10月 23 2019
即位の礼と虹
昨日は即位の礼の日。
古式ゆかしき儀式の中継を見るために久々に地上波にチャンネルを合わせた。
式典が始まるときは荒れ模様の天気だったが、N氏のツイートに拠れば、式典前には皇居を大きな虹が包んだらしい。
OCOT情報によれば、虹とは人間の意識の定質。
う~む。
N氏のツイートを受けて、さっそく次のようにツイートした。
光はカタチのない精神。カタチを相殺した精神。付帯質側では有機体と呼ばれています。その光を再び精神へと方向づけている状態が虹。水はヒトの元止揚の対化が交差を持ったもの。その意味で、虹は人間の無意識領域の表相という言い方ができます。いずれにしろめでたい。
天皇については、以前行った2015年のレクチャーでもヌーソロジーの観点からいろいろと話したが、OCOT情報から読み解くと、天皇とは真実の人間を象徴化したもののように思える。日本国などではない。真実の人間だ。人間の意識は二度の交替化によって真実の人間の意識の世界に入る。大嘗祭における儀式が悠紀(ゆき)殿と主基(すき)殿という東西の二カ所の神殿で執り行われるのも、その二度の交替化を意味するものだという。王位継承の儀式を二度反復するような国は世界中どこを探してもない。
続いて「三種の神器」についての質問には次のように答えている。
三種の神器とは?
玉とは転換のこと。
転換を持つものすべて。
剣とは対化のこと。
カガミとは精神の方向性のこと。
精神が反映を持つこと。
新しく次元が生み出されるときがカガミ。
ただし、三種の神器だけでは足りないともいい、物部系の十種神宝の方がヒトの時代の正確な知識を伝承しているとも言っていた。
十種神宝におけるカガミの扱いは、基本、荒御魂とされる。オキツは外宮、ヘツは内宮、オキツは天で水徳。ヘツは地で火徳。アマテラスが座すのは当然、ヘツであってオキツではない。アマテラスをオキツに見ているのがアマツカミ系の思考で、その意識の流れが今の世界を作っている。いわゆる外なる物質的太陽をアマテラスとして見ている世界だ。
十種神宝とはこの二つの鏡の対立に始まる荒御魂の世界から、カンナガラノミチへと御魂がどう歩みを進めていくかを具体的に表現したものと考えていいように思う。これが「三種の神器」に代用されてしまったことは、内在心を見えなくさせられたことに等しく、日本心性にとっては悲劇的な出来事と言っていいだろう。実際、今では三種の神器でさえも、天皇という権威の単なる象徴としか見なされていない。
天皇の即位を祝うのもいいが、これからは自らの内宮にも目を向けていく時代だ。また、それが令和という時代の意味でもあるだろう。ヌーソロジーは、その意味で、これからも私たち自身の内宮のことしか語らない(キッパリ)。内宮とは”存在”のこと。
新たな天皇のお名前は徳仁(ナルヒト)さま。
十四の心を行することによって、二人(自他)で一人のヒトとなる。
まぁ、何か知らんけど、ホンマよくできてるわ。
※下写真 @zodos66666より借用
10月 29 2019
そろそろヌーソロジーの意図が多くの人に伝わってきてもいい頃
精神は非物質的なものだ、という人たちが今でも結構いる。でも、今や物質自体が非物質的と言ってもよいものなので、精神と物質を二分して考えるこうした姿勢は見直されないといけない。むしろ、精神と物質をつなぐ概念の創出の方が大事。ヌーソロジーの場合はそのつなぎを持続空間に置いてるわけだね。
Raimuくんが紹介している動画の中にハーディングの動画もある。ハーディングはヌーソロジーの草創期によく話題に上がってた。今見ると、ハーディングの指さしは「位置の中和」を指していて、それを見ているのが「位置の等化」側だということが分かる。
下紹介ビデオ―私たちの本質とは何か?
「位置の中和」側を自我極とするなら、「位置の等化」側は対象極とも呼べるのだけど、反転認識においては対象極側が精神となり、自我極側が付帯質となる。この時点で、人間が物質と精神と呼んでいた区別は消滅しちゃうわけだね(下図左)。
この図を自他の間で双対化させれば、『人神』以来、お馴染みのNC(ヌースコンストラクション)のカタチになる(下図右)。
NCのことをOCOT情報は別名「覚醒球」とも呼んでる。
これは、対化の位置が「覚醒」したことを示す「始源」の意味でもある。
ψ5~6は別名、「力の対化」と呼ばれることもあるんだけど、ここから精神は他者側の構成を反射板のようにして用いながら、自己側の精神構造(無意識構造)を作り上げて行く。
素粒子としてはψ5~6はそれぞれuクォークとdクォークに対応している。(自己側が左巻き、他者側が右巻きと予想している)
図からも想像できるように、ヌーソロジーでいう「覚醒」は、主体の位置感覚を自我極側から対象極側へと反転させてくる。
「奥行き」を持続として仮定しているわけだからそう言わざるを得ない。僕らは「もの(uクォーク)においてものを見ている」のであって、必ずしも目(脳)がものを見てるわけじゃないってこと。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 3 • Tags: OCOT情報, ヌースコンストラクション, 人類が神を見る日, 素粒子