2月 8 2007
窒素と酸素
〈交信記録 19911113〉
K/地球の大気成分が4:1の割合で窒素と酸素に分かれているのは何か意味があるのですか。
OCOT/付帯質と方向(精神への方向)を持つ力の成分の割合です。
K/窒素とは等化の力の反映なのではないですか。等化の力とは付帯質のことなのですか。
OCOT/付帯質にメイハンカされなければ意識は生まれない。人間が内面性を持っているから窒素が存在するのです。
〈解説〉
ヌース理論が語る元素とは、物質の構造ではなく精神の構造である。ヌース理論の文脈では、元素は人間の外面の意識構造(潜在化した無意識構造)であった素粒子構造が、対象として顕在化を起こした際のその認識の在り方そのものとして解釈される。
内面認識(3次元認識)にとっては、人間の外面の意識構造は内部空間の中に畳み込まれ、微視的世界の構造として観察されるているが、元素の世界はそこから一段階ジャンプアップした場所として反映を持つことになる。つまり、人間の目には精神進化の経路がミクロ領域から可視的領域方向への拡大化の方向として見えてくるということだ(宇宙空間側は逆になる)。
諸元素に付された原子番号は、おおむね、顕在化における次元観察子の序数に対応させることができる。窒素の原子番号は7番、酸素の原子番号は8番なので、これらは、それぞれ顕在化における次元観察子ψ7とψ8に対応している。つまり、陽子(潜在化としてのψ7)と中性子(同じくψ8)が顕在化を起こしたものが窒素原子と酸素原子だということだ。
潜在化と顕在化の関係は、意識振動における1オクターブ上の倍音共鳴のようなものである。顕在化におけるψ7〜ψ8はそのまま大系観察子Ω1〜Ω2を構成し、Ω1〜Ω2は次の次元形成においてψ*1〜ψ*2へと凝縮化を行なう(反対側=他者側に回り込むという意味)。ψ*1=窒素はψ側にとっては人間の内面の発露を作り出す能動力であり、ψ*2(ψ1)は外面の発露を作り出す能動力である(下図参照)。窒素は人間を人間の内面に関与させ、酸素は人間を人間の外面に関与させている。吐く息と吸う息に同じ。
大気における窒素と酸素の4:1という比率は、精神構造が対化(双対)として構成させられていることに起因している。この比率の内実はその意味で2^2 : 1^2である。このことが示すのは、人間においては内面の意識の方が優勢に働かざるを得ないということを意味する。ちなみに、この2 : 1という分離比率はイデアとしての正四面体の重心の位置に由来する。
これらのことから言えるのは、大気圏を構成する窒素と酸素は別に重力によって地球に引きつけられて地表上に淀んでいるわけではないようだ、ということ。。。「顕在化」の意から、僕らの認識が陽子と中性子のカタチを見出せば、その見出されて露にされたカタチが窒素と酸素の本質を表していることになる。地球表面にちりばめられている人類全体の身体にとっての前の空間と後の空間についてぜひ考えてみてほしい。。そこに陽子と中性子のカタチが潜んでいるはずだ。「メイハンカ」の意味は現段階では不明。
2月 16 2007
5次元から見たボクとママ
思形=ψ9を存在のパパとするとならば、存在のママ=ψ10とは感性のことである。
ある理由でパパのことから話してしまったが、実際には、人間の意識の目覚めはママとの共同作業から始まる。ハパの世界が人間の外面*のミラーリング(他者が見ている世界をコピーして自分がみている世界と合体させること)に始まったのに対して、ママの世界は人間の内面*のミラーリングで始まる。人間の内面*のミラーリングというのは、他者が見ている世界ではなく、見ている他者を自分がコピーするということである。つまり、他者の眼差しとそこに見えているであろうモノの関係を、自分の眼差しと実際に見えているモノの関係に重ね合わせて、自分にも眼差しがあるということをイメージしていくということだ。だから、ママの世界はパパの世界と違っていつも眼差しに溢れていると言っていい。ママが僕を見つめる。ママの眼差しの中には当然、僕の眼差しが映っていることだろう。そうやって、主体は自分がママのような眼差しを持った存在であるということをイメージし始める。これがあのラカンのいう鏡像段階仮説だ。
幼児は鏡の中に自分の身体のまとまりを見出し、躍り上がって手をたたいて大喜びする(ラカン)——まぁ、こうした言い方はかなりの誇張だとは思うが、いずれにしろ、無意識の主体はママの眼差しの中にママと似たような存在を見出し、それがボクであることに気づき始めるという考え方に、僕自身は疑いを挟めない。この状況をケイブコンパスで示すとおおよそ次のような感じになる。
ステージ1………主体はψ2(ママの眼差しとそのモノの見えの関係)を使って、ψ*2(ボクの眼差しとモノの見えの関係)を見つける。
ステージ2………主体はψ4(ママの眼差しとそのモノ一個全体の見えの関係)を使って、ψ*4(ボクの眼差しとモノの一個全体の見えの関係)を見つける。
ステージ3………ψ6(ママのボクの身体に対する眼差し=他我)を使って、ψ*6(ボクのママの身体に対する眼差し=自我)を見つける。
ステージ4………これはψ8を使ってψ*8を見出すことに対応するが、その具体的な描像は現段階ではいまひとつ不明。相互了解や間主観性の働きを持つと考えられる。
※ここに書いている「自我」とは、いわゆる近代的自我(コギト)ではないので注意。コギトの生成は次の段階(ψ11〜12)になる。
こうして、ボクがψ*2、ψ*4、ψ*6……を見出すことによって、ボクはほんとうの自分(無意識の主体)であるψ1、ψ3、ψ5………という外面世界に起こる出来事を対象化して見ることができるようになる。ここに生まれるのがヌース理論が感性(カンセイ)と呼んでいるものである。感性は「人間の外面の意識」を作り出す。人間の外面の意識とは、ラカンの精神分析にいう想像界に対応していると考えてもらっていい。僕なりの言い方をすれば「こころ」だ。ここでいう「こころ」とは情緒、感情などを含む情動が活動する世界のことである。つまり、ヌース理論の考え方では、「こころ」とは決して脳の中で起こってるシナプスの電気的反応でもなければ心臓部分にあるハートに宿る魂のことでもなく(いや、最終的には感性の位置は心臓と深い関係を持ってくるが……)、見えている世界そのものに立ち上がっている意識の働きだということになる。だから、たとえば花を見て花が美しいと思っているのは「花自身であるボク」だと考える。喜怒哀楽を繰り返しているボクの心の本性とは、目の前に見えている世界そのものなのだ。世界は自分自身を対象として見るために肉体を作り出しているということである。
こうした考え方は別に新しい考え方ではない。現象学の流れを受けた哲学者の大森荘蔵氏は、主体は知覚正面そのものだと主張し、「無脳論」と銘打って近頃全盛の唯脳論に食ってかかっている(残念なことにもうお亡くなりになられたが)。ヌース理論は大森氏の考え方をラカン理論や現象学などとすりあわせながら、シリウスファイルの情報等を複合して、人間の自省的意識の立ち上がり方を空間構造として具体的に追求しているだけである。ただ、もっとも、このときのψ10(感性)が中性子と関係があると言ったら、大森氏も引いてしまうかもしれないが。。
中性子とはヌースでは「共性(キョウセイ)」を持つものとして解釈される。「共性」とは想像的な自我が、他者との間で相互理解のための間主観性を働かせる方向を持っている部分である。それは単純に、思いやりのある、とか、相手の立場に立って、とかいう表現で表される心的態度のことと考えていい。上図に即して直観的に表現すれば、ψ7として表されている精神(陽子)の方向性を外面の意識が忠実になぞっているかどうか、ということだ。もし、なぞっていなければ、それは崩れる。ψ10はあくまでも思形の反映であるから、それ自身は能動的に自立した力を持っていない。この崩れが物理学が中性子崩壊と呼んでいるものではないかと考えている。中性子を単に物質を構成する核子の片割れぐらいにしか思っていない人たちには、この言い回しは妄想狂のトンデモ論に聞こえるかもしれないが、空間構造と認識の関係をケイブコンパス上で丹念に追いかけていくと、そうした予想が出てきてしまう。致し方ない。
ついでに、もう一つ大事なことを言っておきたい。これもトンデモの誹りを受けることだろうが、おそらく、ほんとうの主体として息づいている知覚球面(ψ5)そのものは、身体の内部に存在する空間ではないだろうか。僕らが、目の前に見ている世界を身体の外部と認識しているのは、思形が身体と知覚球面を分離させる認識を提供しているから起こっていることのように思えるのだ。想像界における意識活動(感情に代表される)がもろに身体に反応することからも分かるように、実際に目に見えている世界は身体の内部に存在している空間と考える必要があるように感じる。つまり、わたしの「前」に開示している人間の外面の空間においては、見るものと見られているもの、触るものと触られているもの、聞くものと聞かれているもの等、知覚と知覚対象はすべて二而不二なるものであり、本来、知覚とは身体が外界を察知するために働かされているものではなく、身体の内部のみで完結して起こっているできごとと見なさなければならないのかもしれない。
phenomenon(フェノミナン=現象)とは、psyche(ブシュケー=魂)とともにあるphysical(フィジカル=肉体的)な存在なのである。その意味で、俗にいう外在世界とは、言語と概念によって構成された「不在」の空間と言っていいのかもしれない。実際、横から見た世界なんてものは知覚されている世界ではないのだから、これは当たり前と言えば当たり前だ。とどのつまりは、人間は不在の中に言葉の力を借りて在を見ているということにすぎないのだろう。こうした空像の世界をヌース理論では「付帯質の妄映」と呼ぶ。人間の内面にはおそらく何もない。そこは闇だ。
——身体は出血している。人間とは存在の外傷である。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: ケイブコンパス, ラカン, 付帯質, 内面と外面, 大森荘蔵