体の力動である。私たちは奥行きを通してこの力の運動を一つの霊感として感受する必要がある。この回路の中に流れている力は「わたし」自身なのであるから。
対象知は、たとえそれがいくら精緻に思考されたとしても、現働的な外延(時間と空間)の産物にすぎない。科学的思考が生成に触れることができないのもそのためである。いかにして鉱物は成るのか、いかにして鉱物は植物と成るのか、いかにして植物は動物と成るのか、いかにして動物は人間と成るのか。科学にはこの答えは「絶対に」出せない。
その生成変化はすべて潜在的なものの中で生起している。それは物質ではない。物質とは、潜在的なものが現働的なものを構成したときに、現働的なものが見る潜在的なものの外皮にすぎないからだ。潜在的なものは現働的なものが姿を現わすと同時に隠されるのだ。
この存在論的謎を解く、おそらく最も重要なカギが量子物理に顔を出すSU(2)にある。このSU(2)は永遠の我と汝が上演する愛のロンドのようなものだろう。わたしたちのすべての情熱を供給する旋回のダイナモ!!
君にはその回転音が聞こえるだろうか。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: SU(2), ドゥルーズ, ハイデガー