3月 20 2015
いつもは喜ばれる固い棒も、よくないときがある
今週の日曜日は東京、渋谷でヌースレクチャー。テーマは「ドゥルーズ哲学とヌーソロジー(後編)」ですが、中身は半分ぐらいがフロイトとラカンの精神分析の話になると思います。それを通して『アンチオイディプス』の話をして、たぶん時間がいっぱいになるかなぁ。。
おそらく、参加者には精神分析が見ている人間の無意識構造とヌーソロジーが用いるケイブコンパスとの関係がかなり明確に理解できるようになるのではないかと思ってます。難解な精神分析もヌーソロジーを媒介すると、「あっ、そういうことだったんだ、なるほどね」となると思います(笑)
もちろん、ヌーソロジーが面白いのは、これが今まで話してきた素粒子世界の構造とガッツリ、重なり合ってくるところね。これがかなりアクロバティックというか、スリリング。面白いよ。皆さん、是非、来て下さい。よろひく(^o^)/
ただ一つ懸念はドゥルーズの時間論。これがうまく説明できるといいんだけど。。
3次元空間は世界を真横から見ている意識が作っているんだよ。
心理学的に言うと、この意識の眼差しがいつも君を見張ってる。超自我ってやつだね。
この超自我は奥行きを幅と見ているわけだから、奥行きに君が気づかないように「進入禁止」のつっかえ棒を入れ込んでいるんだよね。君は奥行きに入りたくて仕方ないのに。。
まぁ、もっとも、このつっかえ棒が入ってることによって、君は物をしっかりと見れるし、言葉を話すこともできるんだけど。でも、本当の君は奥行きに入りたがってるの。ほんとだよ。
入りたいけどつっかえ棒がある。入りたいけどつっかえ棒がある。つっかえ棒がもう折れそうで苦しいよぉ〜。とわめいているのが、超自我とエスの間に投げ込まれた自我というやつだね。
たまに、あまり固いつっかえ棒だと、真ん中でポキンと折れてのどに突き刺さって絶命することもあるから気をつけてね。
そして、「もうそろそろ、このつっかえ棒はずそうよ」と言っているのがヌーソロジーだと思えばいいんじゃないかな。エスがあるところ、そこに我々は到達しなければならない——by フロイトってな感じでね。
3月 27 2015
カタカムナの気持ちのよさ
カタカムナの気持ちのよさは、それを「直観物理」と明言するところにあるね。もちろん、ここでいう物理とは、現代科学の物理ではなく、日本古来の「モノ」の思考に基づいたコトワリのこと。カタカムナは霊的唯物論だ。楢崎さんがカミゴトがかってしまった神道を批判する気持ちがよく分かる。
カタカムナにいうアマとカムとは、OCOT情報のいうNOSとNOOSにそのまま対応させることができそうだ。共に7階層(ナナヨツギ)を持ち、互換を繰り返しながら、「13」で互いが互いの流れを交差する。この交差に生じているのがアマナとカムナが意味するところだろう。
アマからカムがアマナ、カムからアマがカムナ。人間の意識はこのアマナの働きによって生じているカムへの潜在的変換性として働いている。アマナはアマをアメからマリ、そしてタマへと重合していくプロセスを持つが、そこに人間の精神核として形成されているのがアマヒとしての太陽ということになる。
カタカムナの思念の構造がOCOT情報とほとんど同じであることに、いまさらながら驚いている。カタカムナにより一層の強度を持たせるためには、いつも言うように、アマを〈幅〉、カムを〈奥行き〉として思考することが不可欠だろう。今、人間はその結接点としての〈カミ〉の位置にいる。
カタカムナとはカムナのカタチのことである。カムに内在する7階層のカタチを無意識ではなく、自意識的に抽出していくこと。これは人間の無意識構造(超越論的構成)を作り出している持続空間の幾何学(エーテル的形姿)を思考(カムカへル)によって彫塑することであり、このことがOCOT情報のいう「入神(精神に入る)」を意味する。ψ13〜14の顕在化。
既成の学問の中で、このカムの方向に認識を接続させることができるものは現代物理学とドゥルーズ哲学ぐらいしかないんだよなぁ。ここがほんとに苦しいところ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カタカムナ関連 • 0 • Tags: OCOT情報, カタカムナ, ドゥルーズ, 奥行き