8月 16 2017
今こそ、新しい〈知識(グノーシス)〉を!!
前回の〔3〕で書いた「位置の変換」という概念のフレームワークを簡単に図示すると下図のようになる。
これは持続(精神)が〈物(物質)〉として現前してくる最も根底的な仕組みを表している。ブルーの線が持続、自他の協同によって形作られる球体が〈物〉を表すと思ってもらえばよい。
わたしたちの意識においては、〈物〉は時間と空間の中でしか現前してこないわけだが、持続はSU(2)の編み目を通じて、時間と空間という結果を作り出し、その結果の中で原因の編み目の方を〈物〉として表現する。
ハイデガー風に言うなら、これは「現前するもの」と「現前すること」の一致と言えるだろう。わたしたちは持続空間をこのようにトポロジカルに思考することよって初めて、いかなる媒介や綜合もなしに〈物〉をそれ自らで存在させることができてくる。
実際、このSU(2)は、〈物〉の母胎である陽子や中性子の構成原理になっている。
いや、正確に言うなら、物質の根底にあるこうした構造がわたしたちに意識が生じる条件を与えている、と言ったほうがいい。わたしたちは〈物〉によって〈物〉の方へと誘われている存在なのだ。意識は”そこで”生じている。
わたしたちは今まで霊魂を「目に見えない」ものとしていろいろな言葉で語ってきた。こうした形而上学が常に「悪しき形而上学」で終わってきたのも、その「見えなさ」を単なるイマジネーションの中に思い描こうとしてきたからだろう。
しかし、その「見えなさ」の正体とは、実は奥行きであったということ。そして、それは持続であったということ。そこにはわたしたち自身の生の息づきがあられもない高次の幾何学として地理化されている。
今こそ、新しい〈知識(グノーシス)〉を!!
8月 18 2017
「アマツカミってる」と「クニツカミってる」
今回は東京に出張。某出版社社長から日本民族とヌーソロジーの関連について是非、一冊書いて欲しいと依頼があった。日本人のアイデンティーが消えかかっている今だからこそ、是が非にもと(笑)。ただ、このお題については、すでに別の出版社から2年ほど前にいただいている。
カタカムナ……古事記……物部神道を横断する論理立てをヌーソロジーの観点から組み立てて、一つの霊的哲学SFとして展開する構想を練ってはいるものの、今現在の某国与党の状態があまりにアマツカミってる状態なので、書けないでいる。というか、書きたくない、というか。。
まぁ、いくらスピ系の出版物とは言え、「日本人は金(きん)」などと書いて、読者に勘違いされたくないわけだ(笑)。
まぁ、一流、二流、三流を問わず、ものを書く人間にとっては、誰もが筆を重く感じる時代になっているのではないかと感じる。世の中がこうした風潮になってくると、「人間」というドグマの圧がどこからともなく重くのしかかってくる。なんとか、日々、この圧に負けない別の身体性を!!と頑張ってはいるのだが。
このドグマの圧というやつ。出処をたぐってみると、やはりカガミにある。カガミは常に「これがオマエだ」という声を響かせているわけだが、そのとき名指しされた「ワタシ」は鏡像なのであるから、実像ではない。実像はいうまでもなく、「それはオマエだ」と告げ知らせるカガミにある。問題はそのカガミがある場所にまでどうすれば辿り着けるのかということ。これが、かくいう「別の身体性」のことなのだが、その進路を示しているのが内的太陽なのだ。
本来、内にある太陽を外に見てしまうなら、「ワタシ」はその実像と外的に同化してしまい、単に太陽の威を借りただけの邪悪な人間にならざるを得ない。「国家のため」とか「民族のため」といった安っぽい台詞を馬鹿の一つ覚えのように吐く権威主義的パーソナリティーがほんと最近、増えてきた。さっき言った「アマツカミってる」とはこうした所作のことを言う。
こうしたカガミの話を”たかだか神話”として嘲笑しないように心がけないといけない。内的太陽は潜在性の中においてはリアル(実在的)なものであり、個体化の原理として「ワタシ」の死後の生を保証しているものでもあるからだ。クニツカミが幽玄の世界を任されたのも、この内的太陽の保全のためだと考えよう。
あらゆるものには表と裏がある。太陽とて例外ではない、ということ。表だけではヒルコ。中身がないのだから当然グニャグニャ。表裏揃って初めて、ヒルコは姿を消す。そのあたりは推して知るべし。
※写真はhttp://tenkataihei.xxxblog.jp/archives/51878468.htmlよりお借りしました。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0