11月 9 2010
新書を書くということ
ある大手の出版社で新書を手がけることになった。友人の編集者からの依頼だ。過去に3冊の著書を単行本という形式で上梓はしているものの、それらはいわゆるニューエイジ、スピリチュアルというジャンルで一括りにされる類いの書物であって、対象とする読者もいわゆる精神世界オタク?という限られた範囲の読者でしかなかった。しかし、新書は違う。新書とは一般に「現代人の現代的教養を目的」として出版されている書籍群である。読者対象はあくまでもスタンダードな常識を持った人たちだ。そんな場所にヌーソロジーが果たしていきなり割り込んで行けるものなのか——最初は正直、少し戸惑いもあったが、押し寄せてくる波にはいつも無条件に乗ること。それが僕の信条である。ボコボコに叩かれて出版社に迷惑を掛ける恐れも大アリだが、そこは持ち前のチャレンジ精神で乗り切るしかない。それに、何より、ヌーソロジーに可能性を見てくれている友人の声に応答する責任が僕にはある。そんなかんだで、新しい環境に引っ越すには、まずは現地の下見ということで、普段はほとんど読まない新書だが、興味のあるジャンルのものを7〜8冊仕入れてきてざっと眼を通してみた。
当たり前の話しだが、ほとんどが著名な学者さんの手にによるものなので、どれもほんとにしっかりと書けている。特に科学系のものはエビデンスもしっかりしていて、一流の学者さんになればなるほど学識も広く、また海外留学など国際的な経験も豊富なので、話題をそのときどきの論旨に沿って自在に広げ、読者のイマジネーションを喚起し、いわゆるクラルテとエクステンドのバランスがよく取れたものがほとんどだ。やっぱり、プロの一流の学者さんというのは大したもんだ。ただ飯は食っちゃーいない。
さて、こういう由緒正しき場所に素性の分からない野良猫が切り込んで行くというのは正直、大変だ。昔、音楽をやっていた頃、自分のアルバムが出るか出ないかという時期があって(結局は出せずじまいに終わったのだけど)、そのとき自分のアルバムがビッグネームのアーティストのアルバムと同じ棚に陳列されることを想像しただけで言い知れぬ罪悪感を感じたことがあった。今回はなぜかそうした気後れは全くない。たぶんヌーソロジーに関してはそのポテンシャルの深さと着眼点の斬新さに根拠のない自信を持っているのだろう。ということで、勇んで原稿を書き出してはみたものの。。
正直、筆がスムーズに進まない。文字が書かれることを拒んでいる感じ。。とほほ。第一章を書き始めた時点で、早くも頭の中で警戒警報が鳴り始めた。
「コンナ、チュウショウテキ、ナ、ナイヨウ、バカリ、デハ、ドクシャ、ハ、トチュウ、デ、ホン、ヲ、ナゲダス、コト、デショウ」
「ドクシャ、ノ、ジッサイノ、セイカツ、ニ、ドノヨウニ、カンケイ、シテイル、ノデスカ?」
「ムズカシ、スギマス。モット、ヘイイ、ニ、カクコト、ヲ、ココロガケテ、クダサイ」
これはOCOT情報ではない。一字一句、キータッチを進めれば進めるほど、僕の頭の中に居座っている良識という化け物がアラートを連発して、進路変更を促してくるのだ。しかし、そんな進路に進んで行けばオレのオレらしさは死ぬだろう。悪いが、そっちに行くわけにはいかないんだよ。。う〜ん、こりゃ、壮絶な戦いになるな。。
そもそも友人の編集者が僕に原稿を依頼してきたのは、このブログで以前連載していた「時間と別れるための50の方法」を読んで、ここまでくれば自分の出版社でもいけるんじゃないかと思ったのがきっかけだ。彼はもう20年近くもヌーソロジーを応援してくれていて、その成長、発展具合をよく知っている。彼によれば、現時点での内容にあと少し読者への親切心を加えれば、一般の人でも十分に理解可能になるのではないかというのだ。
彼の問題意識は現代人をいかに時間の檻から抜け出させるかにある。現代人は資本主義機械の部品と成り果ててしまって、時計やカレンダーといった物理的時間の目盛りに縛られすぎている。ヌーソロジーの世界観に少しでも触れることによって、その呪縛から少しでも解放させてあげることができるのではないか。そう感じているようだ。空間に対する幾何学的思考を通して、時計の時間の正体を明らかにし、時間の本質が実は全く違った場所にあり、その本質的時間の方に生の実存を感じとってもらうような感覚的装置の設計図を用意すること。これが彼が僕に依頼してきた内容である。こうした内容は言語的にはすでにベルクソン以来、20世紀の哲学が何度も試みてきていることだけど、それを単に思弁的なロマンティシズムに終わらせるのではなく、たとえ仮説であってもいいので、実在的=科学的な論拠を添えてなるべく一般の人にも分かりやすく提出すること。そういう主旨で企画は出来上がってはいるものの。。。ひぃぃぃ〜と悲鳴を上げてしまいそう。でも、とにかく、もがいてみるしかないのです。
11月 22 2010
ドゥルーズのバトン
最近、ドゥルーズの本ばかり読んでいる。ドゥルーズに初めて触れたのは今から10年ちょっと前ぐらいだったか。丁度、ヌースアカデメイアのサイトを立ち上げた頃だった。友人でもある詩人の河村さんに、半田さんはドゥルーズを読むといいんじゃない、と言われ、最初に何気に手に取ったのが『アンチ・オイディプス』(ガタリとの共著)という本だった。今思い出しても強烈な体験だった。読み始めると同時に、それこそ頭蓋骨にハンマーが振り下ろされるような一撃を喰らった。なぜなら、それまで、OCOT情報と格闘しながら自らの拙い思考で整備していた無意識機械の構成部品の数々が、この書物を手にしたことによって、まるでマジンガーZの合体シーンのようにカシーン、カシーンと金属音を響かせながら一挙に脳内に組み上がってきたからだ。そうやって姿を表したのが現在ヌーソロジーの骨格として使用している「ケイブコンパス」というフィギレーションである。
『アンチ・オイディプス』が打ち出すビート感とドライブ感に一発で魅せられた僕は、その後、『千のプラトー』『差異と反復』『哲学とは何か』など、K書房新社から出ている高価な単行本を買い求めては、ドゥルーズが見ている内在野の風景が果たして、OCOT情報から僕が読み取ったもの(OCOT情報ではドゥルーズが概念化している内在面のことを「付帯質の内面」といったような言い方をする)と同じものなのかどうか、それを確かめたい一心で読み漁った。しかし、悲しいかな、ドゥルーズの本は、哲学の基礎教育を受けていない僕のような素人にはどれも皆、難解なものばかりだった。書物全体に散りばめられている語彙の出所は、哲学はもとより、神話、古代思想、神学、文学、絵画、音楽、映画etc…と広大な射程を持っていて、聞いたことのないような単語でベージが埋め尽くされていることも多々ある。西洋の人文科学史の全体を覆い尽くす知の全体からこぼれ出してくるその語彙群の夥しさは、まるでカマキリの孵化を見ているかのような強度で、時折、目眩を誘発させることもある。
まぁ、しかし、こうした語彙の難解さは知識の補強で済むことではある。実はドゥルーズの難解さの本質はそんなことではない。ドゥルーズは明晰さなどは微塵も追求してはいない。つまり、読者に自分の哲学を理解してもらおうなどとはこれっぽっちも思っていないということだ。このへんはOCOT情報に酷似していて面白い(笑)。つまりドゥルーズは哲学の先生でもなければ、哲学の評論家でもない。ただ生粋の哲学者だということだ。「哲学とは概念を創造することだ」というドゥルーズ自身の言葉にもある通り、ドゥルーズは概念のクリエーターであり未知の思考そのものを生きている人である。ここでドゥルーズがいう「創造」とは、〈表象=再現前化〉が支配する自我の同一性から解放された思考の所作を意味している。一般に思考というものが〈表象=再現前化〉のループの中で展開されるものである限り(実際、思考というものは事物の自己同一性が担保されていなければ成り立たない)、ドゥルーズのいう創造とは思考不可能なものを思考することの意となる。しかも、ドゥルーズは、自身の思考の中で次々と切り開かれてくる概念の蠢きをそのまま自分自身の「書く」という行為の中へと直裁的に反映させる表現者でもあった。つまり、彼が作り出す諸概念は「エクリチュール機械」の中に即座にインプットされ、その文法、構文、文体を通してすぐさま「表現されたもの」という事件として出現してくる――意味につかまらないこと、主語の同一性に捕縛され直線的になりがちな論説に絶えずクリナメン(ずれ)の一撃を与えること、同一の主題に常に変奏のリトルネロを与えること——そうやってドゥルーズの文体は常に神経症的な記述と分裂症的な記述の間を意図的に反復させながら、ロジカルに文脈を追おうとする読み手の理性の関節を脱臼させようとさせるのだ。
こんな化け物のような書き言葉の束を相手に、たった一つの動機で、ただどうしてもOCOT情報を読み解きたいというだけの動機で、僕なりの「差異と反復」が、OCOT情報とドゥルーズ哲学の間を巡って今もまだ執拗に続いているというわけだ。
哲学書というものは最低でも10年ぐらいかけて読むべきものなのだろう。ドゥルーズを知ってからというもの、自分の哲学的無知さ加減をいやというほど知らされ、その間にまがいなりにも、スピノザやカント,フッサール、ベルクソンやフロイトなどをつまみ読みした。その甲斐あってか、最近になってようやく、西洋の哲学が一体何を問題としてきたのか、その全体像というものが茫洋と見え始め、それがフィードバックされて、以前よりもさらに高い解像度でドゥルーズの思考の軌跡が追えるようになったように思える。あと、ヌーソロジーの側面から、ケイブコンパスがその内部に孕んでいる空間構造をかなり緻密に思い描けるようになったことも手伝っているのかもしれない。とにかく、ドゥルーズの言ってることの輪郭がひとりよがりではあれ、極めてクリアにつかめるようになってきた。それと並行して、OCOT情報の蓄積があるおかげだろうか、一方でドゥルーズには見えていない部分も見えるようになってきた。ドゥルーズが自分の思考を表現しようとして、その比喩が不十分である部分、また、読み手にどうしても誤読を誘ってしまっているような部分、そして、ドゥルーズ哲学に根本的に欠如している部分等。。。(特にハイデガーの存在論的差異にニーチェの永遠回帰を接合させた部分の論証が具体的に展開されている箇所が全く見当たらないのが個人的には物足りなく思っている)
ソーカル事件でドゥルーズを初めとするポストモダンの思想家たちが厳しく批判されたせいもあるのだろう。今の思想の世界では、もうドゥルーズは終わったなどと言う人もいる。ドゥルーズを21世紀に甦らせるためには、ドゥルーズを解説するのではなく、ドゥルーズに欠如した部分を補い、かつ、その完全化したドゥルーズを実証を持って証明することが必要だ。そのためにはまずは潜在性としてうごめいてきた哲学的な諸概念を実在性としての物理学的な概念へと接続させることが絶対条件である。僕が執拗に、哲学者たちが語っているアプリオリ(超越論的構成)とは素粒子構造のことなのだと言っているのもそのあがきのようなものである。そして、それはドゥルーズのライプニッツ論やイデア論からすれば全く持って正統な主張のように思える。そして、その〈差異化=微分化〉の思考自らがバロック的な「襞」となって、実在の中に〈異化~分化〉としての新しい物質的表現を持たなくてはならない(それが反物質となるか超対称性物質となるかはまだ分からない。新しい原子ともいうべきか。)。つまりは、ドゥルーズの生成論を現実としての生成へと転換しなくてはならないということだ。それによって、思考は〈思考する私ー自我〉という思考システムの同一性から離脱し、生成の内在面を駆け抜ける生ける強度となって新しい存在への道を切り開くのである。晴れてこの切り開きが起こった暁には、哲学は相転移を起こし、哲学自身を一つの宇宙的な創造行為へと変態させることだろう。そこではもう、思考と実在を区別する術はない。すべてはありてあるもの、つまり存在の一義性の中に融一し、世界から人間という体制は消え去っていく。元素界というトランスフォーマーの空間が顕現するのだ。
この一点のみにおいてヌーソロジーはドゥルーズのバトンをしっかりと受け継いでいる。この一点のみにおいて。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: アンチ・オイディプス, カント, ケイブコンパス, スピノザ, ドゥルーズ, ニーチェ, ハイデガー, フロイト, ベルクソン, ライプニッツ, 付帯質, 差異と反復, 河村悟, 素粒子