6月 12 2008
時間と別れるための50の方法(13)
●ψ3とψ4の違い
さて、こうして知覚正面の世界を2次元の射影空間として解釈し始めると、目の前にあるモノの外部に広がっている空間に相互に反転した二つの3次元空間が重なり合っているイメージが生じてきます。今まで単一の3次元でしかないと思っていた空間に対して、ぐてんとひっくり返った別の空間が重なっている描像が出来てくるというわけです。
この重畳した二つの3次元空間のイメージが生み出される原因となっているのは射影における光の方向性だと考えられます(本当は、この相互反転した空間の構造体が光を作っていると考えた方がいい)。結果的にこの光が持った二つの方向性がOCOT情報にいう「意識の方向性の対化」という概念と一致してくるのですが、ここも大事なところですから、丁寧に図を用いて説明してみようと思います(下図1参照)。
前回も少しお話したように、射影空間ではこの図1上に示している点Pと点P’を同じものとして見なされます。しかし、ここには射影の方向性によって射影面の表と裏という関係が出てくることが分ります。どういうことかと言うと、矢印Aの方向から見れば、球面の表面上(凸面上)の一点Pが反対側の球面上(凹面上)の極である点P’に映し出されることになるわけですが、反対に矢印Bの方向側から見れば、点P’の裏に接している点Qが反対側の極である点Q’に射影されますが、この点Q’は球面を挟んで点Pの真裏に位置しています。
これが一直線上での射影方向の関係性であれば、さほど面倒ではないのですが、これが3次元の全方向からの射影となると少し話がこんがらがってきます。実際、わたしたちは一つのモノを中心として回転することができるので、視線を射影線と見なした場合、モノの周囲を巡ったときにその視線の綜合として、そこに球空間の概念を作ることができます。とすると、矢印A、矢印Bという射影の方向性の違いによって、この直線が一回転したときには、互いに表裏を捩じり合わしたような形を持つ反転した二つの球空間が現れてくることになります。
実際にワークをやって、この空間の捻れを感覚化してみましょう。矢印Aが示した点P→点P’の射影を「わたしの視線」、点Q→Q’の射影を「あなたの視線」と見なして、モノを中心にグルリとその周囲を回ってみましょう。
わたしに見えているモノの表面は他者から見ると他者が見ているモノの表面のウラになり、同様に、他者が見ているモノの表面はわたしが見ているモノの表面の裏面になるような構造が実際に知覚されている空間にもあることが朧げながらも分ってくるのではないかと思います。知覚正面にしても同じです。わたしの知覚正面はあなた側からは決して見えない知覚背面となり、同様に、あなたに見えている知覚正面もわたし側からは知覚背面となって、やはり決して見えません。つまり、いつも言ってるように、「あなた」と「わたし」がともに回転することによって形成される3次元の球空間は、互いにその内面と外面の関係が逆になっているわけです。これら二つの空間の関係を数学的に表すと、基底が(1,1,1)と(-1,-1,-1)の二つの3次元ベクトル空間の関係になります。そして、この内と外が相互に反転した二つの3次元空間が持っている双対関係(キアスム)がヌース理論が次元観察子ψ3~ψ4、ψ*3~ψ*4と呼んでいるものに相当しているわけです。
さて、ここで次のような素朴な疑問が出てくるのではないでしょうか。モノの外部の3次元空間が相互に反転しているのであれば、当然、モノを象っているモノの内部の空間も自他の間では相互に反転しているのではないのか?
確かに射影空間の性質を考えればそういうことが言えそうです。しかし、これについては、まだよく分かりません。というのも、ψ1~ψ2はモノ自体という意味では見える場所、つまり光の場所ではないし、また、このψ1〜ψ2がどこからやってくるのか、ちょうどカントのいうモノ自体のように、その由来についてもこの時点ではまだ何も分らないからです。
前々回も言ったように、もし、次元観察子ψ1~ψ2が触覚の空間と深い関係を持っているとするならば、触覚を通して感覚化されているモノは意識における原初の方向性を立ち上げている場所だとも言えます。触れられるものと触れるものとの関係がまだ未分化なウロボロス的な場所。誰もが新生児の頃に経験したことがあるにもかかわらず、他の諸感覚の獲得や、言語の習得などによって、遠い記憶の彼方へと消え去ってしまった、自身の内部と外部を分け隔てている境界の痕跡。
そのノスタルジーに想いを巡らしながら、目を閉じてそっとテーブルに触れてみるといいでしょう。マウスの表面に軽く指先を滑らしてみてもいいでしょう。そこにはメルロ・ポンティが言うように、触られるものの感覚だけではなく、触っている指先の皮膚表面の感覚までもが同時に伝わってくるのが分ります。つまり、触覚においては「触るものも触られている」感覚がダイレクトに伝わってきます。次元観察子ψ1として放たれた方向性はおそらく触れられるモノの表面の位置というよりも、身体の内部空間に入るために穿たれた入り口のような所のようにも思えます。触れることは反対に内触覚的なものとして身体空間を目覚めさせているというわけです。世界に浸透する精神は「わたし」に向けて新たな進化を投げかけている——おそらく、その方向性が知覚と呼ばれるものだと思います。その意味で僕らは知覚が構成されている空間を潜在的状態から顕在的状態へと引っぱり出さなければなりません。
近代以降、人間は視覚優位の世界認識を作ってきたと言われていますが、ひょっとして、僕たちの外界に対する認識は未だ触覚的で、触覚に続く、嗅覚や味覚、視覚、さらには聴覚といった感覚を通した空間認識には達していないのかもしれません。空間が眠っている、つまり、空間に対する理解が、生まれたての赤ん坊のようにまだウロボロス的な状態にいるということです。僕が人間の世界は実は巨大な一つの宇宙卵だといつも言ってるのも、このような未分化意識のことを指して言っています。
前にも言ったように、触覚は尺度を忠実になぞります。大小という概念だけに限って言えば、触覚野は極めてユークリッド的、つまり等長変換的です。掌がつかめるモノの大きさは限られていますし、身体の周囲で触ることのできる範囲も限られています。その意味では、触覚空間は射影空間的な視覚空間よりも遥かに自由が利かない空間だと言えます。
おっと話が横道にそれてしまいました。諸感覚と次元観察子の関係性についてはまた機会を改めて話すことにします。次回はψ3~ψ4の球空間についてまたいろいろな説明を試みたいと思います——つづく。
6月 17 2008
時間と別れるための50の方法(15)
●ψ3はどこへ行った?
ψ3の球空間とψ4の球空間の区別が見えてくると、意識に面白い感覚が生じ始めてくるのが分ります。それはψ3とψ4、それぞれの球空間が持つ包含関係に、下図1に示したような次のような二通りの在り方があるのではないかと感じてくるからです(ψ3、ψ4どちらも半径が無限の長さを持っていると考えますが、ここではψ3とψ4がどちらも膨張-収縮できるものとして考えています)。
1、ψ3の球空間がψ4の球空間を包み込んでいる
2、ψ4の球空間がψ3の球空間を包み込んでいる
ここも皆さんのイメージを喚起しやすくするために具体的に話してみます。
今、目の前、1mぐらいのところにバスケットボールがあるとしましょう。このとき、顕在化が起こっている人には、そのバスケットボールの外部にある空間はψ3の球空間のように感じられてきます。つまり、背景面を内側(凹面側)に持っているような球空間に見えてくるということです。一方、バスケットボールの内部の空間は従来通り、自分に向かって膨らみを持った球空間のように見え、それは変わりません。つまり、このとき、バスケットボールの外部の球空間はψ3、内部の球空間はψ1~ψ2が形作る球空間として捉えられるということです(下図2参照)。
ここから次の次元観察子であるψ4の球空間がψ3の反映物として把握されてきます。それは「バスケットボールの手前にいるボク」という位置感覚をベースに形成されます。バスケットボールとボク。皆さんの頭の中にも、この両者を結ぶ線が意識にイメージされているはずです。今度は、この線をバスケットボールを中心に回してみましょう。すると「ボク」がバスケットボールの周囲をぐるっと回っているイメージが生まれてくるはずです。このとき、この線の回転によって形成されているのがψ4の球空間です。
実際にイメージして見れば分ることですが、ψ1〜ψ2の球空間(モノのかさ張りとしての球空間)とψ4の球空間は方向性がとても似ています。違うのは観測者の位置を含んでいるかいないかです。つまり、ψ4の球空間とは物体のかさ張りとしてのψ1~ψ2の球空間の認識が観測者としての自分の位置をも呑み込んだ領域まで拡張されてイメージされたもの、とも言えます。普通にいう3次元座標は観測者としての「わたし」は単なる物体として簡単に包み込んでしまいますから、まさにψ4の球空間の骨組みそのものと言えます。
さて、ここでψ1〜ψ2が長さや大きさという尺度概念を生み出している空間となっていたことを思い出して下さい。物理学ではこうした大きさのみを持つ空間のことをスカラー空間といいます。まだ、はっきりしたことは言えませんが、おそらくこのψ1〜ψ2は物理学でいうこのスカラー空間に対応させることができるのではないかと考えています。
スカラーが方向を持つとベクトルという概念になりますが、ψ1~ψ2をスカラー空間(大きさのみで方向を持たない)だとすれば、このψ4で力の方向が生まれ、3次元のベクトル空間が構成されているのかもしれません。実に面白いですね。物理空間には何が原因か分らないけれども力が存在していて、その力が方向を持ってすべての物理現象を仕切っています。OCOT情報では次のようにいいます。
人間の意識とは付帯質が持った方向性の力——。
何が言いたいのかというと、物理学が物質的な力として扱っている力と方向とは、ひょっとすると観測者の位置という概念が持った意識の力の方向性を架空の客観空間の中で見ているだけかもしれないということです。この考え方で行けば、純粋に物理的な力など実はどこにも存在しておらず、それらはすべて、物質も意識をも支配している何らかの精神が空間に概念として与えている力なのかもしれない、というイメージが生まれてきます。つまり、このことは観測者としての人間が存在しなければ空間にはいかなる力も方向も存在しない、ということを意味します。
おっと、また話が横道に逸れそうになってしまいました。戻ります。
僕の説明が下手なために、ψ3とψ4の区別がまだよく分らないという人がいらっしゃるかもしれません。そういう人は次のようなイメージで考えてみたらいかがでしょうか。
実際、このψ4の球面上をなぞる回転を行なったとき、バスケットボールの手前にいる自分がバスケットボールを挟んで反対側に回り込むようなイメージが作り出されてくるのが分ります。つまり、此岸の「わたし」と彼岸の「わたし」がバスケットボールを挟んで対峙しているイメージです。そのとき、彼岸の「わたし」が貼り付いている面には自分の顔が貼り付いているわけですから、これは人間の内面です(下図3参照)。
わたしがモノの背景面として実際に見ている面は人間の外面だったわけですから、そうした空間認識は完全に表裏が裏返っているんですね。僕がこのことに最初に気づいた時は、かなりの衝撃でした。というのも、じゃあ、実際に見えている目の前の空間はどこにあるんだ?ってことになるからです。人間は知覚が降り立っている場所をまだ知性では捉えることができていない——それが僕に顕在化が起こったときの確信でした。――つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 0 • Tags: 付帯質, 内面と外面