5月 29 2017
詩人の絶滅
人は通常、言葉でコミュニケーションしていると言われますが、バベルの塔の逸話宜しく、言葉がコミュニケーションを破壊しているというのも事実です。言葉が持ったこうした両義牲は、言葉が世界の終わりと始まりとの結節に深く関わっていることが関係しているのではないかと考えています。
ここでいう「終わり」と「始まり」に被せてイメージしているのは、記号論でいうなら、シニフィアン/シニフェ、シニフェ/シニフィアンといった双対のイメージになります。物質に従属した言葉か、それから離れて色彩や形態の中に新たな欲動を与えられた言葉とでもいうのでしょうか。要は詩の言葉です。
詩人においては、記号から意味が発せられてくるというより、むしろ、そういった出来合いの意味(シニフェ)を反故にして、知覚に出現している色彩や形姿の中に立ち上がってくる剥き出しの情動から逆に言葉が紡がれてきます。最初っから、シニフィアンとシニフェの勢力関係が一般人とは逆になっている。
記号→与えられた意味というように、概念から発される言葉は、絶えず生成変化していく意味の多様な運動やふくよかさを固定的で痩せ細った死の言語へと変換させていくようなところがありますね。
情動の響きという意味で、言葉は意味というよりは、まずは声としてイメージされることが必要だと思います。「声」なわけですから、ここには必ず呼びかける相手が存在していますし、自分もまた応答者であるわけですから、声を聞き取る能力が必要とされてくるわけです。
こうした「声」が行き来している空間は決して物理的な空間ではありません。むしろそれはいつも言っている奥行きが作り出している持続の空間であり、声や聴覚といったもの自体、わたしとあなたの持続が重なり合う空間の中で生成してくるものなのです。
「言葉の重み」という表現がありますよね。この表現は言葉が質量と関係していることを彷彿とさせます。平坦な空間で語られる言葉には重みがありません。それは呼びかけることも忘れていますし、ましてや応答の用意もしていない言葉です。こうした言葉を「時空の言葉」と呼んでいいと思います。
質量とは自他の持続空間を等化したところに出現してくる精神が持った力です。これは物理学的にいうなら、カイラル対称性の破れ(右巻き、左巻きの区別がつかなくなる)や、二度の超対称性変換(ボゾン→フェルミオン→ボゾン)などとも深く関係していると思われます。
時空が質量によって歪曲するように、時空の言葉はその言葉の起源である等化された自他持続の重なり(これを重力と呼んでもいいと思います)によって、曲げられ、絶えずズラされて行きます。言葉や意味といったものが絶えず変化していくのも、元はと言えば、この時空と重力の場所の違いからくるものなのではないかと考えています。
物(知覚)と言葉は一つの精神的存在の光(始まり)と影(終わり)のような関係にあるということです。
ですから、言葉を受け取っているときは影を受け取り、物を受け取っているときは光を受け取っていると言えるのかもしれません。他者と自己という関係は本来、そういう関係の中に浮き上がっています。両者を同じ場所に存在するものと理解している限り、自己と他者が出会うことは永遠にないと思います。
ここまで話せば、詩人がなぜ意味を逆なでするようにして言葉を紡ぐのか、その理由が分かるのではないかと思います。そして、その詩人が絶滅つつあるというのが、今の世界の現状なんですね。
※下イラストは以下のサイトから借用させていただきました。
http://dromer.tumblr.com/image/71125873117
5月 31 2017
アポスタシスとカタスタシス
アポスタシスとは上へと昇る生成、カタスタシスとは下へと降りる生成。生成の方向には二つある、というのがミソ。自己側と自己から見た他者側の関係と考えよう。これ大事だよ。ハイデガーもドゥルーズもこのへんがはっきりしていないんだよね。
アポスタシスだけに目が行くと太陽信仰になってしまう。カタスタシスは星辰信仰。超古代人たちが星辰信仰だったのは、すでにアポスタシスを完了させていたからかもしれないね。両方が見えるのがアポカタスタシスってやつ。万物復興。ソロヴィヨフなんかの考え方だね。
シュタイナーが言うエーテル界とアストラル界の関係も、おおよそだけど、このアポ(上行)とカタ(下行)の関係にあると見ていいのではないかと思ってる。カタスタシスが見えないと、地上よりも天上が優れているといったような支配神信仰になってしまうから注意が必要だね。
神さまについて想像を巡らすとしても、自己と他者それぞれの意識の位相を最初から区別して考えないと、必ず一神教的神が顔を出してしまう。両者の絶対的差異化はヌース的思考の絶対条件。
自己から見た他者世界というのは上次元にある。自己世界は下次元にあるんだけど、それは同時に他者世界の上次元でもあるんだ。存在が作り出すこの無意識の円環の仕組みをすべて見抜くことによって、この地上の万物は初めて霊的調和というものに達するのだと、考えるといいんじゃないかな。
だから、「世界は一つ」などと言った物言いは、この円環をすべて踏破した意識が最後の最後に繰り出すセリフであって、下次元側でそれを言っちゃうと、サウロンの指輪をはめるようなもの。だから、「ワンネス」とか、「一つ」なんて気味の悪い言葉は極力、控えよう。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: シュタイナー