2月 6 2015
Golden Sun Spirit——太陽霊への扉
OCOTは人間の意識の在り方を「性質」と呼ぶ。性質とは中和が生まれている状態という意味だ。中和とは空間の+と−という差異が相殺されて違いが全く見えなくなっていることを意味するが、それが3次元空間や時間のことと考えるといい。ここでいう+と−とは自己と他者が息づいている空間のことだ。
その意味からすれば、僕らが日頃慣れ親しんでいる3次元の空間や時間とは、自他それぞれの固有の魂が融けていっている場所とも言える。空間と時間だけで世界を思考することは、人間の魂を融かしていくのだ。OCOTはその融けていく状態が物理的には「熱」として現れているとも言う。これは自然界のエンロピーの増大とも深く関係している。
時間と空間という延長の世界は宇宙の実体が死滅していっている世界だということに、僕たちはそろそろ気づかないといけない。その意味で言えば、時間と空間の延長性をベースに置いている思考活動は反-生命的なものと言える。生命に即した思考は、決して世界を尺度で数値化したり、データ化したりはしないということ。
生命は空間や時間の中で生きているものではない。ベルクソンが言うように生命は持続の中で生きている。時間と空間という概念の肥大化によって剥奪されたこの持続感覚をまずは奪回することが、これからの時代は最優先されなくてはいけないように思う。自分自身を貫いている持続にまずは感応すること。そして、それを時間と空間に変わる世界の新しい土台へと変えていくこと。
「持続にまずは感応すること」という言い方が少し分かりにくかったかもしれない。これは、自分が過去を一気に丸ごと感じとっているところに自分自身の身を置くということだ。それが生きている。それが生命だと深く自覚すること。ヌーソロジーの思考はすべてそこからスタートさせている。
「自分が過去を一気に丸ごと感じとっているところに自分自身の身を置く」——この場所こそがいつも話している「奥行き」だ。確証はない。直観だ。そして、この奥行きを虚の空間と見なすことによって、主体は時間や空間の世界とは全く異なる世界へと出ることができる。
もちろん、この異世界の中を神秘主義的なアプローチで探索することも可能だろう。しかし、それでは多くの人が相互了解が取れる知識とはならない。そこで、虚空間を含む構造体として自然界に姿を現している「素粒子」の世界が問題となってくるわけだ。素粒子はこの虚を内包するがために時間と空間の中に存在しているものではないとされる。だから、素粒子の存在様態は人間が持った時空間的な表象をことごとく退ける。素粒子の中では過去も未来も、ここ、あそこも溶け合っている。
つまり、それは物体の元でありながら、物体ではないということ。だから、物理学者といえども、未だに誰一人素粒子の描像を描くことに成功してはいない。しかし、そこには抽象的でありながらもこのうえなく美しい構造が展開している。奥行きに持続を見て、それを虚空間と仮定し、この構造をなぞっていくと何が出現してくるか——。
驚くべきことに、そこには現代哲学が追い求めてきた人間の無意識構造、もしくは超越論的構成と呼んでもいいような世界が現れてくる。もの自体をベースにして展開する、感性、悟性、理性、そして理性からの逃走線。それらの構造とピタリと一致するようなカタチが浮上してくるということなのだ。
さらに言えば、それらの構造は双対性のカタチをとって、太陽の中で起こっているpp反応と重なり合っても見えてくる。つまり、純粋持続としての奥行きを虚空間として仮定して思考していくと、自己と他者の無意識が太陽の中で結び合っている世界が垣間見えてくるということなのだ。その意味で奥行きは太陽実体に侵入するためのゲートとなっているとも言える。
こんな時代だから、外の世界に関心を持つことももちろん大事なことなのだが、たぶん、今、人間の内なる世界で激変が起こり始めている。内なる世界にもっと意識を向けよう。自身の内の世界にこそほんとうの宇宙がある。外の宇宙もこの内の宇宙があってこそ、なのだ。
3月 13 2015
今日から、君がカタカムナだ!!(笑)
今日もカタカムナ関連で少しだけ。
アマとカムのムカヒというやつだけど、アマを「幅」に、カムを「奥行き」にダイレクトに当てはめていいと思うよ。ヌーソロジーでいう人間の内面と外面の対向性ってやつだね。これらはアカ(現象性)とアオ(潜象性)の関係でもあるね。つまり、NOSとNOOSってこと。NOSは赤色、NOOSは青色。よくできてる(^^)
現象の把握はアカとアオの混合から成っている。これをカタカムナは「アヤ」って呼んでいるようだ。「アヤしい=怪しい」のアヤ。「あやとり=綾取り」のアヤでもある。要は、混ざり合ってよく分からなくなっている状態のこと。これはベルクソンが言ってた「延長と持続の混雑」と同じこと。アカとアオの区別を認識に上げることが、いわゆるベルクソン=ドゥルーズのいう「差異」。
たとえば、目の前に3次元座標の空間を「イメージ」してみよう。この時点で、すでに幅と奥行きはヨコ回転したり、タテ回転したりして互換重合し、混じり合っている。ただ、人間の意識にはカム=奥行きの方は潜在化してしまって、アマ=幅が作り出す3次元空間だけが想像的な対象として浮上してくる。カムのほうは。このときミチ(持続)として働いているんだね。
「考える=カムカヘルとカムカエル」とはくだらないダジャレのようでもあるけど、とても本質をついている。人間に思考を強制させているもの、つまり、考えたくなくても考えざるを得なくさせているものとは、まさに、この潜象化している「カム」の力によるものだ。このカムこそが「思考サレルベキモノ(ドゥルーズ)」なんだね。
カタカムナに拠れば、アマは膨張性、カムは収縮性として働く。アマがカムに方向を持つことは「アマナ」と呼ばれ、「アマナ」はそのまま原子核の意となる。このへんは直球ストレートでほんとに気持ちがいい。幅として生まれでた現象性はカムのミチを通じて物質の根源へと回収されているってことなの。もちろん、この流動は人間の意識においては無意識化されているんだけどね。
OCOT情報は「カタカムナ文明とは前次元の覚醒期の知識です」と言っていた。楢崎さんはなぜそれが滅びたのは分からないと書いていたけど、それもまた「アマとカムの交替性によるもの」というのがOCOTの言い分。つまり、意識の在り方というもの自体もマワリテメグルものだということ。
まもなく、時代空間はアマウツシ(幅支配の世界)からカムウツシ(奥行き支配の世界)へと交替化を起こしていくよ。そうすれば、新しいカタカムナ文明が立ち起こってくることになる。ヌーソロジーの作業もまたその一つの息吹のように強く感じている。
カタカムナを学んでいる人は、是非、現代物理学やドゥルーズ哲学をゆっくりでいいので並行して学んでいくといいと思う。そして、それを知識として所有するのではなく、カム(奥行き=持続)を通してそれと一体化していく思念を育てて行くこと。そうすることによって明確なカタチ(構造性)と意志(新しい主体性)が生まれ、OCOT情報のいう「力(ちから)」が生まれてくる。ヌーソロジーが目指すのもそうしたカムナガラノミチそのものとしての身体性の獲得なんだね。だから——
今日から、君がカタカムナだ!!
なんか、カタカムナの宣伝マンになった感じ(笑)
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カタカムナ関連, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: OCOT情報, カタカムナ, ベルクソン, 奥行き